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2023年07月25日00:01

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07月25日の日記

今日の出来事:1510年−長森原の戦い、1869年−版籍奉還、1894年−日清戦争:豊島沖海戦、日清戦争の始まり、1945年−第二次世界大戦:保戸島空襲、1998年−和歌山毒物カレー事件発生

今日は、長森原の戦いです。長尾為景の父・能景は、神保慶宗の救援に向かったものの、神保慶宗の裏切りによって討たれました(般若野の戦い)。越後守護代・長尾能景が越中で戦死したため、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった長尾為景は、上杉定実を擁立して守護・上杉房能を急襲しました。関東管領・上杉顕定(房能実兄)を頼り、関東への逃亡を図った上杉房能を天水越で丸山信澄らと共に自害に追い込みました。これを討とうとした上杉顕定は、報復の大軍を起こすと長尾為景は劣勢となって佐渡に逃亡しました。しかし、寺泊から再び越後へ上陸し、長尾為景が反攻に転じると坂戸城主・長尾房長は上杉軍を坂戸城には入れず、六万騎城に収容させました。長尾為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却しましたが、援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり、「長森原の戦い」で上杉顕定を戦死させました。この戦いで、上杉顕定に従軍していた長尾定明や高山憲重らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退しました。こうして越後の平定に成功した長尾為景は、自分の姉妹を上杉定実に娶らせ、さらに嫡男・六郎(のちの長尾晴景)を上杉定実の猶子とする約定を交わし、守護・上杉家の外戚として越後の実権を握りました。この長尾為景の子で、長尾晴景の弟・景虎が、後の上杉謙信となります。

次に、版籍奉還です。版籍奉還は、明治政府により行われた中央集権化事業の1つで、諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還です。当時、明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令も強制力のない「太政官達」で行うしかありませんでした。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとしました。しかし、藩主が非世襲の知藩事に変わり、陪臣である藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とされる事で、朱子学に基づいた武士道によって位置づけられてきた主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定する事になり、諸藩の抵抗も予想されました。そこで、版籍奉還の実施に際して、その意義については曖昧な表現を用いてぼかし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めました。更に前後して「戊辰戦争」の恩賞である賞典禄について定める事で、倒幕に賛同した藩主や藩士を宥めて不満を逸らしました。このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者がおり、大きな抵抗も無く終わりました。そして版籍奉還によって各藩の中で続いていた地方知行がなくなり、蔵米知行に一元化されました。また、版籍奉還と同時に旧藩主の諸侯285家は公卿142家と同時に「華族」に列せられました。こうして、華族制度が創設され、旧藩主の諸侯は武家華族と呼ばれます。

その次に、日清戦争:豊島沖海戦です。宣戦布告はされていませんでしたが、日本が突きつけた5日間の猶予付最後通牒への返答がないまま期限が切れ、あとはいつ戦端が開かれるかという段階でした。大日本帝国海軍第1遊撃隊(司令官 坪井航三少将)の「吉野」(艦長・河原要一)、「秋津洲」(艦長・上村彦之丞)、「浪速」(艦長・東郷平八郎)の3艦でした。「吉野」は当時世界一の最速艦でした。3000mに接近した時「吉野」が「済遠」に発砲して、戦闘が始まりました。非常に霧が濃く視界が悪い中でしたが「済遠」の艦橋に吉野の4.7インチ砲弾が命中し、副長・沈寿昌が戦死しました。後続の「浪速」、「秋津洲」も砲撃を開始し、形勢不利とみた「済遠」艦長・方伯謙は白旗と日本軍艦旗をマストに掲げ、降伏を装いました。坪井航三司令はその矛先を未だ抵抗する「広乙」に向けました。秋津洲は「広乙」を海岸方面に追い、これを擱座させました。艦長・林国祥は乗員を上陸させたのち船体を爆破させました。だがそのとき、降伏したはずの「済遠」が北西方面に逃走を開始しました。機関停止確認と端艇派遣による船体確保を怠った日本側のミスでした。「吉野」、「浪速」はただちに追跡を開始しました。逃走する「済遠」は清国の国旗を降ろして日本軍艦旗の上に白旗を加えて掲げ、降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図ることを繰り返して第1遊撃隊を翻弄しました。そうした追跡を繰り返していた時、清国艦隊が合流を予定していた清国軍艦「操江」及び汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇しました。「済遠」はこの後続部隊に何も報告せずに逃走を続けました。日本艦隊は「吉野」が引き続き「済遠」を追撃し、「浪速」が新たな清国艦隊に対応しました。やがて「秋津洲」が追いつき「操江」を追撃、これを拿捕しました。「吉野」の最高速度は23ノットで「済遠」は15ノットでしたが、「済遠」は上手にジグザグコースをとって逃げ回りながら2門の21cm砲で砲撃し、「吉野」は15cm砲で反撃しました。「吉野」が「済遠」を2500mまで追い詰めた時、「済遠」艦長は面舵をとって浅瀬へと船を向かわせました。浅瀬では「吉野」の方が喫水が深いので危険であると判断、坪井航三司令は追撃中止を命令しました。「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中でした。「浪速」は「高陞号」に空砲2発をうち、手旗信号で停船を求め、臨検を開始しました。その後、水雷が発射され、砲撃が開始されました。「高陞号」はマストを残して海中に没しました。東郷平八郎は端艇を下ろし、泳いで浪速に向かってきた船員士官全員を救助しましたが、1030人が溺死しました。これにより、日本国と清国の全面戦争が避け難いものとなり、宣戦布告が日本からなされる事になります。

最後に、第二次世界大戦:保戸島空襲です。保戸島には豊後水道を通って瀬戸内海へ侵入する連合国軍の潜水艦を阻むため、これを探知する海軍の施設(レーダー受信基地・潜水艦聴音施設・見張り所)が置かれていました。この空襲で、空母「ランドルフ」の艦載機である「グラマン戦闘機」が投下した3発の爆弾の1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)の西側校舎を直撃し、児童124人(1年生と5年生の全員と他学年生数名)、教師2人(高橋ミヨ子訓導、林シゲ子訓導)、幼児1人が即死し、75人の児童が重軽傷を負いました。さらに戦闘機により、児童に対して機銃掃射も加えられました。現在、同校体育館入口には慰霊碑が建立され、毎年慰霊祭が執り行われています。

今日の誕生日:芳春院(まつ)、加藤清正、上田秋成、小関三英、田中義一(第26代内閣総理大臣)、たてかべ和也、森田必勝、安田均、KONTA(元BARBEE BOYS)、ジャガー横田、高島礼子、サード長嶋、我妻佳代(元おニャン子クラブ)、岡野雅行、伊藤大介(元Something Else)、西尾由佳理、駒野友一、中矢力、仲俣汐里(元AKB48)、道枝駿佑(なにわ男子)、平山遊季(アンジュルム)

今日の記念日:最高気温記念日、かき氷の日、うま味調味料の日、知覚過敏の日、はんだ付けの日、さいたま2020バスケの日

今日の「今日訓」:本日は、1933年に山形県山形市で最高気温40.8度を記録した事で、「最高気温記念日」になりました。長らくこれが日本の最高記温の記録となっていましたが、2007年に更新されました。「さいたまスーパーアリーナ」が2020年開催の東京オリンピックのバスケットボール競技の会場となる事から「さいたま2020バスケの日」、「7(な)2(つ)5(ごおり)」の語呂合わせで「かき氷の日」、「かき氷の日」となった事から「知覚過敏の日」、「はんだ」の7つの成分元素「Sn(錫)、Pb(パラジウム)、In(インジウム)、Ag(銀)、Cd(カドミウム)、Bi(ビスマス)、Sb(アンチモン)」と最適な合金属を形成する温度の250度から「 はんだ付けの日」、1908年、化学者の池田菊苗が「グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法」の特許を取得しました。この特許は翌年、鈴木製薬所により「味の素」として商品化され、うま味調味料のさきがけとなった事で「うま味調味料の日」となりました。
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