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2023年11月08日00:03

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11月08日の日記

今日の出来事:1584年−蘆名盛隆暗殺事件、1600年−関ヶ原の戦い:佐賀関の戦い、1868年−戊辰戦争:庄内藩降伏、1895年−ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見、1923年−ミュンヘン一揆

今日は、蘆名盛隆暗殺事件です。蘆名盛隆は、二階堂盛義の長男として生まれました。1565年に父・二階堂盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏し、人質として会津に送られました。しかし、蘆名氏第17代当主・盛興が継嗣を残さずに早世したため、蘆名盛興未亡人・彦姫を正室に迎えて、蘆名盛氏の養子となって第18代当主となりました。1580年に蘆名盛氏が死去すると、実権を掌握しました。蘆名盛隆は、父・二階堂盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家・二階堂氏の勢力回復に務めました。1584年に蘆名盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて、栗村盛胤、松本行輔らに黒川城を占拠されましたが、これを素早く鎮圧して長沼城主・新国貞通を攻めて降伏させました。11月8日、黒川城内で縁側に座って鷹に餌をやっていた蘆名盛隆は、背後から突如斬りかかって来た寵臣・大庭三左衛門に斬殺されました。享年23でした。大庭三左衛門は逃走を図りましたが、蘆名盛隆の小姓に追われ、連絡を受けた家臣・種橋大蔵によって殺害されました。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、母・彦姫が隠居した兄・伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏を纏める事になります。しかし、伊達輝宗の跡を継いだ子・政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻めました。さらに、蘆名亀王丸も1586年に疱瘡を患って夭逝し、20代当主の座を巡って伊達政宗の弟・小次郎と佐竹義重の次男・義広の間で争いが起き、蘆名家中は混迷します。この蘆名盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早める原因となりました。

次に、関ヶ原の戦い:佐賀関の戦いです。「石垣原の戦い」で降伏した大友義統は、中津から大坂の黒田長政へ移送されました。黒田官兵衛の嘆願により助命され、常陸国宍戸に幽閉されて1605年に没しました。中川家を出奔して旧主・大友義統についた田原親賢は、謝罪して帰参しましたが、帰参条件として太田一吉の「臼杵城攻め」に参加しました。中川秀成の客分与力であった田原親賢と宗像鎮統は、大友勢に加わるために出奔しました。その際に中川家の旗印を盗み出して「石垣原の戦い」に臨みました。これを見た黒田官兵衛は、徳川家康に中川秀成が西軍についたと報告しました。中川秀成は弁解をしましたが疑いは解けず、家康は加藤清正に追討を命じました。加藤清正は情勢を見定めるため、まず小西行長の宇土城攻撃を優先し、そこへ中川秀成は人質を送って更なる弁明を試みました。中川秀成は更に旗幟を鮮明にするため、西軍の太田一吉を討つために臼杵城攻撃を開始しました。「石垣原の戦い」に敗れた田原親賢は、中川家船奉行・柴山重成を頼って今津留に落ち延びていました。中川秀成は柴山重成にも臼杵城攻撃を命じたため、田原親賢も中川勢として同行し、家老の中川長祐らの軍勢と合流しました。両軍は佐賀関で激突し、中川勢では家老・中川平右衛門、田原親賢、柴山重祐(重成の養父)ら230人あまりが戦死し、負傷者も200人以上を出しました。太田一吉は「関ヶ原本戦」の敗戦を知ると臼杵城を黒田官兵衛に明け渡し、落ち延びました。こうして中川家では多くの犠牲を払いましたが、家康から信用され所領を安堵されました。

その次に、戊辰戦争:庄内藩降伏です。庄内藩は「秋田戦争」より撤退し、「長岡山の戦い」でも撤退しました。こうして、全軍が庄内領に撤退しました。すると米沢藩より、庄内藩に和睦を勧める使者が行きました。庄内藩の使者が米沢藩の先導で、参謀局に降伏謝罪の嘆願書謄本を提出し、古口の鎮撫軍の本営で参謀・黒田清隆に面会し、降伏を申し出ました。庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許しませんでした。こうして鶴岡城は開城し、西郷隆盛、黒田清隆、船越衛が大軍を率いて入城しました。庄内藩主・酒井忠篤は城を出て禅龍寺で謹慎しました。黒田清隆らは藩主を隣国で謹慎させることを主張しましたが、西郷隆盛の助言により、庄内藩に対する処遇はきわめて寛大となりました。新潟で戦死した石原倉右衛門を戦犯として届け出て、酒井忠篤の弟・酒井忠宝に5万石減の12万石での酒井家存続が許されました。庄内藩士は西郷隆盛に感謝し、後の「西南戦争」では庄内藩士が西郷軍に参加するほどでした。

その次の次に、ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見です。レントゲンは、ドイツの物理学者です。ヴュルツブルク大学の教授として招かれ、同年に発表した「均一電場内での誘電体の運動により生じる電気力学的な力」という論文ではマクスウェルの電磁理論を実験的に証明し、レントゲン電流と呼ばれる現象(変位電流)を発見しました。1894年には同大学の学長に選ばれました。ヴュルツブルク大学では圧力をかけた時の固体や液体の物性変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始めました。これが翌月の「X線」の発見へと繋がりました。当時、ハインリヒ・ヘルツやフィリップ・レーナルトらによって真空放電や陰極線の研究が進められていました。陰極線は電子の流れですが、金属を透過する事から当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていました。レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、レーナルトに依頼して確実に動作するレーナルト管を譲り受けました。レーナルト管は管全体が弱い光を帯びるので、陰極線を見やすくするためにアルミニウム窓以外を黒い紙で覆いました。さらに、アルミ窓はないが似た構造のクルックス管からも陰極線のようなものが出ているかも知れないと、レントゲンは考えました。クルックス管は陰極、陽極には共に白金が使われており、これに20KV程度の電圧を印加するので、陰極から出た電子が陽極の核外電子を弾き出して遷移が起き、白金の特性X線が生じていた事が後にわかりました。レントゲンは、もしも陰極線が出るならクルックス管よりも弱いはずだと思い、見やすくするため同様に黒い紙で全体を覆いました。さらに、検出のために蛍光紙(シアン化白金バリウムの紙)を用意しました。1895年11月8日、ヴュルツブルク大学でクルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付きました。この発光は光照射によって起こりますが、クルックス管は黒いボール紙で覆われており、既知の光は遮蔽されていました。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲンは考え、管から2メートルまで離しても発光が起きる事を確認しました。これにより、目には見えないが光のようなものが装置からでている事を発見しました。後年この発見の時、何を考えたか質問されたレントゲンは、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えています。実験によって以下の事が明らかになりました。
・1000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
・薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
・鉛には遮蔽される
・蛍光物質を発光させる
・熱作用を示さない
また検出に蛍光板ではなく写真乾板を用いる事で、鮮明な撮影が可能になりました。光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらない事から、レントゲンは放射線の存在を確信し、数学の未知の数をあらわす「X」の文字を使い仮の名前として「X線」と名付けました。透過性の高い「X線」の発見はただちに「X線写真」として医学に応用されました。この功績に対し1901年に最初の「ノーベル物理学賞」が贈られました。レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関して特許等によって個人的に経済的利益を得ようとは一切せず、ノーベル賞の賞金はヴュルツブルク大学に全額寄付しました。2004年には、原子番号111の元素に彼の名前にちなんだ「レントゲニウム」という名称がつけられました。理由はレントゲンが「X線」を発見してからおよそ100年後に111番元素が発見されたからです。

最後に、ミュンヘン一揆です。「第一次世界大戦」中の「タンネンベルクの戦い」の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ、ヒトラーらドイツ闘争連盟がミュンヘンで起こした、ヴァイマル共和国打倒のクーデター未遂事件です。ムッソリーニの「ローマ進軍」にならい、ベルリン政府を武力で掌握しようという計画でした。しかし、ナチス党を除く国家主義団体の指導者を召集し、体制が整った後の「ベルリン進軍」を決議し、事実上ベルリン進軍計画は延期されました。ヒトラーらドイツ闘争連盟はナチス党の幹部であったショイブナー=リヒターの起草により、蜂起して州政府を制圧する方針を決定しました。11月7日には主要機関をドイツ闘争連盟員が制圧する武装蜂起計画が策定されましたが、ヒトラーは新たな計画を提案しました。そして、ヒトラーの計画が採択されました。11月8日午後8時30分、カールが演説をしていた時、ヘルマン・ゲーリングが率いる突撃隊員がなだれ込みました。同時にホールに待機していたヒトラーは、ルドルフ・ヘスらの部下を引き連れて演壇に進もうとしました。ホール内は大混乱になり、ヒトラーはブローニング拳銃を上に向かって発砲し「静かに!国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」と叫びました。そして三人の首脳に生命の保証を約束し、ドイツ闘争連盟を中心とする臨時政府への権限委譲と、「ベルリン進撃」に協力する事を依頼しました。ヒトラーとともに三人が演壇に立つと、聴衆によるドイツ国歌の大合唱がホール内に響き、この時点では反乱は成功したものと思えました。一方、軍はすでに一揆反対の姿勢を固めており、カールは午後10時40分にバイエルン政庁に到着し、ループレヒトから「いかなる犠牲を払っても反乱を鎮圧せよ。必要とあらば軍隊を使え」という通信を受け取りました。軍と警察ははっきりと反乱鎮圧に転じ、州警察本部を制圧しようとしたドイツ闘争連盟幹部ハインツ・ペーナーは捕らえられました。市内には反乱支持の群衆があふれていましたが、国防軍は市内要所に機銃を設置し、レームらが立てこもる軍司令部はすでに包囲されていました。一揆の首謀者たちがカールたちの裏切りを知ったのは11月9日午前5時でした。そして、レームが包囲されているバイエルン軍司令部へのデモ行進を行う事が決まりました。午前11時30分に行進が始まりましたが、このときデモ隊はほとんど丸腰でした。12時30分頃、デモ隊がオデオン広場の将軍廟前にさしかかった時、一発の銃声が響きました。この銃撃で一人の軍曹が死亡し、その直後に警官隊はデモ部隊に対する一斉射撃を行いました。後方の国防軍装甲車も空に向けて威嚇射撃を行いました。ヒトラーへの銃弾は党員ウルリヒ・グラーフが身を挺して防ぎましたが、ヒトラーと肩を組んでいたショイブナー=リヒターが銃撃で即死して倒れ、ヒトラーは彼にひきずられて前にのめり、左肩を脱臼しました。ルーデンドルフは行進を止めずに銃火の中を警官隊の隊列まで進み、逮捕されました。ゲーリングは足を負傷しましたが居合わせたユダヤ人の女性に助けられ、オーストリアに亡命しました。午後2時頃、レームもバイエルン軍管区司令部で降伏し、占拠部隊は武装解除された上で撤退を許可されました。当時23歳のハインリヒ・ヒムラーもその中に入っていました。部隊が死者の遺体を遺族の元に運んだ後、レームをはじめとする指導者だけが逮捕されました。ヒトラーはシュタッフェル湖のほとりにあるナチ党幹部エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に逃亡、ハンフシュテングルの妻エルナ・ハンフシュテングルがヒトラーの面倒を見ていました。2日後に警察が別荘に到着すると、ヒトラーは絶望してピストル自殺を図ろうとしましたが、エルナが銃を取り上げ、「あなた自身が死んでも、あなたを信じてついてきた者を見捨てるのか」と説得しました。この後、ヒトラーは落ち着きを取り戻し、ナチ党幹部に対する今後の指導を託すメモを残しました。この一連の騒動で19名(うち3名は警官)の犠牲者が出ました。現在、ビュルガーブロイケラーの跡地には、ナチスによる最初の犠牲者として3人の警官の死を弔う銘版が置かれています。逮捕されたヒトラーはランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号個室に収容されました。一方ベルリン政府では、左派政権のザクセン州と右派政権のバイエルン州に対する対応の違いに不満を持ったドイツ社会民主党が連立を離脱、シュトレーゼマンは首相を辞任しました。一揆の指導者であるヒトラーら9人に対して裁判が開かれました。裁判中も、ルーテンドルフは一貫して責任を回避しつづけ、時としてその堂々とした態度や命令的な口調は裁判長を震え上がらせるほどでした。この事が、ヒトラーをしてその代わりに一揆の中心人物とせしめる事となり、英雄としてヒトラーの人気が急上昇する事となります。判決は、ルーデンドルフが無罪となり、実刑を科せられたのはヒトラーを含む4人のみでした。判決直後、ヒトラーは日記にこの言葉を書き残しました。「卑しむべき偏狭と個人的怨恨の裁判は終わった。そして今日から我が闘争が始まる。」ヒトラーは5年の城塞禁固刑となり(半年後に保護観察処分に減刑)、ランツベルク刑務所に収監されました。ヒトラーの著書「我が闘争」はこの時期に口述で執筆されました。この後、ナチス党の躍進が始まる事になるのです。

今日の誕生日:山下奉文、佐々木行(ダークダックス)、若尾文子、アラン・ドロン、フース・ヒディンク、ジェームス小野田(米米CLUB)、笠浩二(元C−C−B)、A O I(元SHAZNA)、磯崎亜紀子、岸本斉史、岸本聖史、坂口憲二、三津谷葉子、三好絵梨香(元美勇伝)、高橋メアリージュン、小林涼子、森詩織(元PASSPO☆)、倉野尾成美(AKB48)、蠍座のミロ

今日の記念日:立冬、ココアの日、鍋と燗の日、あられ・おせんべいの日、湯たんぽの日、世界都市計画の日、ボイラーデー、いい歯の日、いい歯ならびの日、刃物の日、信楽たぬきの日、おもてなしの心の日、八ヶ岳の日、いいお肌の日、歯ぐきの日、いいバッグの日、いいおっぱいの日、梱包の日、いい泡の日、レントゲンの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気一つ「立冬」です。「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」(初めて冬の気配が現われてくる日)です。この日から「立春」の前日までが冬となります。「立冬」から「鍋と燗の日」、「ココアの日」、「あられ・おせんべいの日」、「湯たんぽの日」、1895年にドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見した事で「レントゲンの日」、アルゼンチンの都市計画家のカルロス・パオレーラが、「世界都市計画機構設立」の理想を掲げて1949年に提唱した「世界都市計画の日」、刀鍛冶が旧暦11月8日に鍛冶場の鞴の火の神を祀る「鞴祭」を行っていた事で「ボイラーデー」、「いい(11)は(8)」の語呂合せで「いい歯の日」、「いい(11)は(8)ならび」で「いい歯ならびの日」、「いい(11)刃(8)」で「刃物の日」、商売繁盛の縁起物「信楽焼」の狸の置物「いい月」の語呂合わせから「11月」、信楽狸の置物に備わる八つの縁起物の「八相縁起」から「8日」、「いい(11)輪(8)」と日本文化の代表の和の心から「いい(11)和(8)」と読む語呂合わせから「おもてなしの心の日」、「いい(11)やつ(8)」の語呂合わせで「八ヶ岳の日」、「いい(11)肌(8)」の語呂合わせで「いいお肌の日」、「いい(11)歯(8)ぐ(9)き」の語呂合わせで「歯ぐきの日」、「いい(11)バッ(8)グ(9)」の語呂合わせで「いいバッグの日」、「い(1)い(1)おっ(0)ぱい(8)」の語呂合わせで「いいおっぱいの日」、「いい(11)パック(8)」の語呂合わせで「梱包の日」、「いい(11)泡(8)」の語呂合わせで「いい泡の日」となりました。
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