時を司る神が去り、カシオペイアが去り、モモは大人に成る。
時には酒を喰らって毎日喫煙、私も昔は立派にモモだった。
コロナ禍の渦中に、『コロナ禍を耐え得る個体が残る』と、現状を鑑みるに現実的な結末はそんなところだろう。
コロナ禍の渦中にも、時間どろぼうが実在するかの様に、ゆっくりと進む必要がある。
周囲の人々が時間を盗まれ忙しく慌ただしくスピーディーに動くのならば、自らは逆にゆっくりと人生を進まねばならない。
周囲がスピードを上げた分、自らはスピードを落とすのだ。
私の時を司る神は既にこの世を去った、私のカシオペイアももう居ない、ならば、私が私の時間を自ら司るのだ。
それを『自立した人生』と呼ぶ。
噛み合わない歯車、噛み合わない会話、噛み合わない時間、他の誰ともズレている。
しかし、そのスピードの噛み合わないズレが4次元のソーシャルディスタンスであるならば、私は敢えて周囲の多くの人々と噛み合わない時間を過ごそう。
私のモモは既に成人ではあるが、まだ年若い。
賢く手のかからない確り者ではあるモモなのだが、まだ時折りは私の手助けを必要とするかも知れないのだから、私は『コロナ禍を耐え得る個体』としてこの下らない世界に存在していよう。
そう、私は私のモモのカシオペイアに成り得る者として、私は私の生を全うしようと考える。
この世界がどんなに格差激しくどんなにも貧富の差に喘ぐ醜く汚穢な肥溜めのような下らない場所であったとしても、私は私の生を全うしよう。
なに、私がこのコロナ禍を耐え凌げなかったとしても、私のモモは自ら私とは別のカシオペイアを見付けるだろう、心配は無用だ。
気楽に、肩の力を抜いて、自然体で。
昨日、年内最後の内科の受診での予診の際には、パルスオキシメーターは96%をマークしていた。
血中酸素飽和度が96%を示すのならば、どうせ走れはしない、どうせ周囲の誰とも歩調は合わない、わざわざ意識しなくとも私の歩みは遅々として進みやしない。
私の足はカメかカタツムリの様に遅いのだから、今の私はカシオペイアとして存在して生きていけば良いのだ。
誰にも私を酸素飽和度96%の病魔から救えはしない、神でも無い限りは。
そして、私は病魔とさえ闘うこと無く、病魔を受け入れている。
通りを歩く誰もが私を追い越し追い抜いて行く、高齢者達を除いて。
………、…………?、高齢者を除いて?。
私にもカシオペイア、まだまだたくさん居るんじゃーん!!(笑)
■出版50年、コロナ禍で読まれる「モモ」 タイパ社会に時間を問う
(朝日新聞デジタル - 12月28日 06:35)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=7242439
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