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2023年06月19日20:59

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小笠原一族 のメモ

小笠原氏は信濃の名族。長時の代に、同じ甲斐源氏である武田信玄に攻められて領土を奪われ流浪生活開始。

長時
・将軍家や織田家、信濃の反武田のケツ持ちである上杉、小笠原の末裔を名乗る三好、かつて小笠原と縁戚だった三浦一族の流れをくむ会津の芦名 などの間を行き来して、最後は会津で死亡。一説には、芦名の家臣の妻にセクハラして、ブチ切れた夫に殺されたとも言われている。

貞慶(長時の子)
・会津行きの父と別れて、京都でソロ活動。信濃へのコネクションを見込まれて、武田を追い込みにかかっていた織田に起用される。信濃での領土を約束されていたが、武田が滅んだらアッサリ反故にされる。
・本能寺以後は、再び旧領回復を目指して、信濃方面に勢力を伸ばしていた徳川に仕えるが、取次役だった石川数正が 人質として差し出していた嫡男秀政まで連れて秀吉に投降。貞慶もなし崩し的に秀吉傘下。
・豊臣大名として活躍し、讃岐反国を得るまでになったが、豊臣家から出禁扱いになっていた尾藤知宣を客分にしていたことがバレて領土没収。息子の嫁の実家というコネクションから再び徳川に仕え、関東に領土をもらう。

※尾藤知宣
・祖父が小笠原に仕えていたが、信玄の侵攻でやっぱり流浪。父の代に今川や奥平に仕え、知宣の代になって秀吉に仕えるようになった。
・秀吉の若い頃からの譜代ということで重用され、同じく譜代だった仙石秀久が戸次川でやらかして追放された後、新たに軍団長となった秀長の軍監として九州征伐に参加するが、秀久のやらかしを見てビビってしまったのか、消極的な用兵に終始してしまい、ブチ切れた秀吉から 秀久同様に追放処分を食らう。
・元々小笠原に仕えた一族だった上に、豊臣大名としても讃岐の前任者であったことから、貞慶がこっそりと客分にしていた。どうやって亡くなったかは諸説あるが、北条征伐のあたりで秀吉に赦免を求めに行ったが赦されず、逆に処刑。処刑後、数年に渡って尾藤を匿っていたことがバレた小笠原は領土没収。同じ北条征伐で、上手いこと徳川に口を利いてもらって大名に復帰した仙石との差。

秀政(貞慶の子)
・父が徳川に仕官した際、人質として石川数正の下に預けられたが、その数正が秀吉に寝返り、秀政の身柄も秀吉の下へ。事ここに至り、父とともに豊臣に仕えることになる。
・秀吉は秀政を高く評価していたのか、家康の孫娘(信康と五徳の長女)と秀政の縁組を斡旋。徳川から離反したはずなのに、徳川の縁戚になってしまう。
・尾藤知宣の件で豊臣から追放された小笠原親子だったが、家康の孫娘の婿というコネクションから、徳川家臣として復帰。秀吉もまだ秀政を評価していたみたいで、徳川家臣になった後になって豊臣姓を下賜。
・徳川家臣として順調にキャリアを積んだ秀政は、大阪城の戦いの数年前というところで、ついに先祖伝来の地である信濃松本に復帰に成功する。
・が、大阪城での天王口の戦いで、毛利勝永の猛攻を受ける本多忠朝(本多忠勝の二男)隊の救援に入って、共に参戦していた長男もろともに戦死。救援の甲斐なく、忠朝も戦死。小笠原の家督は二男が継いだ。

・ちなみに信康と五徳の次女の嫁ぎ先は、本田忠勝の長男の忠政。秀政にとって忠朝は義理の兄弟ということになるだろうか。
・忠朝が天王口で無茶な戦いを繰り広げたのは、冬の陣で酒飲んでやらかしてしまっていて、その名誉回復のため。小笠原親子は割りと巻き添え感がある。

まぁ「信康と五徳の娘がどうなったのか」を軽くメモするだけのつもりだったのが、気づいたら戦国小笠原一族のメモになっていたというオチ。面白エピソードが多すぎる一族。
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