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2023年10月26日15:42

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前田利家によるイジメ

石田三成の遺児を匿った弘前藩を徳川家康はなぜ黙認したのか?
https://serai.jp/tour/51123

・津軽為信は南部から独立する形で津軽地方を手に入れた。
・独立の至るまでに、南部の当主である信直の実父石川高信や、南部が南北朝時代から主家筋として敬ってきた浪岡北畠氏を滅ぼしたため、南部氏からは不倶戴天の敵とされた、

・南部信直が豊臣政権に帰属する際、取次をしたのが前田利家だった。
・利家は南部の言い分をもっともとして、豊臣政権に帰属したあかつきには、津軽は謀反人として成敗されると太鼓判を押した。
・しかし津軽は家康や秀次といった別ルートを介して、津軽の名産であった鷹を秀吉に献上。これに気を良くした秀吉によって豊臣政権下での独立大名として認められることになった。

・メンツを潰される形になったからなのか、そもそも気が合わなかったのか、前田利家は津軽為信を「表裏のもの(ウソつき野郎)」と嫌うようになり、浅野長政などの利家に近い人物も為信に距離を置くようになった

・肥前名護屋で利家が大名連中を招いて茶会を開いた際、礼儀作法にかなってないとして、利家の重臣が為信をボロクソに批判。不倶戴天の敵として為信を憎んでいる南部信直ですら「上方の連中の田舎者いじめはヤバい」と同情するくらいのボロクソっぷり。恥をかかされた為信はしばらく人前に出てこれないほどトラウマを負い、それ以降、利家やその周辺との付き合いは途絶えた。

豊臣大名になって以降は人格者扱いの前田利家だけれども、豊臣政権かでもこんな一面もあった みたいな話。むしろ自分や子分(※この場合は取次した南部信直)のメンツを潰すやつは許さないという親分気質だったからこそ、諸大名からも頼られた ということなんだろうけれど。

元記事の後半は、為信が三成を息子の烏帽子親にした上で、三成の娘を息子の嫁にした挙げ句、三成が処刑されたあとも三成の息子を匿ったのは、利家や浅野長政に代わって取次したのが三成で、そのことに強く恩を感じていたからではないか みたいな話。まぁそうなんだろうと。

記事は「家康は別に黙認したわけではない」という感じなのだけれども、三成の娘が嫁入りしている時点で目は付けられているはずで、さらに三成の息子まで匿ってバレてないはずはないだろうと。やはり徳川から黙認されていたとしか思えない。

まぁ私個人の見解としては「族滅するほどの恨みはないし、津軽だったら流刑地送りと変わらないのだから、津軽が責任持って監視するのなら もうそれでいいだろ」」とかだったのではないかなと。大名クラスはともかくとして、お家騒動の責任取らされた重臣が流されてくることが多い津軽。
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