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2023年10月26日18:53

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高松殿址

「高松殿址」等自転車行

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 今日は寒かったけれどいい天気でした。午後、腰痛対策の自転車行で「高松殿址」へ行ってきました。南北は西洞院通、東西は三条通の一筋上の姉小路通に面して北側にある、高松神社の前にその碑があります。

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 ここは、もともと醍醐天皇の皇子源高明(914-982)の邸宅として、延喜20年(920)に造営されたのだそうで、後に藤原道長と結婚する、高明の娘明子がここに住んで「高松殿」の呼ばれていたそうです。記録によれば2回焼失していたところを、鳥羽上皇の命で新規に造営し、近衛天皇の内裏となったそうです。

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 今日読み終わった「保元物語」の保元の乱(1156年7月11日勃発)では、この高松殿は後白河天皇側の本拠地としてすこぶる重要な舞台となり、源義朝や平清盛の軍勢がここに参集して、崇徳上皇や藤原頼長側に拠った源為義(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)らの終結した白河を攻める拠点となります。
 保元の乱では天皇方の勝利に終わりますが、続く平治の乱でこの館は焼失してしまいます。解説板によれば、邸内に祀られていた鎮守社高松明神は今もこの神社に受け継がれているのだそうです。

フォト姉小路

 一度は訪れて位置を確認したかった場所だったので、首尾よく見つけられてよかった。京都は街路が画然と設計されているので、縦横の通りさえ分かり、その情報が正確であれば、見つけるのは容易です。資料がいい加減だったり、私が今の通りの名もちゃんと頭に入れてないうえ、調べた位置についてもきちんとメモせずにいい加減なうろ覚えで探そうとするから、いつも見つからないで路地から路地へ彷徨うのですが。

 「保元物語」の文庫本の巻末地図に載っていた「崇徳院御所」というのが二箇所あったので、その址を探そうとうろうろしましたが、いずれも確認できませんでした。いずれも東洞院大路沿いで、北の方のが中御門大路との交点の東南、南の方のが三条大路との交点の西北という位置には図なのですが、前者は御所の中で閑院のある所じゃないかと思うし、後者は今は普通の商業ビルが立ち並ぶ繁華街で、碑も何もみあたりません。

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 帰りに御池通り新町を通りかかると、南側歩道に「肥前鹿島鍋島藩屋敷」の文字が刻まれた碑が立っているのに気づきました。

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 これは御池通りから東洞院をちょっと上がった東側でみつけた、石田梅岩が弟子たちに講義した場所の址と見えます。学生時代に少し拾い読みをしたものの、荻生徂徠や伊藤仁斎のように面白いと思えなかったので、じきに放り出してしまって、それ以来手にとったこともありませんが、独特の流派を生み出した思想家として結構名高い人ですね。

 やはり町人(商人)向けの、倫理的な色彩の強い思想が京都の成熟した町衆にはフィットしたのでしょうか。弟子も多かったそうですから、松下幸之助の言葉を集めたような本が売れるのと同じことなのかもしれません。

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 これは崇徳院御所を探して迷い込んだ御所の南西端に近いところにある、九条邸跡の拾翠邸とその前の池。九条家は平安時代から五摂家の一つで、五摂家がみなそうであるように藤原道長から流れ下る家柄で近代にいたるまで歴史的に重要な役割を果たしてきたお公家さんですが、ここにあったお屋敷もいまはこの拾翠邸と九条家の鎮守・厳島神社を残すのみだそうです。

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 これが池畔の厳島神社。私が長く住んでいた広島の厳島神社とは違って偉くこじんまりした御社ですが、もちろん保元物語のあとの清盛全盛時代の厳島神社造営とこの御社とはつながっているのでしょうね。特に何も書いてなかったけれど・・・。

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 鳥居の上の形が面白いな、と思っていたら、傍らにこんな筆書きの説明がありました。やっぱり清盛と縁があったんですね。それにしても「清盛建立」の鳥居というのはどういうことなんでしょうか。鳥居だけを清盛が作らせて寄進したのかな・・・。調べれば簡単にわかることなんでしょうが、大したことじゃないし面倒何で推測だけにしておきます(笑)。だいたいそういう蘊蓄というのは私には縁のないもので、今は現地を回って碑なんかの文字が何を意味しているか最小限の説明を高札の説明版やウェブ上の記事から適当に拾っているだけで、その断片的な情報自体にそれほど関心があるわけじゃありませんし、歴史オタクじゃないので、そういう情報が一つ増えて嬉しいというわけでもありません。

 私の古い友人に、めちゃくちゃそういう蘊蓄を蓄えたやつがいて、うっかりと何かこういうことで「あれはどうなんだろうねえ」などとふとした疑問を呟くようなミスをおかそうものなら、「それはですね…」と満面の笑みを浮かべた彼の表情がそこから一変して教師顔に変わり、蜿蜒とその蘊蓄が彼の脳みそから分泌されて留まるところを知らないのです。彼は知的好奇心の非常に旺盛なタイプで、私が今死にかけの歳になってようよう手にしている「保元物語」のような歴史に関わる古典はほとんど全部現代語訳や何やらで高校時代から読んでいて、しかも私とは違って記憶力が良いので、出来事からややっこしい人物の名前まで皆覚えていて、たちどころに物語ることができます。

 しかし、こちらに関心があればこそ、で、残念ながらその種の情報にも、それを所有することにも、一向に関心のないこちらにとっては、たまにおうおう、またやっとるな、と彼らしい行状に或る懐かしさを覚えこそすれ、もろにそういうのを聞かされるとなると、これは知的拷問?の類になってしまいかねないので、だんだんこちらも注意深くなり、その種の話題に近寄らないように巧みに会話する術を心得るようになったのではないか(笑)・・・

 しかし「平家物語」はむろんのこと、「保元物語」にせよ「平治物語」にせよ、琵琶を片手に乞食坊主みたいなのが寺の門前やら街頭で道行く人に語って聞かせたのでしょうから、彼ももう少し語り口に一工夫あれば、立派な芸になるのではないかという気もいたします。

 「保元物語」なども、明らかに史実を記録するなんて意識を取っ払って、自由に想像力を羽ばたかせて読者を沸かせるところ、たとえば崇徳院方についた超人的剛弓の使い手源為朝について語る作者の語り口はその種の誇張と賛辞、贔屓の引き倒しといった感がありますし、泣かせどころでは史実を曲げてまでして想像力たくましく登場人物たちの表情や思いに入れあげて読者を泣かせています。たとえば義朝が父為義について崇徳方の謀反に加担した弟たち5人を殺させる場面など、父親に会わせるとだまして連れだし、鮒岡山で処刑するわけですが、そのとき泣き叫んだり、殊勝に西を向いて拝む幼い子らが殺されるのをみている五十人のつわものたちがみな涙を流す、というようなシーン、或いは次に子供らの母が桂川に身を投げて死ぬ場面で、周囲のおつきたちが川渕に立って通せんぼし、みなでおしとどめて死なせないために、いったん引き返す用ができたかのようなことを言って輿の方へ戻るふりをして、おつきのものたちが川渕を離れたのを見て急ぎ懐に石を抱いて入水する、という、なかなか芸の細かい描写をして盛り上げ、読者を泣かせます。

 確かに平家物語のような格調高い文体や仏教思想を消化しきった深い思想性をこの保元物語に期待するのは無理でしょうが、読み物としては結構面白く読める、中間小説的軍記物語として評価できるような気がしました。

 この物語で讃岐に流された崇徳上皇が写経したのを都のしかるべき場所へ置いてほしいと頼んだのも断られて、怒り狂い、自分の血で書写した経の奥に、これは天下泰平を願っての写経ではなくて、天下を滅亡させるためだ、と記していたそうで、その写経本が院の子息の元性法印(仁和寺花蔵院住、重仁の弟)のもとにある、と源平動乱時代の吉田経房の日記『吉記』に書かれているんだそうで、つくりごとではなく、崇徳上皇の怨念はどうやらホンモノだったようです。

 この血書の呪いはさすがに天皇側を恐怖に陥れたようで、院の怨霊を得道させるために成勝寺で写経の供養をさせたようです。しかし、院の怨霊がそれではおさまらぬほどすさまじかったようで、その9日後には平家一門が都落ちという運命にあった、と。

 崇徳上皇が讃岐に流された時、最初のいく先は「直島」だったと保元物語に書かれています。いまベネッセという民間企業が大掛かりなアートプロジェクトを仕掛けて、現代美術の島みたいになっているあの直島なんでしょうかね。

 河原町今出川の近くに白峰神宮というのがあって、崇徳院が祀られていますが、これは彼が配流先で亡くなって埋葬されたのが現地の白峰山だそうで、その関係なのでしょうね。

 崇徳上皇は保元の乱の首謀者としてだけ人であれば、しかし、そんなに一般に広く知られる、気になる人ではなかったのでしょうが、歌人として優れた歌を残した方ですから、私たちの多くが、少なくとも小倉百人一首に採録された「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」くらいは記憶しているくらいよく知られている、ということはやっぱり世は移り変わり、政治も経済も消え去って何も残らないけれど、人の心を動かす言葉は1000年近くの時を隔てても語り継がれて人の心を動かしつづけるということでしょうか。


(2021年01月13日記)
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