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2022年11月30日00:12

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11月30日の日記

今日の出来事:1862年−幕末天誅事件:平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し、1600年−関ヶ原の戦い:柳川城の戦い、1892年−千島艦事件、1942年−横浜港ドイツ軍艦爆発事件、1942年−第二次世界大戦:ルンガ沖夜戦

今日は、幕末天誅事件:平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒しです。平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛は共に商人ながら、勅使・大原重徳が東下の際に士分となって供をしていました。しかし、収賄や横領などを行ったため評判が悪く、勅使に随行するという事で、朝廷の威信失墜を懸念した長州、土佐両藩の志士が団結して天誅を加える事としました。土佐からは岡田以蔵、千屋寅之助、五十嵐幾之助らが、長州からは寺島忠三郎らが加わり、手分けして両名を連行して殺害しようとしました。しかし、家族の助命嘆願があり、町人でもある事から殺す事はせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に両名を裸にした上で縛り付け、生き晒しにしました。

次に、関ヶ原の戦い:柳川城の戦いです。立花宗茂は、大津城を攻めていたため「関ヶ原本戦」には参加できず、西軍壊滅を知って大坂城に引き返しました。大坂城に退いた後、立花宗茂は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将・毛利輝元に進言しましたが、その進言を容れずに徳川家康に恭順したため、立花宗茂は自領の柳川に引き揚げました。柳川に引き上げる時に「島津の退き口」で敵中突破した、父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行しました。「関ヶ原本戦」で兵のほとんどを失った島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」と言う家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、島津軍の護衛を申し出て無事に柳川まで帰りつきました。しかし、黒田官兵衛、加藤清正、鍋島直茂が柳川を攻めて来ました。この時、息子・鍋島勝茂が西軍に加担した事を挽回しようと懸命だった鍋島直茂が率いる32000は、二手に分かれて佐賀を進発しました。これに対して立花軍は迎撃のために出陣しましたが、家康への恭順を示すため立花宗茂は城に残りました。立花軍13000のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老・小野鎮幸を総大将とする約3000でした。鍋島軍は、筑後川を渡河して立花方の海津城を落城させ、続いて先鋒隊3000が立花成家の200による鉄砲奇襲を受けながら、城島城を攻略しました。翌日には江上八院で立花軍本隊と激突しました。立花軍先鋒の安東時貞、石松政之らは軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島軍十三段の軍陣の中へ突入し、先鋒の第三隊・立花統次はその九段まで進んで奮戦しました。鍋島軍の先鋒・鍋島茂忠は本陣へ撤退しました。しかし、一騎駆で敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東時貞、石松政之は反撃を受けました。そのために救援出陣の第二陣・立花鎮実とその次男・立花親雄や新田鎮実は横合から攻めかけて、敵を三町ばかり突き崩した後に、後を断たれて共に戦死しました。馬廻衆の安東幸貞、第三陣の若武者・十時惟久、先鋒・安東時貞、石松政之も次々と戦死しました。総大将・小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島軍の包囲の中、勇戦奮戦しましたが鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られました。小野鎮幸自身も銃創と矢傷を負い討死寸前となりましたが、下妻郡水田方面の黒田官兵衛軍を偵察していた立花成家が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ、鍋島軍を混乱させた隙に無事撤退しました。その後、立花軍は十時惟由らが北の蒲池で鍋島軍を挑発し、対戦して数人を討ち取りました。立花軍は柳川城へ籠城しました。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正が参戦してきました。鍋島軍はそのまま柳川城を攻め落とそうとしました。しかし、鍋島直茂がこれを抑えて、立花宗茂と「慶長の役」で共に苦労した黒田官兵衛、その「第二次蔚山城の戦い」で立花宗茂に救ってもらった加藤清正が懸命に説得したため、立花宗茂は降伏開城しました。こうして、立花宗茂は黒田官兵衛軍に加わりました。島津義弘は国許へ帰ると、立花宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送りました。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後でした。黒田官兵衛は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた40000の軍勢で、九州最後の敵勢力である島津討伐に向かいました。しかし、肥後の水俣まで進軍した時、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受けたため、軍を退き解散しました。戦後、鍋島直茂は、肥前佐賀35万7000石は辛うじて安堵されました。黒田官兵衛は、子・黒田長政が小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り交渉をした功績により、家康から一番の功労者として筑前福岡52万3000石を与えられました。翌年、黒田官兵衛にも、これとは別に上方での加増が提示されましたが辞退し、その後は隠居生活を送りました。立花宗茂は改易されて浪人となりました。その器量を惜しんで加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われますが、これを謝絶しました。その後、由布惟信、十時連貞ら付き従う家臣を引き連れて浪人の身で京都に上りました。それから江戸に下った立花宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らと共に高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送りました。1604年、本多忠勝の推挙で江戸城に召し出されました。立花宗茂の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5000石を給される事になりました。その後、嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて、大名として復帰しました。同地で加増され2万5500石の知行となりました。1610年に更に9500石の加増を受け、最終的に3万5000石の領地高となりました。「大坂夏の陣」では2代将軍・徳川秀忠の麾下に列して、その軍師・参謀を兼ねて警固を担当し、毛利勝永と交戦しました。1620年、幕府から旧領の筑後柳川10万9200石を与えられました。関ヶ原に西軍として参戦し、一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となりました。1637年、「島原の乱」にも参陣し、総大将・松平信綱を輔佐して軍事進言や戦略面の指揮を執りました。有馬城攻城戦では、昔日の勇姿を見せて諸大名に武神再来と嘆賞されました。

その次に、千島艦事件です。千島艦事件は、日本海軍の水雷砲艦「千島」がイギリス商船と衝突、沈没した事件です。日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件であり、領事裁判権の撤廃問題と絡んで日本の国内外を巻き込む政治問題に発展しました。1892年、日本海軍がフランスに発注していた砲艦「千島」が完成しました。鏑木誠の指揮下、海軍の手により日本に回航し、長崎港を経由して神戸港に向かいました。ところがその途中の1892年11月30日、愛媛県和気郡沖の瀬戸内海で、イギリスのP&O所有の「ラヴェンナ号」と衝突し、千島は沈没して乗組員74名が殉職しました。しかし、当時の日本は「安政五カ国条約」によって「領事裁判権」が設定されており、イギリス商船に関する裁判は横浜のイギリス領事裁判所を第一審とする事になっていました。そのため、当時の第2次伊藤博文内閣は、1893年5月6日に弁護士の岡村輝彦(後の中央大学総長)を代理人とし、P&Oを相手として85万円の賠償を求める訴訟をイギリス領事裁判所に起こしました。これに対してP&Oも日本政府を相手として10万円の賠償を求める反訴を起こしました。1審は反訴のみが却下され、日本側の実質勝利とされましたが、双方とも不服を抱いて上級審にあたる上海のイギリス高等裁判所に控訴しました。ところが、2審ではP&Oの全面勝訴となりました。この判決結果に加えて、原告が元首である天皇の名義であったのか否かについての議論が湧きあがりました。帝国議会では、立憲改進党の鳩山和夫らが政府を追及、同党とともに硬六派を形成していた各党や世論もこれに呼応しました。硬六派は「領事裁判権」を含めた全面的な条約改正か、現行条約の条文を徹底遂行して外国人の居留地に押込めるように迫りました(条約励行運動)。これに対して政府は2度にわたって衆議院解散を断行する一方、イギリス本国の枢密院に上告を決めました。政府内には岡村輝彦の能力を不安視して末松謙澄や金子堅太郎を代理人として派遣する構想が出されましたが、最終的には岡村輝彦に一任する事となりました。1895年7月3日に枢密院は上海の判決を破棄して横浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&Oに日本側の訴訟費用約12万円の負担を命じました。その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によって和解が図られ、1895年9月19日に日本政府とP&Oの間で和解が成立しました。P&Oは1万ポンドの和解金と日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに、日本政府は一切の請求権を放棄しました。

その次の次に、横浜港ドイツ軍艦爆発事件です。横浜港ドイツ軍艦爆発事件は、1942年11月30日13時40分頃に、横浜港新港埠頭内で起こった爆発事故です。「第二次世界大戦」中に、同盟国であった日本の横浜港を拠点に活動していたドイツの高速タンカー「ウッカーマルク」が火災を起こし、近くの船舶を巻き込んで爆発しました。この事故により、ドイツ兵61、中国人36、日本人5の102名が犠牲になり、「ウッカーマルク」、ドイツの仮装巡洋艦「トール」、および「トール」に拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン(拿捕後ロイテンと改名)」、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」が失われ、横浜港内の設備が甚大な被害を受けました。港周辺の住民の多数に目撃されたものの機密扱いとされ、戦後長く秘されていましたが横浜税関に残されていた事故の写真フィルムにより、神奈川新聞社の取材で概要が明らかになりました。生き残ったドイツ兵は終戦まで箱根・芦之湯温泉の貸切状態の旅館で暮らし、敗戦後「GHQ」によりドイツに送還されました。犠牲者は横浜外国人墓地に埋葬されました。なお、俳優の竹中直人の祖父も犠牲者の一人となっています。

最後に、第二次世界大戦:ルンガ沖夜戦です。「第三次ソロモン海戦」後、ガダルカナル島周辺海域の制空権を失った日本海軍は、補給を闇夜に駆逐艦の高速に頼って行うしかありませんでした。この輸送は、自嘲的に鼠輸送と呼ばれました。この輸送をいち早く察知した米海軍は、その阻止のためにカールトン・ライト少将が率いる第67任務部隊(ライト部隊)をガダルカナル島沖に派遣しました。一方、日本軍では田中頼三少将が率いる第二水雷戦隊の駆逐艦8隻で構成される輸送部隊が、ショートランドを出撃して一路ガダルカナルへ向かっていました。この輸送では短時間で確実に食料を日本軍陸上部隊に供給するために、洗浄したドラム缶に糧食を半分だけ詰めて密封(これでドラム缶は浮く)、これをロープで数珠つなぎにしてガダルカナル沿岸で海上に投入し、ロープの端を海岸の日本軍陸上部隊に渡して、ドラム缶を手繰り寄せる方法をとりました。この部隊はそのために、警戒隊として参加する旗艦「長波」、「高波」を除いた駆逐艦6隻(「黒潮」、「親潮」、「陽炎」、「巻波」、「江風」、「涼風」)の次発装填用予備魚雷を陸揚げして、その空いたスペースも含めて各艦200〜240個のドラム缶を積載していました。昼間は第一警戒航行序列(三列梯形)、夜間は第二警戒航行序列(単縦陣)で米軍の奇襲を警戒しながら進撃しました。11月30日21時6分、アメリカ艦隊が日本艦隊を発見しました。ライト少将は前衛部隊の駆逐艦4隻に攻撃開始を許可しました。敵艦隊の猛烈な砲撃を受けた「高波」は反撃に転しました。主砲による初弾が敵駆逐艦に命中、更に第二斉射も別の敵駆逐艦に命中しました。両艦は火災となり、この火災の明かりが米艦隊をくっきりと浮かび上がらせる事になりました。「高波」は魚雷8本を発射しましたが、直後に一番、二番連管に立て続けに被弾し、更に缶室にも被弾して航行不能となりました。この後、五十発以上の砲弾を浴び、艦橋、主砲は全滅、洋上に停止して炎上しました。「高波」が集中攻撃を浴びている間に輸送隊は態勢を立て直しました。まず旗艦「長波」が射点を捉えて魚雷を発射すると右反転して避退しました。続く第二輸送隊の「江風」、「涼風」も魚雷を発射すると左反転、「長波」を追うように避退しました。隊列の先頭を行く第一輸送隊の駆逐艦4隻は第十五駆逐隊司令・佐藤寅治郎大佐に率いられ、一旦米艦隊をやり過ごすために東進してから右反転しました。ここで「陽炎」と「巻波」が前続艦を見失って分離しました。しかし、残った「黒潮」と「親潮」は敵艦隊の左舷後方で、「黒潮」が魚雷を発射すると「親潮」も魚雷を発射して戦場を離脱しました。こうして日本軍の攻撃は終了し、次発装填魚雷が無いため戦場離脱を図った日本軍を尻目に米艦隊は「高波」に集中砲撃を浴びせ続けました。そこへ日本軍の魚雷が襲い掛かかり、米巡洋艦部隊は壊滅的被害を受けました。重巡「ノーザンプトン」が沈没、重巡「ミネアポリス」、「ペンサコラ」、「ニューオリンズ」が大破しました。この戦いは日本軍の一方的な勝利でした。しかし、「高波」の生存者が次々と海に飛び込み退去しましたが、その直後に米駆逐艦が接近して「高波」に魚雷を発射、このうち一本が「高波」に命中して沈没しました。この際、搭載爆雷が誘爆して付近を泳いでいた生存者が次々と圧死しました。さらに「高波」から流出していた重油に引火して火災となり、相当数の戦死者を出す事となりました。艦長・小倉正身中佐は艦橋で敵弾により右半身がえぐられて戦死、第三十一駆逐隊司令・清水利夫大佐は行方不明、乗員のうち140名が戦死しました。結局、ガダルカナルの日本軍基地までたどり着いた生存者は准士官以上4名、下士官兵29名の僅か33名でした。

今日の誕生日:ウィンストン・チャーチル、L・M・モンゴメリ、林家三平、土井たか子、リドリー・スコット、三好鉄生、田口トモロヲ、ゲーリー・リネカー、相島一之、山田恵一(獣神サンダー・ライガー)、秋篠宮文仁親王、松本梨香、四位洋文、宮崎あおい、満島ひかり(元Folder5)、知念侑李(Hey! Say! JUMP)、伊藤純奈(元乃木坂46)、加賀楓(モーニング娘。)、小松奈々、射手座のアイオロス

今日の記念日:シティズ・フォー・ライフの日、本みりんの日、絵本の日、いい30歳の日、年金の日、いいおしりの日、人生会議の日、ゲゲゲ忌

今日の「今日訓」:本日は、1786年に神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、初めて死刑制度の廃止を宣言した事で「シティズ・フォー・ライフの日」、1986年11月30日に近代絵本の魁けとなる考え方を示した瀬田貞二の「絵本論」の初版が発行された事で「絵本の日」、漫画家・水木しげるの命日で「ゲゲゲ忌」、「い(1)い(1)み(3)りん(0)」の語呂合わせで「本みりんの日」、「い(1)い(1)30歳」の語呂合わせで「いい30歳の日」、「い(1)い(1)みらい(30)」の語呂合わせで「年金の日」、「い(1)い(1)月末(30)」で「いいおしりの日」、「「い(1)い(1)み(3)とり(0)」で「人生会議の日」となりました。
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