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2023年10月26日20:10

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検非違使庁址ほか

検非違使庁址等自転車行

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 きょうは朝起きると、庭や道路にうっすらと雪が積もり、午前中はみぞれまじりで、暗くて重い雪空だったので、自転車はよそうかと思いましたが、腰痛対策ですから、重い腰を上げて走りました。

 昼食後は雪の名残もすっかり消えて道路も危険なく走れそうで、午後3時ころから晴れ間も出るらしいよ、と聞いて、遅めの自転車行で、まずはめざす「検非違使庁址」へ。この古代の名高いお役所(警察署)がどこにあったのか、確かめたい、と先日から思っていたのですが、このまえ近くをうろついたときは、分からなかったのです。

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 今日は首尾よくみつけました。場所は堀川通りを出水まで下がって、すぐ西の通り葭屋町通りという細い南北の通りにはいり、出水通りをちょっと上がった西側に碑が立っています。

 解説板によると、東を堀河小路(堀河通)、北を鷹司小路(下長者町通)、西を猪隈小路(猪熊通)、南を近衛大路(出水通)に囲まれた範囲にあったそうで、平安京の左京一条二坊七町にあたるそうです。

 いま読んでいる『保元物語』にも下巻の初めの方で、崇徳院方につく源為義が18歳のとき奈良法師を栗子山から追い返した働きによって、23歳で検非違使になったと言われている、などと京の町の治安を預かる首都警察相当のこの組織が登場します。

 弘仁六年(815)頃創設され、最初は左右両庁に分かれていたそうですが、天暦(947)の頃に統合され、左衛門府の一部を分ける形でここに設置されたのだとか。
 警察だけでなく、裁判も科刑もその役割だったようで、その権限がだんだん拡張されて、京の行政全般に及ぶようになっていたそうですが、やがてその機能は別当(長官)の邸宅に移されていき、平安後期になるとこの庁舎は廃絶されてしまうようです。

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 次のお目当てはここ、平安宮(大内裏)の外郭になっていた築地に設けられた東西南北3つずつ合計12の門のひとつで、東面中央の門にあたる「待賢門」(中御門とも呼ばれたそうです)の跡を示す碑です。これも前に見当違いの所を探していてみつからなかったのですが、先の葭屋町通のも一つ西の路地である猪熊通(昔の猪隈小路)の、下立売通を少し下がった西側に立っています。

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 写真の右手のごちゃごちゃしたところに、ちょっとひっこんだところに、小さな瓦屋根つきで立っています。碑そのものはかなり大きく立派です。稲熊通に面しています。
 「待賢門」の名は「待賢門院璋子」という鳥羽天皇の后であって、実は白河上皇が手を出して崇徳を生ませていた(そのために鳥羽天皇が崇徳を嫌い、自分が白河上皇に無理やり退位させられて崇徳を即位させたものの、白河上皇が亡くなると、とたんに崇徳を退位させて自分と美福門院得子との間にできた子を近衛天皇として即位させ、それやこれやが崇徳の側から見れば理不尽で、やがて保元の乱につながるという・・・)女性のことで強く印象に残っていました。

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 この待賢門跡の碑が立っているところは、瓦屋さんの敷地らしく、上を見上げるとこんな、ちょっと珍しい表札が掲げられていました。「皇都西陣 堤瓦磚」 磚は「せん」と読み中国の煉瓦だとか。

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 葭屋町通下立売上る西側で、これは偶然ですが、「桂昌院殿御生家菩提寺」の碑をみつけました。

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 横の面には、「感應山真敬寺」とあります。桂昌院は地域の八百屋の娘に生まれた人ですが、公家のお手伝いさんをして、そのお嬢さんが将軍に御輿入れするのについていって、春日局に見出され、そのバックアップで将軍家光の側室になってしまって、遂には五代将軍綱吉の生みの母、桂昌院様となるわけですが、そうなってからも郷里のことを大切に思っていたらしく、自分の産土であった今宮神社の復興に尽力したほか、生家の菩提寺真敬寺にも毎年支援金を出していたそうです。それで、彼女と綱吉が亡くなったときは、わざわざこの寺の住職が江戸に呼ばれて葬儀の役を仰せつかったのだそうです。

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 こういうところに立っています。

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 もう一つ、偶然みつけたのが、葭屋町通(出水下ル)に立つ「山崎闇斎邸址」の碑です。儒学者にして神道家、垂加神道の創設者という、正直わけのわからない人(笑)ですが、のちのちかなり多くの人に影響を与えてきた思想家です。

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 これは葭屋町通の東側に立っていました。
 私が覚えていたのは、彼の塾(この邸宅のことでしょう)が堀川通りの伊藤仁斎の塾と向き合うような位置にあった、というどこかで読んだ記事でした。伊藤仁斎の方は論語との関係で多少読んでいましたが、山崎闇斎の方はいまだに直接著書を読んではいませんが、ネットを見ると、弟子に、もしも孔子と孟子が一緒になって攻めてきたら諸君はどうするか?と問い詰め、弟子が答えに窮していると、孔子も孟子も斬り捨てるなり戦って打ち破るのが正解で、孔子の教えも孟子の教えもそう言っている、と彼は教えたとか。大変な方のようで(笑)

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 これは帰りがけに烏丸通一条上ル西入の表示のあるあたりで見つけた碑で、「春日潜菴先生邸址」の碑です。私は知りませんでしたが、春日潜菴という人は幕末から明治初めにかけての地下人(昇殿を許されない下級の宮仕え)で、儒学者であり政治家だそうで、梁川星厳や西郷隆盛とともに国事に奔走したこともあるそうで、安政の大獄で捕らわれたものの、和宮降嫁の時に特赦で解放され、後に第一次奈良県知事にもなったそうです。


(2021年01月12日記)
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