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2023年10月26日20:18

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玄武神社と今宮神社

疫病封じ〜玄武神社と今宮神社

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 今日の自転車行は、たまたま二つの疫病封じの神社を訪れることになりました。

 その一つは「玄武神社」。北区紫野雲林院町の角に立っている小さな御社です。背後に高層ビルがある地域のローカルな神社に見えるのですが、これがなかなかいいのです。「玄武」は王城を守る四神のひとつで、平安京の北西の守護を委ねられているというわけでしょう。

 この神社は文徳天皇(在位850-858)皇子惟喬親王を祀っています。惟喬親王は在原業平とも親交があった才人で、天皇は彼の立太子を望んでいましたが、時の権力者良房の娘に生まれたまだ1歳にもならない惟仁親王の立太子を強行したということで、当然惟喬親王は権力から疎外される存在ということになるわけで、その種の怨念を胸に抱いて死んだ人が怨霊となるから、そういう人を祀って霊を慰め鎮めるのでしょう。この神社の場合は、親王の末裔星野茂光なる人物が元慶年間(877−885)に、惟喬親王が愛した剣を当地に祀ったのが始まりだとのことです。

フォト(玄武神社のウェブサイトより)

 玄武神社では毎年4月第二日曜に「玄武やすらい祭」が行われているそうで、これは国の重要無形民俗文化財に指定されているそうです。同神社の解説によれば、このお祭りは、平安時代の花の精の力による疫病封じ(花鎮め)に由来し、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦や太鼓の囃子に合わせて、鬼や小鬼が街を踊り歩くのだそうで、京都の奇祭の一つ、とのことです。

フォト(同前)

 花の精で疫病を封じる「花鎮め」・・・なんとロマンチックな伝承なのでしょう!言葉も素敵ですね!玄武神社の公式サイトに出ている上のような写真をみても、花を挿した風流傘も、赤い装束を纏って鉦や太鼓をたたいて踊る鬼、小鬼たちの姿も、すごくオシャレです。ぜひ一度見てみたいですね。

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 もう一つの<疫病封じ>に効験あらたかと思われるのは、紫野今宮神社。これはよく知られた神社ですが、私は今回初めて訪れました。先日訪れた、織田信長を祀る建勲神社の建つ船岡山の背後(北側)にある大きな神社です。

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 今宮神社の公式サイトのアーカイブで公開されている、江戸時代ごろの今宮神社之図。
 この土地には平安建都以前から、疫神を祀るお社があったと言われており、正暦五年(994)、都の悪疫退散を祈って、このとき御輿を造営して疫神を2基の神輿に移して鮒岡山に安置して、まあ言ってみれば疫病神を慰め奉るということで体よく山中に追っ払ったわけでしょうか(笑)。これが紫野御霊会と言われるもので、神社創建につながるきっかけになったようです。当時のことですから、いったん都に疫病が広がれば大変で、疫病も神として恐れ奉り、自分たちに災いを及ぼさぬよう祈るしかなかったでしょう。文字通り敬遠したい存在ですよね。

 さらに長保3年(1001)、霊夢によって、疫神を鎮めるために再び御霊会を催し(「修する」といううのがホントらしいけど)、新たに設けた三宇(と数えるらしいですね)の神殿とあわせて「今宮社」と呼んだのが、この今宮神社の創建ということになっているようです。

 最初の御霊会から7年しかたっていないのですが、きっとその間にも、疫病には何度も悩まされて、やむを得ずもう一度疫病神をお慰めして荒ぶるその霊を鎮めようということになったんですかね。

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 この神社の本社に祀られているのは、コトシロヌシノミコト、オオサムチノミコト、クシンダヒメノミコトの三神ですが、疫社というのがあって、そちらにはスサノヲノミコトが祀られています。なるほど、荒ぶる神スサノヲなら疫病神にも勝てそうですね。

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 境内にはなかなか面白いものがあります。これは「阿呆賢さん」(あほかしさん)という神占石(かみうらいし)で、病弱な者が心をこめてこの石を手で撫でて、体の具合の悪いところをこすると良くなる、というもの。アホでカシコイ?名前が面白いですね。

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 この阿呆賢さん、座布団を2枚、いや3枚かな、お敷きになって鎮座ましましておりました。数人の若い者がマジな顔して熱心にこの阿呆賢さまを撫でていましたが、私はコロナのご時世ゆえ、遠慮申し上げました。

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 これも境内にある「お玉の井」と呼ばれてきた井戸だそうです。お玉ちゃんって誰にことかと思って解説を読むと、これが徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院のことだったんですね。彼女は西陣の八百屋さんの次女に生まれて、公家に出入りしていた人の娘になって、関白の鷹司孝子に仕えるようになり、孝子が三代将軍家光に嫁ぐのに伴って大奥へ入るのですが、きっと器量よしで賢くて気が利いたのでしょうね。春日局に認められて家光の側室になるんですね。

 それで綱吉を生み、わが子が将軍様に成っちゃったんですから、彼女の方も大奥で並ぶもののいない権勢を誇るようになるわけで、彼女はもともとお玉さん言ったらしくて、そこから「玉の輿」という言葉が生まれたんだそうです。ほんまかいな?(笑)

 家に帰って、そうなんだって、とこの話をしたら、パートナーは、そんなこと、わたしでもとうの昔に聞いて知ってるよ(笑)。無知なのは私だけであったか・・・
 彼女の意見では、お玉さんは可愛いとかよく気が付く子だったからじゃなくて、八百屋の娘だから、きっと公家のお嬢さんなんかと違って、健康で体が丈夫そうで、腰まわりがしっかりしていて、丈夫な子を産みそうな体をしていたに違いない、それを、徳川家の将来を考え抜いた春日局が目をつけて、家光の側室に選んだんだわ、とのこと。う〜む、実にリアルですな。^^;

 そのお玉さん、いまや女性では並ぶもののない権力者で、従一位という女性が贈られる最高の身分の叙せられ、自分の産土の神であったこの今宮神社が荒廃していたのに心をいためて、巨大な投資をして神社を再興したんだそうです。おかげで今宮神社はすっかりもとのように息を吹き返したとか。

 この井戸は、そのお玉さん、桂昌院が神社に贈った井戸として残されているんだそうです。ほんとに思わぬところで思わぬ人に出会うものですね。これも異なる時間の切り口が無数に開いている古都ならではでしょう。

 きょうは疫病封じのこの2カ所だけで十分、と思って帰る途中、もうひとつ碑が門前にあるお寺を見つけて解説を読んでみました。

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 西法寺(さいほうじ)という浄土真宗本願寺派のお寺で、安居院と号しているそうです。安居院というのは、解説によれば延暦寺山内の竹林院の里坊で、平安時代以来、名僧が住んでいたところなのだそうです。
 例えば、と挙げてあったのが、藤原信西(通憲)の子澄憲(ちょうけん)僧正と孫の聖覚(せいかく)法師という方で、浄土宗の安居流と呼ばれた説法唱導の元祖。親鸞も聖覚を尊敬していて、その唱道の技術を学んで後に自分が興す真宗の布教に役立てたようです。聖覚の墓はこのお寺にあるのだそうです。

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 門の傍らに立っていたのはその聖覚さんゆかりの地だよ、という碑なんですね。彼のお祖父さんにあたる信西(出家前は藤原通憲)という人は、もともとは学者として碩学の誉が高かったのに、世を果敢なんで出家したものの、なかなかそれで世の中の動きと縁の切れない生臭坊主で、保元の乱では後白河法皇方について活躍し、法王の側近として権力を握りますが、平治の乱ではクーデターを起こされ、反信西連合軍に首を討たれてさらし首になった人です。

 私たちが高校までの歴史で習うのは、法然→親鸞までで、途中のちょっとわき道にそれる感じの澄憲だの聖覚というのは登場しなかったように思います。別段覚えなくてもいいから(「入試には出ないから」(笑))、と前置きしてそういう人たちが何をやっていたか、法然や親鸞とどうかかわるか、ってなことをちょいと喋ってくれていると、俄然歴史が人間のドラマとして面白くなるように思うのですが、どうでしょうか。

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 これは今宮神社の鳥居の前から眺めた比叡山です。



(2020年12月28日記)
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