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2022年11月21日00:01

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11月21日の日記

今日の出来事:元弘の乱:赤坂城の戦い、1581年−鳥取城の戦い、1859年−安政の大獄:吉田松陰処刑、1864年−鎌倉事件、1894年−日清戦争:旅順虐殺事件、1970年−名古屋市郊外に日本ケンタッキーフライドチキンの第1号店(名西店)がオープン、1978年−江川卓が読売ジャイアンツと契約(空白の一日事件)

今日は、1331年−元弘の乱:赤坂城の戦いです。赤坂城の戦いは、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、河内国・赤坂城で約500の寡兵で約30万の幕府軍とわたり合った戦いです。1324年、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画しましたが、陰謀が発覚して失敗しました「正中の変」。7年後、再び倒幕計画を日野俊基に進めさせましたが、陰謀が再度発覚しました「元弘の変」。後醍醐天皇は宮中から姿を消すと、笠置山で兵を挙げました。これに楠木正成が呼応して赤坂城で挙兵しました。幕府軍は、笠置山を諸国御家人の軍勢を招集して包囲しました。天皇方は寡兵ながらもよく抗禦しましたが約1ヵ月後に陥落しました「笠置山の戦い」。笠置山を陥落させた幕府軍は、笠置山包囲軍とその他余力を加えた大軍で赤坂城へと攻め寄せました。楠木正成は、城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落とすといった奇策を駆使して鎌倉幕府軍を翻弄しました。しかし、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城し、楠木正成は金剛山に潜伏しました。翌1332年、楠木正成が下赤坂城を奪還して再挙兵しましたが落城し、上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けました。楠木正成は、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、遺体は味方の手で隠されたという事にし、密かに落ち延びました。そして、再び再挙する事になります。

次に、鳥取城の戦いです。織田信長に中国経略を命じられた羽柴秀吉は、播磨方面の平定を終えると但馬・因幡国方面へ向かいました。1580年、鳥取城は東から羽柴秀長と宮部継潤の軍、南から羽柴秀吉の軍が攻め入って包囲され、城主・山名豊国は因幡一国の安堵を条件に開城を迫られました。山名豊国は降伏に反対する森下道誉や中村春続らの家臣団と対立し、単独で秀吉に投降しました(第一次鳥取城の戦い)。家臣団は山名豊国を見限り、毛利家に対して山陰地方での声望が高く、城兵をまとめる求心力をもつ存在として吉川氏の派遣を希望しました。吉川元春は家臣・牛尾元貞を派遣しましたが戦闘で負傷した為、石見・福光城の城主で一族の吉川経家の派遣を決定しました。この時、吉川経家は自らの首桶を用意し、決死の覚悟で鳥取城へ入城しました。その後、宮部継潤が塩冶高清の守る雁金城を攻撃し、塩冶高清は丸山城(城主・奈佐日本之介)に逃亡しました(雁金城の戦い)。包囲された鳥取城は、山陰地方で毛利方の難攻不落の要塞であった為、羽柴秀吉は後世「鳥取の渇殺し」と呼ばれる兵糧攻めを採用しました。これは黒田官兵衛の献策で、羽柴秀吉は若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせました。これにより、穀物価格は急騰しました。さらに鳥取城の周囲に深さ8メートルの空堀を全長12キロメートルにわたって築き、塀や柵を幾重にも設けて櫓を建て、夜間も入念に監視させた上で河川での通交も遮断しました。その上で、昼夜の別なく鐘や太鼓、鬨の声をあげさせ、不意に鉄砲や火矢を放つなどして城内の不安を煽りました。又、多数の商人を集めて城外で市を開かせて衣食を売買させ、芸人を呼び集めて盛大に歌舞音曲を行うなどして城内の厭戦気分の醸成を図りました。そして、鳥取への兵糧補給における水上交通の要地、因幡千代川(湊川)河口の海戦で、細川藤孝の家臣・松井康之が毛利水軍を破り、敵将・鹿足元忠を討ちました(湊川口の戦い)。これにより、鳥取城は完全に食糧を絶たれ、水、草木、城内の犬・猫・鼠まで食い尽くし、死者の肉まで奪い合う修羅場となりました。11月20日、奈佐日本之介と塩冶高清、佐々木三郎左衛門の自刃により、丸山城が開城されました。翌21日に鳥取城も開城し、森下道誉と中村春続が自刃しました。吉川経家は城兵の助命を条件とし、降伏する事となりました。羽柴秀吉は吉川経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えました。しかし、吉川経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えませんでした。困惑した羽柴秀吉は織田信長に「吉川経家が自害してもよいか」との確認をとり、信長は自害を許可しました。切腹に際し、吉川経家は「日本二ツの御弓箭の境(日本をふたつに分けるような重大な合戦の節目)において切腹に及び候事、末代の名誉たるべしと存じ候」と記した遺言状を故郷の石見に書き送りました。辞世の句は「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」です。現在、鳥取城正面入口には吉川経家の銅像が建立されています。

その次に、安政の大獄:吉田松陰処刑です。吉田松陰は、萩城下の松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改めました。通称は寅次郎、諱は矩方、字は義卿、号は「松陰」又は「二十一回猛士」です。6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範・吉田大助の養子となりましたが死去すると、同じく叔父・玉木文之進が開いた「松下村塾」で指導を受けました。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であった事で、その才能が認められました。しかし、「アヘン戦争」で清が西洋列強に大敗した事を知ると山鹿流兵学が時代遅れになった事を痛感し、西洋兵学を学ぶ為に九州に遊学しました。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事しました。1852年、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画しましたが、出発日の約束を守る為に長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たずに脱藩しました。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学しました。秋田では「相馬大作事件」の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行する外国船を見学しようとしました。しかし、江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けました。マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、西洋の先進文明に心を打たれて外国留学を決意しました。1854年、ペリーが「日米和親条約締結」の為に再航した際に、金子重之輔と二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えましたが拒否されました。松陰は自首して、下田で取調べを受けた後に小伝馬町の牢屋敷に送られました。その後、長州へ檻送されて野山獄に幽囚されました。獄中で密航の動機とその思想的背景を「幽囚録」に著しました。1855年に出獄を許されましたが、杉家に幽閉の処分となりました。1857年に叔父が主宰していた「松下村塾」の名を引き継ぎ、杉家の敷地に「松下村塾」を開塾しました。この「松下村塾」で松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋などの面々を教育しました。1858年、幕府が無勅許で「日米修好通商条約」を締結した事を知って激怒し、「討幕」を表明して老中首座・間部詮勝の暗殺を計画しました。しかし、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかった為、計画は頓挫しました。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、「倒幕」をも持ちかけました。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚されました。やがて大老・井伊直弼による「安政の大獄」が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られました。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫した事や松陰が素直に罪を自供していた事から、「遠島」にするのが妥当だと考えていました。しかし、松陰は尋問に際して老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張しました。これが井伊直弼の逆鱗に触れ、1859年10月27日に斬刑に処されました。享年30(満29歳)でした。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残しました。その冒頭に記された辞世は「“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし 大和魂”」です。又、家族宛には「永訣書」を残しており、こちらに記された「“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”」も辞世となっています。処刑後、小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られましたが、1863年に高杉晋作ら攘夷派の志士達により、現在の東京都世田谷区若林に改葬されました。

その次の次に、鎌倉事件です。鎌倉事件は、1864年11月21日にイギリス人士官2名が日本の武士に斬殺された事件です。横浜駐留中のイギリス陸軍第20連隊第2大隊所属のジョージ・ウォルター・ボールドゥィン少佐とロバート・ニコラス・バード中尉は、休暇を取って騎馬で江ノ島〜鎌倉を巡遊していました。2人が大仏の見物を終えて金沢方面に向かう途中、午後3時頃に若宮大路近くの路上で2人の武士に斬りつけられました。この襲撃で、ボールドゥィン少佐は四肢に深傷を受けて即死、右腕と左膝、首などに重傷を負ったバード中尉は現場近くの民家に運ばれて地元の医師による治療を受けましたが、午後10時頃に死亡しました。幕府は、目撃者や現場周辺の住民等からの事情聴取、近隣地域に情報提供を求める触書を出すなど探索に努めた結果、犯人は2人組の若い武士で事件直後に急いで鎌倉を離れて、二子の渡しを渡って江戸方面に向かった事などが判明しました。その後、相模国・高座郡羽鳥村で起こった強盗事件の犯人として神奈川奉行所に召し捕られた浪人・蒲池源八(26)と稲葉紐次郎(23)を取り調べた際、彼らの首領で逃亡中の浪人・清水清次がイギリス人殺害事件の犯人であるとの供述が得られました。12月16日、蒲池源八と稲葉紐次郎は強盗およびイギリス人士官殺害事件の連累として、第20連隊の士官やイギリス公使館員を始めとする外国人多数の立ち合いの下で、戸部の牢屋敷で死罪に処せられました。この翌日、千住の遊廓に潜伏中の清水清次(25)を捕縛しました。清水清次は、鎌倉に向かう道中で知り合った高橋藤次郎と言う人物と意気投合し、2人で八幡宮門前近くで待ち伏せしてイギリス人を殺害、犯行後すぐに高橋と別れて江戸に逃れて旧知の蒲池源八と稲葉紐次郎と出会い、3人で京に上る為の費用として羽鳥村の富農から金150両を脅し取った事を自供しました。清水清次は横浜で市中引き回しの後に、12月28日に戸部の鞍止坂刑場で多くの外国人や日本人の見守る中で斬首、首は吉田橋に晒されました。幕府は引き続き、高橋藤次郎の行方を追いましたが手掛かりが全く得られない為、架空の人物であると結論しました。そこで幕府は、清水清次の友人で捕縛直後に急いで江戸を離れるなど不審な動きを見せていた医師・田中春岱を京都で捕縛しました。田中春岱から「清水清次が天方一と共に鎌倉で英人を斬った」と吹聴していたと供述を得ました。この為、天方一を捕らえて2ヶ月に渡って2人を徹底的に追及しました。しかし、2人は事件への関与を頑強に否認、目撃者による面通しを行っても彼らが共犯者であるという証言が得られませんでした。やがて2人が著しく衰弱した為、取り調べは中止となって釈放されました。後に田中春岱は、清水清次から事件について聞きながら届け出なかった科によって遠島に処されました。その後、横浜近郊にある成就坊という寺の三男で、旗本・内藤豊助の小姓になっていた間宮一(18)が犯人との情報を得た幕府は、1865年8月31日に捕縛しました。幕府の取り調べに対して、間宮一は犯行を認めました。間宮一は母の死後、僧侶である父に育てられましたが武士に憧れて16才の時に還俗し、平尾桃厳斎という浪士の養子となって剣術修行に明け暮れていました。 しかし、養父が出奔して行方不明となり、実家に戻りました。以前より外国人の増長に憤りを感じていた為、その鬱憤を晴らす為に同志と2人で鎌倉に行き、イギリス人士官を斬殺しました。犯行後は江戸の知人宅に身を寄せ、その後は伝手を頼って現在の主人に仕えるようになりました。間宮一は、10月30日に鞍止坂刑場で処刑され、吉田橋にて梟首されました。翌1866年4月9日、イギリス政府より間宮一の処刑について満足している旨の書簡がパークスより幕府に奉呈され、賠償金などの要求を見る事なく落着しました。

そのまた次に、日清戦争:旅順虐殺事件です。1894年、朝鮮半島の覇権をめぐり「日清戦争」が勃発しましたが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めました。「黄海の海戦」に勝利の後、清朝の国内に攻め入り、旅順を陥落させようとしました。当時、遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛と並んで北洋海軍(李鴻章の実質私軍)の基地となっており、それに加えて清朝の海上輸送を睨む為には、落とさねばならない要衝でした。旅順攻略にあたったのは、大山巌が率いる第二軍でした。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、秋山好古少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強いられました。この戦いは後々大きな影を落とす事になります。しかし、11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠しました。東洋のジブラルタルと言われた旅順の攻略は、大変な困難を極めるだろうという欧米側の予想を裏切る迅速さでした。「不平等条約改正」を悲願とする日本は、戦争冒頭よりこの戦争を「文明戦争」と呼び、清側の態度に関わりなく「戦時国際法」を絶対遵守する事を国内外に宣伝してきました。しかし、旅順占領後、自らこの言に背く事態を引き起こす事となりました。それがこの事件です。第二軍司令部は旅順陥落と判断し、第一師団所属で乃木希典少将が率いる歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と、同十五連隊第三大隊に市内掃討の任務を命じました。この二つの部隊が事件第一段階の当事者となりました。直接のきっかけは「土城子の戦い」後に、日本軍死傷者に加えられた陵辱行為でした。鼻や耳を削がれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されているのを、二つの部隊が掃討の際に目撃して激昂しました。こうした清兵の死体損壊は、敵兵の首級や体の各部分を戦果の証拠とし、それに対して懸賞金を支払った為でした。敵討ち的感情を宿したまま旅順市内に入り、二つの部隊は掃討作戦に従事しました。そこで、清兵が軍服を捨ててゲリラ的戦闘をしました。日本軍は旅順市内の掃討作戦に入りました。この掃討戦で多数の旅順市民を含めた清国人が虐殺されました。200〜2000名が虐殺されたと見られていますが、中国側の主張では1万8000名となっています。

そのまた次の次に、ケンタッキーフライドチキンの第1号店がオープンです。日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社は、日本で「ケンタッキー・フライド・チキン」と「ピザハット」を運営する企業です。1970年にアメリカ合衆国のファーストフードチェーン店企業「KFCコーポレーション」と三菱商事の合弁で設立されました。2007年に米国法人が同社持分の大部分を三菱商事に売却した為、三菱商事の連結子会社となっています。1970年3月に日本万国博覧会で実験店を出店しました。1970年7月4日、三菱商事と「KFC」の出資により、「日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社」を設立しました。1970年11月21日、1号店(名西店)が名古屋市のダイヤモンドシティ・名西SC内にオープンしました。1974年、鶏の供養祭を開催し、以後毎年の恒例行事となりました。1991年5月、「ピザハット事業部」を新設しました。2006年6月1日、埼玉県戸田市(イオン北戸田SC内)にケンタッキーフライドチキン商品とピザハット商品を同一店舗内で提供する複合店、「2in1」の1号店を開店しました。KFC店舗前に据えられているカーネル・サンダースの等身大人形を「立像」といいます。カーネル像は、元々カナダのあるフランチャイズ店でイベント用に使用されたものでしたが、その後倉庫に放置されているところを、視察に訪れた日本法人の幹部が持ち帰ったのがはじまりです。フライドチキンそのものに馴染みのなかった日本で、ケンタッキーの店舗をアピールする目的で発案され、現在ほとんどの店舗前に置かれています。日本国外では一部アジア地域に存在します。その為、本国のアメリカではサンダース立像はあまり知られておらず、日本を訪れたアメリカ人には興味深いディスプレイとなっています。サンダース立像がかけているメガネは福井県鯖江市で製造されており、実際に度が入っています。

最後に、江川卓が読売ジャイアンツと契約(空白の一日事件)です。江川卓は作新学院のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園で大会通算最多奪三振など数々の記録を残して日本中の注目を浴びました。ほぼ全球団のスカウトが江川卓の家に訪問しましたが、江川卓は大学進学を希望しました。阪急が進学希望の江川卓をドラフト1位で強行指名しました。しかし、江川卓は大学進学を変えずに入団拒否し、法政大学に進学しました。1年目からエースとして活躍し、通算47勝(史上2位)、完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれ、通算奪三振数443個(当時1位)などの記録を残しました。大学4年となった1977年、巨人への入団希望を表明しました。しかし、クラウンライターが1位強行指名しました。これに対し江川卓は「九州は遠い」という理由で入団を拒否しました。1978年、大学卒業と同時に作新学院職員という身分でアメリカへ野球留学を行いました。大学から社会人野球チームに入団すると、最低2年間はプロ野球入団が禁じられる為、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択しました。1978年10月12日、クラウンライターの運営会社である福岡野球株式会社は西武グループに球団を譲渡、翌1979年より球団名を西武に改める事になりました。西武は本拠地を埼玉県所沢市に移転させる事を発表し、本拠地が関東から遠隔地という拒否理由を取り除きました。西武はクラウンライターから交渉権を引き継ぐと、西武グループ総帥であった堤義明は先代(堤康次郎)からの番頭格であった宮内巌を球団社長にし、宮内球団社長を渡米させて江川卓と入団交渉を行いました。しかし、江川卓の翻意はなく、11月20日を以って西武は江川卓との交渉権を喪失しました。江川卓は2日後に予定されるドラフトの対象選手として、もう1度指名を待つ身となりました。11月20日、江川卓はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国しました。その翌日の11月21日午前に、巨人は江川卓と入団契約を締結しました。巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行しました。ドラフト会議の前日の11月21日には西武の交渉権が消滅しており、「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフト会議が行われる11月22日以後であると巨人は解釈し、11月21日時点でドラフト対象外選手である江川卓と自由に契約できると主張して入団契約を行いました。ドラフト対象選手を在学生野球選手と社会人野球選手に限定すると解釈できる文言になっていた事は野球協約の抜け穴であり、巨人は野球協約の盲点を突いたのでした。しかし、これを認めればドラフトは骨抜きになる為、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は巨人との契約を無効とする裁定を下しました。これに対し巨人が反発、その抗議として翌22日のドラフト会議を欠席(ボイコット)する事になりました(巨人はドラフト会議が終了した後でドラフト外入団という手法で新人選手を10人獲得、この新人選手の一人には鹿取義隆がいます)。なお、江川本人は「空白の一日」を利用した契約の詳細については当日(11月21日)の朝に聞かされたといいます。他球団は、巨人の抜け駆け契約に抗議する形で江川を指名する球団が現れ、ドラフト会議で南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの4球団が1位指名しました。4球団の抽選の結果、阪神が交渉権を獲得しました。これに対し、巨人側はあくまで江川との契約の正当性を主張し「全12球団が出席していないドラフト会議は無効であり、阪神に江川交渉権獲得はない」と日本野球機構コミッショナーの金子鋭に提訴しました。11月23日、巨人側は江川卓選手の地位保全の仮処分申請を東京地裁に申請しました。巨人のオーナーであった正力亨は江川との交渉権が認められないのであれば、巨人がセ・リーグを脱退してドラフト制度に左右されない新リーグを作る構想を公言しました。その為、12月中旬でありながら翌年の開催日程も組めない非常事態に追い込まれました。12月21日、金子は「ドラフト会議欠席は巨人側が勝手に行ったこと」とし、ドラフト会議の結果はそのまま有効としました。その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」事と「阪神の江川に対する交渉権獲得を認める」事を正式に決定しました。翌12月22日のプロ野球実行委員会において「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という“強い要望”を提示しました。これにより、巨人は12月27日に「空白の一日」による江川との契約を解除しました。1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表しました。阪神は最終的に金子の要望を受け入れる事となりました。トレードの当事者となった小林繁は、巨人のキャンプ地である宮崎に渡るため羽田空港に向かっていましたが、ここで巨人の球団関係者に呼び止められ、阪神と契約した江川との交換トレードを告げられました。これによって江川は念願の巨人入りを果たしましたが、ファンやマスコミからはあまりにも唐突な展開だった為、「電撃トレード」と騒がれ、その多くは非難の声でした。しかしその後、2月8日のプロ野球実行委員会でこのトレードの野球協約違反が再び指摘されました。このため両者は交換トレードという形を取らず、小林繁は交換選手なしで阪神に移籍(契約上は金銭トレード、江川の契約金を巨人が支払う事で相殺となった)、江川は開幕日の4月7日に巨人に移籍とされました。江川は巨人のキャンプやオープン戦に参加せず、入団発表が4月7日に行われました。又、江川と入れ替わりに阪神に渡った小林繁は、この年は対巨人戦8勝負けなしという成績を収め、見事に意地を見せました。

今日の誕生日:国友一貫斎、三原脩、佐野周二、平幹二朗、岡本富士太、ヒクソン・グレイシー、五十嵐美貴(SHOW−YA)、古賀稔彦、SACHIKO(DOUBLE)、shuji(Janne Da Arc)、伊藤高史、冨田洋之、池脇千鶴、指原莉乃(元HKT48)、川井梨紗子

今日の記念日:世界テレビ・デー、世界ハロー・デー、インターネット記念日、街コンの日、自然薯芋の日、かきフライの日、フライドチキンの日、ロッキーの日、イーブイの日

今日の「今日訓」:本日は、1996年に国連で「第1回世界テレビ・フォーラム」が開催された事を記念して「世界テレビ・デー」、1973年の「第四次中東戦争」をきっかけに制定された「世界ハロー・デー 」、1969年にアメリカのARPANETの実験が始まった日です。これが後のインターネットの元になった事により「インターネット記念日」、1970年にケンタッキーフライドチキンの日本第1号店が愛知県名古屋市西区にオープンした事で「フライドチキンの日」、1976年にロッキーが全米公開された事で「ロッキーの日」、2012年に「第1回全国街コンサミット」が開かれた事を記念して「街コンの日」、「いい(11)じねんじょ(2)い(1)も」の語呂合わせで「自然薯芋の日」、牡蠣のシーズン11月と「フ(2)ライ(1)」の語呂合わせで「かきフライの日」、「11(イー)21(ブイ)」の語呂合わせで「イーブイの日」となりました。
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