甲斐守護だった武田が承久の乱での勲功で安芸守護を兼ねるようになって、後に守護代を置くのをやめて現地に土着するようになたのが『安芸武田』。室町時代になって安芸守護を解任されるが、現地で脈々と一族は続いていき、後に輩出された有名人が安国寺恵瓊。
安芸守護解任後、くじ引き将軍足利義教の側近であった安芸武田の信栄が、義教の命令により若狭守護だった一色氏を誅殺し、そのまま若狭守護に就任。それを機に安芸から若狭に引っ越したのが『若狭武田』。後に朝倉義景の侵攻で没落し、イチかバチかの本能寺の変で明智側に賭けてしまい滅亡。
安芸から瀬戸内海を渡って、河野氏に仕えるようになったのが『伊予武田』。河野氏もろともに豊臣に服属したまではいいけれど、いわゆる戸次川の戦いで敗走してしまい、責任取らされるのを恐れて当主が出家。このやらかしで子孫は武士を止めて医者を家業とするようになるが、うっかり当時の医学界の頂点に達してしまい、かえって幕府や朝廷に重用されるようになった。
京都に住み着いて、室町幕府の官僚になったのが京都武田。甲斐武田を頼って都落ちしたのがいる割には、武田信虎が京都に住み着いた際に面倒を見たという話を聞かないわけで、当時の関係性はよく分からない。いちおう徳川幕府に仕えたらしいけれど、幕府においては信玄の次男(盲目で僧侶になった人)の一族が武田本家扱いなので、京都武田がどんな扱いだったのか、寡聞にして知らない。
友達と戦国談義していた際に「武田は上方感がない」とか言ったのだけれども、室町までは割りと西国大名だったんだなと。
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