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2023年11月02日18:36

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哲学の道(紅葉の季節・桜の季節)


紅葉の季節

「哲学の道」の紅葉 2017-11-28

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京都の紅葉は、いまが盛りなのだそうです。今年は紅葉が1週間ほど早いと言われていたので、もうとっくに終わっていたと勘違いしていましたら、ラジオでいまがピークとか。もちろん場所によってかなり違うとは思いますので、来られてがっかりされないよう、ピンポイントで情報を探してみられるとよいと思います。

私は昨日、素晴らしい快晴でしたので、午後になって銀閣寺道から、いわゆる「哲学の道」を歩いて若王子神社まで散歩して帰ってきました。

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 すでに落葉の季節に入っていることは確かですが、ポイントポイントの紅葉は素晴らしいものがありました。ここは疎水(分水路)べりに設けられた緩やかにカーブしながら続く散策路がとてもよくて、その水路を隔てて橋でわたる対岸には名の知られた店が味わいのある和風建築による店舗をつくったり、逆に西側の歩道側には若者やカジュアルな格好をして観光ツアーを楽しむ外人向きのカフェや小物を売る店などもできて、なかなか魅力的なコースになっています。

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 紅葉が水面に映えて、そういうポイントではみんな橋の上や、水路の畔から身を乗り出すようにしてカメラやスマホで写真を撮っています。

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 私のゴールは「哲学の道」のほぼ終点にあたるところをちょっと西へ入ったところにある若王子神社ですが、実は本当のお目当てはその門前脇にある、荒尾精という人の碑です。

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 いまどきこんな人を知っている人は後期高齢者の一部を除いてほとんどいないでしょうが、戦争中に上海にあった東亜同文書院という学校のもとになる組織をつくった軍人です。安政6年に尾張藩士の長男としていまの名古屋市西区に生まれたそうで、陸軍士官学校を経て明治18年に参謀本部支那部付となって翌年大陸(当時は「清」ですが)に渡り、漢口に楽善堂支店という表では書物と薬を売るビジネスをして、裏では中国の実情万般について広範囲の調査を行って陸軍調査本部に送るという、インテリジェンス(スパイ)の活動をしていた人です。

 彼は列強と対抗するためには、日本とともに中国も強国となる必要があり、これを日中の貿易を通して当時の中国を改造して共存共栄を図る、というふうな、いわゆる興亜(アジア主義)の思想で、それまで日本の企業が中国で商売をしてもことごとく失敗していたのは、まったく中国の実情に疎いまま日本の慣行を押し通すようなやり方をしてきたからなので、中国の実情に精通することがまず何より重要だ、というわけで、1890年、日清貿易研究所を上海に創立して、日本の若者150人を入学させ、中国語から地理、交通、財政、政治、商業等々を教え、楽善堂の経験と調査の成果を学生たちにインプットしていきます。

 こういう思想と人脈がのちの東亜同文書院に継承され、彼はその基礎を築いた人とされているわけです。いまあらためて彼の思想を考えるとき面白いのは、日清戦争に勝った日本は、日本史で習ったように、戦後、下関条約によって遼東半島・台湾島を割譲させ、膨大な賠償金(当時の日本円で約3億1000万円)を分捕ることになるのですが、荒尾はこれに反対し、「対清意見」「対清弁妄」などを書いて、中国との提携による興亜の主張を貫いている点です。これは第一次大戦後の講話会議で敗戦国ドイツへの過大な制裁(巨額の賠償金や領土割譲)に反対して席を蹴って帰国したケインズを連想しました。

 荒尾が危惧したとおり、清国の弱体ぶりが白日のもとにさらされて、以後、列強の帝国主義的な侵略が露骨になっていきますし、ケインズの危惧したとおり、ドイツは巨額の賠償に苦しみ、疲弊し鬱屈したその社会状況がのちのファシズムの勃興へとつながっていきます。

 なんでこんな一軍人の碑などを見にいったかと言いますと、実は私の亡き両親が、上海で私が生まれたときに、この人の名に因んで命名したらしいのです。それで、父の本棚には『巨人荒尾精』という明治43年に神田の左久房書房というところから発行された井上雅二という人の書いた伝記本がありました。父もこれを古書で入手したものとみえ、見返しに「書籍文物流通會」というところのラベルが貼られていて、価格の欄に150円と書いてありますから戦後に入れたのでしょう。

 実は亡父は東亜同文書院の36期生で、家が貧しい農家の次男坊だったので、上の学校へ行くには奨学金をもらうしかなく、東亜同文書院の経済分野のほうならそれが出るというので、応募して国費と県費の両方で奨学金をもらって上海の同校で学んだのです。当時の奨学金はとても多額だったようで、一部を家に逆に仕送りしていたそうです。それでも大陸ではいい青春時代を過ごしたようで、戦後も長い間、年末には定期的に柔道部の同期生とスキヤキ鍋など囲んで思い出話で盛り上がっていたのを子供心に私も記憶しています。会社勤めを終えた老後の時間を市民への中国語教室の講師をつとめたり、日中友好協会の支部の会長を引き受けたりして市民や企業の関係者を中国へ連れて行ったり、居住した都市と中国の都市との友好都市提携に尽力して実現したり、というようなことをしていたのも、若い頃に過ごした中国の経験が彼個人にとっては楽しい充実したものだったからでしょう。

 年取って中国を訪れたとき、上海の自宅で日本語やその他のことを教えて可愛がっていたという中国人の少年たちのうち何人かがホテルまで訪ねてきてくれて、涙の再会を果たしていました。日本は軍国主義で中国を侵略してずいぶんひどいことをしたことは明らかだし、東亜同文書院もスパイ学校だといまでは言われたりもして確かにそういう位置づけの学校だったのでしょうが、そういう世界で生きてきた一人の個人の生き方や思い、身近な人々とのかかわり方というのは、そういう大上段な裁断ですべてが語れるわけではありません。

 碑は大正5年に霞山会が建立したようで、いまは苔生して文字も容易には読めませんが、どこかにきっと拓本がとられるなり、印刷したペーパーがあるんじゃないかな、と思うので、いつか探してみたいと思っています。

 ついでに少し調べていたら、同文書院の学生が卒業時に中国大陸を旅行して色んな調査をして報告書をつくるのが慣例でしたが、その報告書も出版されていました。アマゾンでいくつか出ていて、新刊本はオーダーメイドのようで、36期のを注文して、親父もたぶん参加して書かれたその報告を読んでみたいと思っています。

 この碑のすぐそばにある立派なお宅が、荒尾精のかつて住んだことのある家の址らしくて、東方斎居址の文字を刻んだ石が門の脇に立っていました。

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 蔵もある素晴らしいおうちで、いまはどなたが住んでいらっしゃるのかな、と思いながら門前を通っていきました。

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 この前を通って山道を20分ほどあがると、同志社の創立者新島襄とテレビドラマで先ごろ全国に知られた奥さんのお墓があります。肺の問題でかなりしんどかったけれど、頑張ってゆっくりあがりました。

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 お墓はシンプルなもので好感がもてました。近くにはクリスチャンのお墓が多かったようです。
 こんな高台にあっては、高齢者は墓参もままならないなぁ、とは思いましたが。

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 帰りは午後4時を過ぎていましたが、叶匠寿庵で一服しました。抹茶がおいしかった。

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                      (blog  より)


桜の季節

哲学の道の桜 2021年03月27日

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 銀閣寺道あたりから永観堂の東の方まで、東山山麓を流れる疎水べりの道は、哲学者田辺元などが散策したとかで「哲学の道」と呼ばれるようになったと聞いていますが、いまではすっかり桜の名所になっています。

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 先日訪れたときはまだほとんど咲いていませんでしたが、今日見ると、ほぼ見ごろといっていい咲きっぷりで、土曜日でもあり、明日は雨の天気予報でもあるせいか、けっこう花見客が多くて、自転車に乗ったままでは走れませんでした。

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 それで、部分的に少し歩いただけで疎水べりを避け、銀閣寺道の方へ直接出てしまいましたが、銀閣寺道の入口の所から哲学の道へはいるまでの疎水べりもよく開花していて綺麗でした。
2022年04月07日

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 やっぱり桜の散るときは「哲学の道」。水路を掩うようにびっしりと桜の花びらが水面をうめつくしていました。

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 銀閣寺道から銀閣寺のほうへ歩いていく疎水の土手の道。

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 大きな錦鯉が水面の花びらの下をゆったりと泳いでいました。

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 時折風がふくと、桜の花吹雪。

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 もう楓の新緑も美しい。

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 きょうは外国人のほうが多かったですね。中国人が一番多いけれど多国籍のお客様。桜が好きなのは日本人だけじゃなさそうですね。

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 でも、もう半分近くは散ったのかもしれません。

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 散る桜、散った桜、映る桜、いろいろ楽しめます。


2018-4-3 blog
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