新たな資料を3点見つけました。
大叔父の石井静さんが所属した佐倉歩兵第57連隊の入隊から戦死までの9ヶ月間の出来事を調べております。
静さんは昭和11年1月に佐倉連隊に招集され入隊しました。
その後に所属部隊は抗日ゲリラ対策として満州に渡り本渓湖へ移動、昭和11年9月9日にゲリラとの戦闘後に本渓湖、麻戸溝にて戦死しました。
今回の新たな資料で大叔父の以下の記録が正しい事の裏付けがとれました。
5月22日 第1師団 の満州派遣により、佐倉を離れ、チチハル・本渓湖などの警備につく為に 佐倉兵営を出発
5月28日 大連港に入港、第3大隊は直ちに抗日ゲリラ対策のため本渓県 に向けて出発。
"佐倉連隊〜戦争遺構をめぐる〜(2018/11/5)佐倉市" を YouTube で見る
https://youtu.be/5wtXjB4gLM4
石井静さんの事は過去に何度か調べて分かった内容を含めてご紹介させていただきました。
静さんの墓石裏に書かれ文章の解読できたところをご紹介します。
尚、文字が旧仮名の為、柏書房の異体字解読字典を使用して調べてみました。
とりあえず意味の解らない文字もそのまま解読して書きました。
カッコ内は似ている文字をいれ、カナはひらがなにして、?は今現在、解読できていません。
お墓の裏に異体字で書かれた文章は以下になります。
石井君の戦功
上等兵は大正四年一月十三日本村蔵波五百五十四番地石井沖平の次男として出生す
昭和十一年一月十日歩兵第五十七連隊第十一中隊に入隊す
同年五月選ばれて派遣隊青山部隊に属し勇躍渡満し清河城の守備勤務に服し満州国へ治安掃匪工作に従事す
會々昭和十一年九月九日午前六時三十分電話線架設掩護の任を有する外山隊に属し隊長以下二十八名と共に大嶺溝に向い清河城を出発せり
上等兵は斥候兵として麻戸溝西側に到着し視察中遥か前方の山腹雑木林中に逃匪五十六名あるを発見し直に斥候長に報告せり
本報告に基き外山隊長は直に之力撃滅を決心し戦闘部署を定め戦闘を開始す
敵匪も窮地猫を噛むの勇を揮いて交戦し午前十一時三十分其数二百余名を算し其抵杭頗頑強我の戦況意の如く進捗せす
上等兵は勇敢に健闘敵を攻撃中左上?に貫通銃創を受く之に屈ます射撃継続中更に一弾胸部を貫き其場に倒れたり匪賊の弾にて死ねるものかと?語し銃を抱きて起きたんとせしも特に武運拙なく第三弾は又も胸部を貫通し遂に又起きつ能はさるに至?
の壮なる哉三度傷にて尚尽忠の至誠を発揮し闘志捨てず其壯烈なる行動は戦友を奮起せしめ僅少二十八名を以て二百有余の敵匪を潰走せしむる因由を讓成せり
午後六時二十八分戦闘終り外山隊長より戦況を聞くや隊長の手を握りて天皇陛下万歳を唱へつつ?目せりと謂う上等兵の斃れて尚止まさるの精神傷きて尚闘志を捨てさるの至誠は楠公父子の七生報国の赤誠に劣らさる忠誠心の發露にして後継軍人の亀鑑たり
功に依り功七級金鵄勲章を下賜せられ勳八等に敍し白色桐葉章を授けらる偉勳赫々後日(北)に範たり
昭和十四年二月十一日
在原信夫恭誌
以上、私が解読した異体文字の文章です。
1915年 ( 大正 4年 ) 生まれ
昭和11年1月10日歩兵第五十七連隊第十一中隊に入隊
昭和11年
2月26日 歩兵第57連隊、2 . 26事件に際し 叛乱鎮圧のため出動
4月30日、臨時編成の命が下る。
5月22日 第1師団 の満州派遣により、佐倉を離れ、チチハル・本渓湖などの警備につく為に 佐倉兵営を出発
5月28日 大連港に入港、第3大隊は直ちに抗日ゲリラと対策のため本渓県 に向けて出発。
1936年 ( 昭和11年 ) 9月9日
現在の中華人民共和国
本渓市 本渓満族自治県 麻戸溝にて 21歳で戦死
◆昭和11年9月9日 1日の流れ◆
●午前6時30分
電話線架設掩護の任を有する外山隊に属し隊長以下28名と共に大嶺溝に向い清河城を出発
●午前11時30分
其数二百余名を算し其抵杭頗頑強我の戦況意の如く進捗せす
●午後6時28分
戦闘終り
基地を出発してから12時間も任務と戦闘をしていた事になる。
本渓県抗日ゲリラとの戦闘
中国本土の抗日姿勢の強化に呼応し、在満抗日勢力は1936年1月東北抗日連軍を組織し、同年6月、長春・図們線以南、南満州鉄道以東を遊撃地区とする第一路軍が成立した。
「 満州国 」が推進する集団部落化が抗日の働きを強めていた。同年5月から第三大隊が、9月下旬から第五十七連隊全体がチチハルから本渓県に移駐、翌年6月まで県下に「高度分散配置 」体制を敷いて戦闘を継続した。
「 本渓県 抗日ゲリラとの戦闘地図 」の×は、抗日ゲリラとの戦闘中、第五十七連隊の兵士が戦死した場所を示し、年月日を付記した。
我が家の歴史を忘れない為に今現在で分かった事を書いておきます。
今後も資料など出来る限り集めていきたいと思います。
いつか博物館にて公開させていただけたらと思います。
ほんの83年前の日本で一人の一般人が突然に国に招集されて軍人になり戦争に出されていく様子を今の子どもたちにも知ってほしいと思います。
因みに静さんが所属した佐倉連隊の跡地は現在は国立歴史民族博物館になっております。
博物館では過去に佐倉連隊の企画展も開催して、そこで石井静さんの戦死した場所と日時が地図上に表記されていて私たち家族が初めて正確な場所を知ることになりました。
いつか静さんが戦死した中国の本渓湖まで行ってみたいです。
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