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2022年11月20日00:52

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11月20日の日記

今日の出来事:1495年−小田原城奪取、1934年−陸軍士官学校事件、1945年−本庄繁割腹自殺、1948年−日本初の競輪が小倉競輪場で開始

今日は、小田原城奪取です。北条早雲は「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる。」という夢を見ました。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの北条早雲の事です。1494年、関東で山内上杉家と扇谷上杉家の抗争「長享の乱」が再燃し、扇谷上杉定正は北条早雲に援軍を依頼しました。上杉定正と北条早雲は荒川で関東管領・山内上杉顕定の軍と対峙しましたが、上杉定正が落馬して死去した事により、北条早雲は兵を返しました。扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていましたが、この年にそれぞれの当主である扇谷上杉定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われました。北条早雲は足利茶々丸の討伐を大義名分として、1495年に甲斐には攻め込み、甲斐守護・武田信縄と戦いました。その後、相模小田原の大森藤頼を討って小田原城を奪取しました。北条早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた大森藤頼も心を許して親しく歓談するようになりました。ある日、北条早雲は箱根山での鹿狩りのため、領内に勢子を入れさせて欲しいと願い出ました。これを大森藤頼は快く許しました。北条早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れました。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した北条早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちました。数万の兵が攻め寄せてきたと思い、小田原城は大混乱になって大森藤頼は命からがら逃げ出しました。こうして、北条早雲は易々と小田原城を手に入れました。

次に、陸軍士官学校事件です。1934年11月19日、士官学校の中隊長であった辻政信から、憲兵隊の塚本誠大尉に対して士官学校を中心にして「5・15事件」と同じ方法、手段をもって、元老、重臣、警視庁を襲撃する計画があるという密告がありました。憲兵隊では取り扱いをめぐって異見がありましたが一応、内査続行という処置をとりました。これに不満であった塚本誠、辻政信と軍事課の片倉衷が、11月20日の午前2時に陸軍次官・橋本虎之助を訪ねて検挙を要請しました。その結果、軍務局長・永田鉄山から東京憲兵隊警務課長あてに連絡され、陸軍士官学校でクーデター計画が発覚したとして、皇道派の青年将校の村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら3人と士官学校生徒5人が逮捕されました。事件は証拠不十分として不起訴処分となりましたが、村中孝次・磯部浅一の両名は停職、士官学校生徒5名が退学処分となりました。また、この事件の責任の名で、当時の陸軍士官学校幹事・東条英機少将は福岡旅団長に転出させられ、辻政信大尉は水戸連隊付として転出させられました。この事件と1935年7月に起こった「真崎教育総監更迭事件」は結果として皇道派の結束を深め、「相沢事件」や「二・二六事件」を起こす一因となりました。

その次に、本庄繁割腹自殺です。本庄繁は、1902年に陸軍大学校に入校しますが、1904年2月に「日露戦争」を理由に中退となり、歩兵第20連隊中隊長に任ぜられて出征しました。戦地に於いて大尉に進級しました。1906年に陸軍大学校に復校し、翌年11月に卒業後、参謀本部出仕に移りました。1909年5月、少佐に進級、1915年6月、中佐に進級、1918年6月10日、大佐に進級して参謀本部支那課長となりました。1919年8月に「シベリア出兵」に参加しました。1922年8月、少将に進級、1927年3月、中将に進みました。1931年8月、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任しました。その一ヶ月後に「柳条湖事件」が起こりました。元々、本庄繁が満州に渡る前から満州の情勢は不安定であり、「張作霖爆殺事件」や、その子・張学良の満鉄併行線建設、「万宝山事件」や「中村大尉事件」等の事件が続発している状態でした。本庄繁は「柳条湖事件」の報せを旅順の官舎で聞きました。その一時間後、参謀の板垣征四郎から緊急の電話が入りました。午後10時30分頃、奉天で支那軍と戦闘が始まり、板垣征四郎の独断で独立守備隊を動かしたとの連絡でした。本庄繁は、全関東軍に出動を命じ、奉天へ向いました。奉天は関東軍によって占領され、奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が奉天臨時市長に就き、その他の満鉄沿線地帯も占領されました。参謀本部のこの件に対する方針が後になって決定され、関東軍の出兵は自衛権の発動であるから認めるが、これ以上は武力行使を拡大しないとのもので、政府もこれを追認して閣議決定しました。しかし、中央の命令無しで越境出撃した朝鮮軍の応援を得て、関東軍は錦州、ハルピンと占領地を拡大し続けました。その後、1932年3月1日に満州国の建国が宣言されました。本庄繁は1932年8月8日に軍事参議官の辞令が出たため東京へ戻り、関東軍の軍状について天皇に拝謁して奉告しました。天皇の下問の中に「柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか」とありました。これに対して本庄繁は「関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやっておりませぬ」と答えました。天皇は「そうか、それならよかった」と述べました 。1933年6月には、陸軍大将に親任されました。1935年12月26日には「日露戦争」、「第一次世界大戦」、「満州事変」の功により男爵を授爵して華族に列せられました。1945年11月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から本庄繁に逮捕令が下りました。そして11月20日、本庄繁は陸軍大学校内の補導会理事長室で割腹自決しました。

最後に、日本初の競輪が小倉競輪場で開始です。小倉競輪場は1948年11月20日に開設された、日本で最初に出来た競輪場であり、「競輪」発祥の地でもあります。1948年に福岡県で開催される国民体育大会のために造る競技場を、そのまま「競輪」に振り向けるというアイデアがきっかけで小倉競輪場が誕生しました。なお、この時の「第1回小倉競輪」で発売された車券は単勝式・複勝式のみで、連勝式を最初に発売したのは同年12月11日の大阪府営大阪競輪場(大阪住之江競輪場)でした。「太平洋戦争」終結後、「競輪」は公営競技として開催されるようになりました。元満州国官吏(後に国策会社の社員となる)の海老澤清と、久留米連隊に所属して後にGHQで働く事になる元陸軍大尉の倉茂貞助の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立した事で始まりました。戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを、競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てる事はできないものかと考え出されたのが後の「競輪」でした。敗戦直後の1946年、気持ちが暗く沈んでいた日本国民を明るくしようと、「第1回国民体育大会」が近畿各地で開催されました。その「国民体育大会」は1948年10月に第3回が福岡県で開催される事となりました。しかし、莫大な経費が嵩む自転車競技場の建設には県内の自治体が難色を示し、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥りました。これを回避するため、小倉市が「人気種目の野球を小倉市で開催する」という事を条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのでした。その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として「自転車競技法」が1948年8月に成立しました。そして、11月20日、地方の財政健全化と経済情勢全般の健全化、自転車産業の振興を掲げ、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに「競輪」が誕生しました。なお、「競輪」の言葉を考え出したのは、当時の毎日新聞西部本社・門司支局に勤めていた新聞記者・山本鹿男でした。当初は「きょうわ」、「きょうりん」と発音していましたが、後に「鳴尾事件」が発生した時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、今の「けいりん」に改められました。第1回小倉競輪は予想を上回る成功をおさめ、財政難打開の手段として「競輪」を開催しようとする動きは、他の地方自治体へ波及しました。第1回小倉競輪以降の2年間で50以上の競輪場が建設され、1953年開設の静岡までに63の競輪場が開設されました。

今日の誕生日:徳川宗春、品川弥二郎、マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ、市川崑、ロバート・ケネディ、根本陸夫、萬屋錦之介、浜美枝、猪瀬直樹、ジョー・ウォルシュ(イーグルス)、倉田まり子、草尾毅、YOSHIKI(X JAPAN)、sakura(元L’Arc〜en〜Ciel)、SU(RIP SLYME)、ハチミツ二郎(東京ダイナマイト)、森圭介、小池栄子、石村舞波(元Berryz工房)、佐藤すみれ(元SKE48、元AKB48)

今日の記念日:世界こどもの日、アフリカ工業化の日、毛皮の日、ピザの日、山梨県民の日、発芽大豆の日、毛布の日、ホテルの日

今日の「今日訓」:本日は、「山梨県民の日」です。1868年3月、甲府城へ入った新政府軍・板垣退助が率いる甲州街道軍と、旧幕府軍・近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊(新選組)が勝沼の大善寺で激突しました(甲州勝沼の戦い)。旧幕府軍が駆逐され、甲州鎮撫府が設置されました。その後、甲斐国内に府中県(県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県、石和県が設置されました。12月11日に3県を統合して甲斐府が設置されました。1869年8月27日、「府」の呼称が京都府・東京府・大阪府に限定され、甲斐府は甲府県と改称しました。1870年5月に田安領を併合しました。1871年8月29日の廃藩置県後も甲府県は存続しましたが、第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して、甲斐国全域を管轄区域とする「山梨県」が発足しました。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられました。1887年に日本初の毛布生産がされた事で「毛布の日」、1890年に、帝国ホテルが開業した事で「ホテルの日」、1959年に「児童の権利に関する宣言」が採択された日で「世界こどもの日」、1989年の国連総会で制定された国際デー「アフリカ工業化の日 」、ピザの原型といわれる「ピッツァ・マルゲリータ」の名前の由来となった、イタリア王妃・マルゲリータの誕生日で「ピザの日」、「いい(11)ファー(20)」の語呂合わせで「毛皮の日」、「いい(11)はつが(20日)」の語呂合わせで「発芽大豆の日」となりました。
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