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2023年07月31日00:33

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07月31日の日記

今日の出来事:1783年−二の丸騒動、1868年−戊辰戦争:第八次白河攻防戦、1905年−日露戦争:樺太の戦い、日本軍が樺太全島を占領下に置く、1945年−第二次世界大戦:清水艦砲射撃、1987年−北海道の釧路湿原が28番目の国立公園(釧路湿原国立公園)に指定

今日は、二の丸騒動です。1763年、諏訪忠厚は父・忠林の隠居により、家督を継ぎました。この時、諏訪藩では財政悪化から藩政改革を迫られていました。しかし、諏訪忠厚は政務に関心を示しませんでした。このため、筆頭家老・千野貞亮が実権を掌握しました。1764年、千野貞亮は藩財政再建のため新役所を設置し、翌年には領民に対して重税を強いて領民を苦しめましたが、藩財政は少し再建されました。これにより、千野貞亮は諏訪忠厚から賞賛される事になりました。諏訪氏には当時、家臣に二つの派閥がありました。鎌倉時代から諏訪氏に仕えてきた累代の重臣・千野氏は、高島城三の丸に屋敷を構えていました。これに対抗するように初代藩主・諏訪頼水の弟・頼雄を祖とし、「図書」を通称とする高遠藩の家老一族が二の丸に屋敷を構えていました。知行は共に1200石で、交代で歴代の家老を輩出してきました。しかし、千野貞亮が改革で功績を挙げた事で、もう一人の家老・諏訪頼保は実権を完全に掌握される事を恐れました。そこで諏訪頼保は、千野貞亮の追い落としを計画しました。諏訪忠厚には渡辺助左衛門という寵愛している江戸詰の側用人がいました。諏訪頼保はこれに近付いて、共に千野貞亮の追い落としを図りました。諏訪頼保は諏訪忠厚に「千野貞亮の改革は領民から税をむしり取るだけのものであり、領民は一揆を起こしかねないほど恨んでいる」と讒言しました。諏訪忠厚はこれに対して、調査をせずに千野貞亮を家老から解任して知行を召し上げ、閉門処分にしました。こうして、諏訪頼保は首席家老となり、150石の恩賞を得る栄誉を受けました。諏訪頼保は、賄賂を払う者を多く取り立て、女や酒を周りに集めては遊興や淫らな行為に走るなどの悪政を行ないました。しかし、千野貞亮は1779年に勢いを盛り返して江戸の諏訪忠厚の元に乗り込み、諏訪頼保の淫らな行状を訴えました。これを知った諏訪忠厚は激怒し、家老から罷免して知行を召し上げると閉門に処しました。しかし、諏訪頼保はすぐに巻き返しに出ました。諏訪忠厚は正室との間に男児がおらず、側室との間に2人の息子がいました。一人はおとめ(木村氏)が産んだ軍次郎(後の忠粛)、もう一人はおきそ(北川氏)が産んだ鶴蔵(後の頼庸)でした。諏訪忠厚は、おきそを溺愛したため、家督を鶴蔵に譲ろうと考えていました。そこで諏訪頼保は、諏訪忠厚の寵臣・渡辺助左衛門と手を結んで、軍次郎を廃嫡して鶴蔵を跡継ぎとしようと画策しました。これは、鶴蔵が藩主になった時、諏訪頼保が藩主擁立の功績の第一人者となれるためでした。千野貞亮は、主家の家督にまで手を出す事には反対で、家督は長男が継ぐべきと考えていました。そこで、二の丸派の動きを阻止しようとしましたが、渡辺助左衛門が諏訪忠厚に対してまたも讒言したため、家老罷免の上で押し込めとなりました。諏訪頼保は軍次郎を調伏し、さらに諏訪忠厚の正室が軍次郎を支持しているため、正室との離別を提言しました。諏訪忠厚も子を産まない正室に苛立っていたため、強制的に離別させられました。一方、押し込めとなっていた千野貞亮は、このような家督騒動になった事を憂慮し、自分の死を覚悟して押し込め身分から脱走し、江戸の松平乗寛のへこの事態を訴え、助けを求めました。松平乗寛は諏訪忠厚の妹婿で、幕府の奏者番を務めていました。事態を知った松平乗寛は、幕府がこれを知れば改易になる事を憂慮し、1781年に諏訪忠厚を説得して家督を長男の忠粛に譲らせる事を実現させました。この功績で、千野貞亮は再び家老に復帰しました。その後、老中・田沼意知の耳に入り、老中会議の結果、諏訪頼保に非があるとされました。そして1783年7月31日、諏訪頼粛を調伏して藩政を牛耳ろうした二の丸派は、諏訪頼保が切腹、渡辺助左衛門、近藤主馬、上田宇次馬、上田宇右エ門の4名は斬首となりました。諏訪頼保の父・頼英と子の頼屋、頼泰は永牢となり、諏訪図書家は家名断絶となりました。こうして、「二の丸騒動」は終焉しました。

次に、会津戊辰戦争:第八次白河攻防戦です。新政府軍の伊地知正治が率いる隊が籠る白河城に、板垣退助が率いる増援軍が入城しました。列藩同盟軍は再び、白河奪還を目指して攻撃を仕掛けました。しかし、またもや撃退されてしまいました。

その次に、日露戦争:樺太の戦いです。日露戦争を最後まで戦い抜く国力がない日本は、ロシアとの講和を模索しました。「日本海大海戦」に勝利後、外務大臣・小村寿太郎は駐米高平公使に訓令を発し、米大統領セオドア・ルーズベルトに、日露講和につき友誼的斡旋を希望する旨を申し入れるように命じました。高平は大統領にこの訓令を伝えました。米国は日露双方に対して、「日露両国のみならず文明世界全体の利益のため、講和会議の開始を切望する」との内容のルーズベルト公文書を渡しました。ロシア皇帝はルーズベルトの停戦勧告を受け入れるとの返事をしました。ロシア皇帝の意向は、日本軍により樺太が占領される以前に講和を実現したいとのことでした。日本の首脳部では樺太占領には消極的だったため、長岡外史参謀次長は満州軍総参謀長の児玉源太郎陸軍大将に協力を依頼しました。児玉源太郎より講和談判を有利に進めるために、樺太占領を勧めるとの内容の電報がありました。「樺太作戦」の件が政府・統帥部の協議で決定し、明治天皇の裁可が下り、新設の独立第13師団に出動命令が下されました。2個旅団編成の樺太遠征軍は、「日本海大海戦」後に新編制された連合艦隊の第3・第4艦隊からなる北遣艦隊に護送され、樺太南部の亜庭湾岸に侵攻しました。当時、南樺太のロシア軍の兵員は、1200名程度と少なかったため、遊撃戦への転換を図り、5つのパルチザン部隊が編成されました。日本軍は優勢な戦力を背景に、コルサコフ(日本名:大泊)を占領、ウラジミロフカ(日本名:豊原市−北豊原駅付近・現在のロシア名:ユジノサハリンスク)を占領しました。ウラジミロフカ西方のダリネエ村(日本名:豊原市西久保)付近の林で、日本軍はロシア軍主力を撃破し、捕虜200人を得ました。日本軍は19人が戦死し、58人が負傷しました。コルサコフ方面司令官アルチシェフスキー大佐も降伏しました。日本軍は北樺太アレクサンドロフ(日本名:落石−オッチシ)附近に上陸しました。北樺太のロシア軍は、島長官リャプノフ中将以下5000名を越える兵士がいましたが、ロシア軍はわずかに抵抗を示しつつも、島の深奥部へ退却したため、日本軍はアレクサンドロフを占領しました。島長官リャプノフ中将は降伏勧告を受けて、降伏しました。樺太占領後に開始された「日露講和会議(ポーツマス条約)」の結果、樺太を東西に横切る北緯50度線以北はロシアに返還されましたが、以南は正式に割譲させて日本領となりました。

その次の次に、第二次世界大戦:清水艦砲射撃です。1945年7月31日夜半、静岡県清水市は7隻のアメリカ駆逐艦による艦砲射撃を受けました。清水市中心部は、7〜8分の砲撃で焼け野原となりました。直撃弾を受けるなどして、死者44名の被害が出ました。

最後に、北海道の釧路湿原が釧路湿原国立公園に指定です。釧路湿原は、面積が19357haにおよぶ、日本一大きな湿原です。1980年に日本が「ラムサール条約」に加盟する際に、最初に登録した湿地です。一部が農地化されるなど開発も行われたましたが、1967年に湿原そのものが国の天然記念物に指定されました。そのため立入が厳しく制限されており、北海道で最も、開発が進む前の北海道らしい景観を維持できています。 国立公園の面積は、26861haです。ヨシ・スゲ・ミズゴケ湿原やハンノキ林、曲がりくねった河川や湖沼群など様々な環境を含んでいます。タンチョウやイトウ、キタサンショウウオやエゾカオジロトンボといった貴重な野生動物の宝庫でもあります。日本で第28番目の国立公園となりました。

今日の誕生日:ウイリアム・S・クラーク、柳田國男、中原早苗、石立鉄男、和泉雅子、中村美津子、古谷徹、岡崎友紀、黛まどか、J・K・ローリング、中山秀征、本田美奈子、岡本南、愛内里菜、中島裕之、栗原恵、興梠慎三、岩井勇気(ハライチ)、遠藤舞(元アイドリング!!!3号)、石橋穂乃香、関谷真由(元アイドリング!!!32号)、ハリー・ポッター

今日の記念日:パラグライダー記念日、蓄音機の日、土地家屋調査士の日、 トゥインクルレースの日、ビーチの日、GLAYの日

今日の「今日訓」:本日は、1988年に北九州市で第1回パラグライダー選手権が開かれた事で「パラグライダー記念日」、1877年にエジソンが蓄音機の特許をとった事で「蓄音機の日」、1950年7月31日に「土地家屋調査士法」が施行された事から「土地家屋調査士の日」、1986年7月31日に日本国内初のナイター競馬として「トゥインクルレース」が開催された事から「 トゥインクルレースの日」、1999年に幕張メッセ特設会場で、有料ライブ世界最高動員がギネスブックに記録された日を記念して「GLAYの日」、「波(73)がいい(1)」の語呂合わせで「ビーチの日」となりました。
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