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2023年09月26日07:29

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いじめの存在しない「教室」

指導ではなく、共有力だと思うのですが。
 
【これは教師にしかできないこと。いじめの存在しない「教室」とは? MAG2】
https://www.mag2.com/p/news/584753/ 抜粋
◇ いじめ解決の肝は日常の指導にあり◇

共感力がないと、そもそもいじめを解決しようという気持ちにならないのである。
いじめが「他人事」である内は、子ども集団も単なる傍観者と化す。クラス会議で最も育てたい「共同体感覚」(アドラー心理学の用語)はまさにここである。

自らを取り巻くあらゆることを「自分事」として捉え、主体的に解決しようという姿勢。一方で「課題の分離」という観点も必要で、余計なところには首を突っ込まないというバランス感覚も必要である。いじめられている子を助けようとして本人の意思を尊重せずに勝手に動くと、失敗する。問題解決の主体者は、いじめられている側であると同時に、いじめている側でもある。それに周りがどう関わるかが重要である。

教師がどう介入するかも、ここがポイントである。本人は、どうして欲しいのか。助けたい自分には何ができて、何ができないか。どう関わるのが最も根本的な問題解決につながるのか。そして、いじめられている側も大切なクラスの子どもである以上、この子どもにとっても何が最善なのか。これは、子どもが子どもに関わる時にも必要な視点である。

間違いなくすべての子どもが助かるのは、共感的な学級集団づくりである。学級集団づくりこそが教師にしかできない本分であり、ここに尽力する必要がある。

学級生活の些細なところに、この教育の種は撒かれている。例えば、教室の誰かがうっかり何かを床にぶちまけたとする。その時、周りの子どもはどう動くか。最初から自然に動けるかというと、なかなかそうはならない。助けたいという気持ちのある子どもも、多くの場合、何をすればいいかわからないからである。やはりここは「何が正しいか」「どうするべきか」を指導者がきちんと教える場面なのである。ここで「傍観者」しかいない状態で放置されている教室は、いじめ発生時の動きも推して知るべしである。

勉強でわからない子どもがいる時もそう。「自分はできている」と得意気になっている子どもが幅をきかせているような教室では、話にならない。わからない仲間に対し、自分は何ができるかと悩み、考えて、動けることである。極端な話、仲間が一緒に「う〜ん」と唸ってくれているだけでも、かなりいいのである。それだけで、わからない子どもも、かなり救われる。あくまで「勉強が嫌じゃない」ことが大切で、それは「勉強がわかる」ということと直結する訳ではないのである。

そういった日常の全てが、子ども自身の自己教育になるのである。「先生」に何でも頼っている教室では、この面での成長は起き得ないのである。

道徳教育も、ここは常に考えておかねばならない。徳目が見え見えで「チャンチャン」で終わるお粗末でお約束な道徳授業は、浅薄で表面的な人間を育てる。「道徳の研究校は荒れがち」というのはこの辺りに原因があると考えている。
道徳とは、単なる言葉や気持ちではなく、実際の姿と行動こそが大切なのである。
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