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2023年02月04日10:08

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なぜか憎めない。宗教と行政の衰弱

空き部屋で勝手に生活、逮捕
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=7287145



もちろん、刑法犯です。
ですが、背景の生活苦の問題を置いておいても、どうも、憎めないです。

昔は、公共の避難所がありました。
お寺です。
宿坊がそれです。特に禅や山岳宗教では、やくざの一宿一飯の恩義のような、僧侶が放浪して修行することがありました。

しかも、それは、講などの形で、在家の特定の職能集団や信者団体、地域と結びつきました。士農工商以外の人(といっても必ずしも同和ではない)ということもあったでしょう。特定のマイナーな宗派の信者(たとえば、踊念仏)との結びつきもあったでしょう。
三角寛は、インチキな著作をしたそうですが、彼が問題にした山窩がもし存在したら。そういうものとも結びついたでしょう。

嫌なことがあったとします。
そうしたら人間は、世間と距離を置きます。
Aとのトラブルなら、Aを遠ざければいいはずですが、人嫌いになります。
ただ、いつまでもそうではいられないから、出家をしたり、在家であってもそれと同様の何らかの集団に入る。それが、寺や修験道の山を転々とする放浪の動機の一つです。

いや、トラブルがないとしても、人は背負うものを投げ出したくなることがあるのではないでしょうか。

そうしないために、自分の宿命を可視化したり現実化したりするために、宗教があります。

たとえば、子どもはかわいいです。
しかし、その子は偶然の賜物です。三億個の精子のどれが受精するか運です。だからどんな家でも、兄が優等生で弟が与太者なんていうことがあるでしょうし、配偶者もまた、とてつもない偶然です。自分の努力のせいとはいえません。
だからこそ、宗教的な解釈をし「授かりもの」などの形で、宿命を現実化しているのでしょう。

しかし、宗教が衰弱しています。

だから、昔なら、たとえばですが、信じてなくても自分は白山信仰者であるということにして白山講に入り、同じ仲間を見つける…などということをするところなのでしょうが…
そういう「世を捨つ」ことができないから、まったく違った環境で自分を見つめなおしたくなるのでしょう。
食っていける人にもそういう心理はあります。

このケースの場合、家がなかったのです。責められないと思います。

葬式仏教がいけません。
もちろん、今までの福祉の構造を正確に研究してこなかった、そして、予算削減ばかり目指してきた行政は、クソったれです。

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