文禄の役の際、豊臣秀吉が見せしめとして改易した3人の戦国武将のその後
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00f6a070c69b1d8e1924a12174c388bc13ee27d6
>波多親(はた ちかし:生没年不詳)
水軍・松浦党の中の上松浦の当主(※下松浦が徳川大名になった平戸の松浦氏)。
九州征伐の際に豊臣傘下に入るが、直近まで島津と同盟を組んで龍造寺と戦っていたからなのか、島津への出兵を断るといういきなりの大チョンボをやらかし、よりにもよって鍋島に取りなされる。
九州征伐の時点で波多領に名護屋城の建設を構想していた秀吉も、松浦党との関係を重視して、島津攻め不参加に目をつぶった上で、大名並みの待遇を与えた。
が、それで勘違いしてしまったのか、名護屋城建設に異論を唱えたり、博多に入った秀吉の出迎えに遅れて行ったりと、次々とチョンボを繰り返した挙げ句、唐入りに際しても鍋島の寄騎を命じられたのに、それに逆らって独立大名面して行動。
これらの所業の結果、いいかげん見限られてしまったみたいで、朝鮮ではそれなりに力戦したにもかかわらず、鍋島から「波多は城にこもって戦わない時があった」と報告されてしまい、秀吉もろくに申し開きもさせずに所領没収と関東配流を決定。波多は配流地で死亡みたいなオチ。
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