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2022年11月15日00:06

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11月15日の日記

今日の出来事:1942年−第三次ソロモン海戦:第二夜戦、1955年−保守合同:自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が誕生、1964年−シンザンが菊花賞を勝ち、セントライト以来23年ぶり、日本競馬史上2頭目の三冠馬となる、1982年−上越新幹線の大宮駅〜新潟駅間が開通、1986年−伊豆大島の三原山が12年ぶりに噴火

今日は、第三次ソロモン海戦:第二夜戦です。日本軍はガダルカナル島海域に突入するにあたり、近藤信竹は日本艦隊を4つに分けました。本隊(霧島、愛宕、高雄、朝雲、照月)はショートランド諸島の西岸沖合を南西に進み、サボ島西を通過して鉄底海峡に侵入、木村進少将の軽巡洋艦「長良」、駆逐艦4隻(電、白雲、初雪、五月雨)はサボ島西岸から鉄底海峡に向かい、橋本新太郎の第二部隊は軽巡「川内」と駆逐艦「浦波」、「敷波」がサボ島の東を南下、駆逐艦「綾波」がサボ島の西側を南進していました。偵察機の報告から、日本軍はガダルカナル周辺の米艦隊勢力を「巡洋艦数隻、駆逐艦数隻」と判断し、米軍新鋭戦艦がいる事に気付きませんでした。日本軍は米軍艦艇を発見しましたが、急なスコールにより見失いました。「第三次ソロモン海戦」の第2夜戦は、米軍新鋭戦艦と日本軍5500トン型軽巡洋艦の交戦で開始しました。駆逐艦「綾波」、軽巡「長良」、駆逐艦「五月雨」、「電」がサボ島西岸をから出現し、米艦隊に向けて砲戦・雷撃を開始、「五月雨」は魚雷8本を発射しました。米戦艦2隻は、日本軍の砲撃をサボ島に設置された日本軍砲台の攻撃と誤認し、サボ島に副砲を撃ちました。一方、トーマス・フレイザー司令官が指揮する米駆逐艦部隊4隻(ウォーク、ベンハム、プレストン、グウィン)は日本軍水雷戦隊と交戦しました。「ウォーク」は左舷に魚雷が命中、沈みはじめた艦から落下した爆雷が爆発して乗組員を殺傷し、沈没しました。「プレストン」は砲撃を受けて放棄されました。「ベンハム」は右舷艦首を魚雷命中でもぎ取られ、戦闘不能となって自沈しました。日本軍は、「綾波」が米駆逐艦の砲撃と戦艦「ワシントン」の副砲射撃により炎上して沈没しました。近藤艦隊本隊は探照灯を照射し、約1000m先を進む「サウスダコタ」を発見しました。「ワシントン」は「サウスダコタ」の南方を進んでいた為、日本艦隊に照射されませんでした。日本艦隊は「高雄」、「愛宕」、「霧島」という陣形で米艦隊とすれ違いながら、砲戦を開始しました。日米双方の主砲、高角砲、機銃が飛交いました。砲撃で「サウスダコタ」はレーダー機能と通信設備を失い、第三砲塔には「霧島」の砲弾が命中して作動不能となりました。近藤艦隊本隊は反転し、並走しながら「ワシントン」と「サウスダコタ」を追いかけるような陣形となりました。この間、「霧島」の水上偵察機(村島中尉機)は対空砲火で被弾不時着し、搭乗員は米軍の捕虜となりました。僚艦「サウスダコタ」が戦闘不能となる中、戦艦「ワシントン」は、「霧島」の探照灯照射により、レーダーで捉えた大型目標が日本戦艦であると確信しました。射撃命令が出され、一斉斉射し「霧島」に至近弾を与えました。続いて副砲が照明弾を発射し、日本艦隊は闇夜に浮かび上がりました。「ワシントン」は主砲斉射を続け、「霧島」に命中して爆発が発生しました。「ワシントン」はそれを確認すると副砲で「愛宕」と「高雄」を砲撃し、「愛宕」に大損害を与えたと信じました。「霧島」を撃沈したと信じた「ワシントン」は、射撃を停止しました。すると一息ついた「霧島」は反撃をします。近藤艦隊本隊は北西に変針し、「ワシントン」との距離をとろうとしました。再びレーダー射撃を再開した「ワシントン」は北西に進みながら「霧島」を砲撃しました。「ワシントン」は砲弾75発、副砲40発を発射し、砲弾9発の命中を確認しました。「霧島」は煙突周辺で火災発生後、後部副砲火災、舵故障、後部主砲火災発生、機関故障の順番で被害が累加し、前部主砲のみが健在でした。「霧島」は右舷に傾き、円を描いて進む事しかできなくなりました。この間、大破した「サウスダコタ」は「ワシントン」の後方を通過し、ガダルカナル島の西岸から南西に脱出しました。「サウスダコタ」は42発の命中弾を受け、38名が死亡、42名が負傷しました。「ワシントン」は田中輸送船団を撃沈すべく、単艦で北西に進撃しました。北西へ撤退する近藤艦隊本隊(愛宕、高雄)と並走する位置関係となり、「愛宕」は「ワシントン」を発見しました。「愛宕」は煙幕を展開すると、魚雷3本を発射、約15分間砲撃をしながら「ワシントン」と並走し、見失いました。日本軍輸送部隊がガダルカナル島に上陸する可能性は低いと判断したため、追撃を打ち切って反転を命じました。米軍第64任務部隊が去った戦場では、砲弾多数を被弾した「霧島」は右に5度傾斜し、舵は故障、中央機械室のみ健在で微速航行のみ可能でした。火災の為に前後部火薬庫に注水、バランスをとろうと両舷に注水しているうちに完全に航行不能となりました。軽巡洋艦「長良」や駆逐艦による曳航を試みましたが失敗、最後を悟った岩淵三次艦長は「照月」と「朝雲」に横付けするよう命じました。「霧島」の機関は一部が無事でしたが、機関科兵の戦死と艦尾に命中した魚雷貫通穴により浸水が進みました。駆逐艦の横付けと負傷者移乗が済んだ後、駆逐艦「朝雲」、「照月」、「五月雨」が見守る中、「霧島」は戦死者212名と共に沈没しました。駆逐艦隊は岩淵三次艦長以下1128名を救助しました。日米双方の艦隊は混戦の末にガダルカナル島とサボ島近海から離脱しました。輸送船団を指揮していた田中少将は、混乱した状況に活路を見出し、残存する輸送船4隻を揚陸地点の浅瀬に座礁させるという強硬策に出ました。船団はガダルカナル島タサファロンガの海岸に乗り上げました。駆逐艦9隻は救助した陸軍兵を揚陸し、ガダルカナル島を離れました。夜が明けると、米軍機による爆撃、陸上部隊からの砲撃により船団は炎上しました。結局、輸送船団は2000人の将兵、260箱の弾薬、1600袋の米をガダルカナル島に送り届けて壊滅しました。アメリカ海軍は大型艦の絶対数が不足する中で、ガダルカナル島の防衛に成功しました。日本海軍はこの海戦以降、水上戦闘部隊と輸送船団によるガダルカナル島への増援と補給を諦め、高速の駆逐艦や潜水艦用いた鼠輸送に専念するようになりました。チェスター・ニミッツ大将は「ガダルカナルの奪還、それに関連する重要な海戦に成功するか失敗するかは、勝利への道の分岐点である」と述べました。米軍史家のイヴァン・ミュージカントは、「第三次ソロモン海戦」を「ミッドウェー海戦」、「エル・アラメインの戦い」、「スターリングラード攻防戦」と同じく「第二次世界大戦」の転換点であると位置づけています。

次に、保守合同:自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が誕生です。「自由党」と「日本民主党」の保守政党が合同して「自由民主党」が結成されました。これと先に行われた「社会党再統一」により「55年体制」が成立しました。終戦直後から、社会主義勢力の台頭を危惧する保守政治家の間で、戦前の二大政党であった「立憲政友会系政治家」と「立憲民政党系政治家」が結集して新党を結成する構想が出されました。政友会系はかつて同党の総裁候補とされていた鳩山一郎を代表に担ごうと考え、戦時中の翼賛議会で鳩山一郎とともに軍部と戦った民政党系の三木武吉が構想の実現に奔走しました。だが、民政党系の多くは党首の経験の無い鳩山一郎よりも最後の総裁であった町田忠治が党首に相応しいと主張し、結局民政党系の大半は「大日本政治会」を母胎とする「日本進歩党」の結成に参加し、結成1ヵ月後に総裁に町田忠治を就任させた事により構想は挫折しました。しかし、翼賛議会において主流を占めた翼賛政治会の流れを汲む進歩党は間もなく公職追放によって壊滅的な打撃を受ける事になりました。一方、鳩山一郎を初代総裁として政友会系を中心に結成された「日本自由党」は1946年の第23回衆院選で第一党となりました。ところが直後に、鳩山一郎・三木武吉以下幹部の多くが公職追放の対象となってしまいました。そこで、占領軍に受けの良い親英米派の外務大臣・吉田茂を総理・総裁に擁立して危機を乗り越えようと考えました。鳩山派の考えに反して、吉田茂は鳩山一郎の公職追放解除後も政権は私物ではないとして、鳩山一郎への政権移譲を拒絶しました。この時には、官僚出身の親吉田派の若手議員が多数を占めていました(吉田学校)。更に、吉田茂は鳩山一郎の病気を口実に、緒方竹虎を後継者にする事を決めました。これをきっかけに自由党内は吉田支持派(官僚派中心)と鳩山支持派(党人派中心)に事実上分裂しました。1954年、鳩山一郎は三木武吉・河野一郎・岸信介らとともに吉田茂に不満を持つ自由党内の同志や野党の改進党など、他の保守系政党と大同団結を図って「日本民主党」を結成しました。一方、残った自由党内でも吉田茂の「ワンマン」と称される政治手法に対して国民の不満が高まっている事を感じた幹部たちは、緒方竹虎を中心に吉田茂に退陣を勧告しました。ここに至って吉田茂も内閣総辞職を決断し、自由党総裁を緒方竹虎に譲りました。だが、国会での首班指名選挙では鳩山一郎が緒方竹虎を破って「第1次鳩山一郎内閣」が成立しました。その後、左右社会党が再統一されて「日本社会党」となり、保守政党にとって脅威となりました。社会党の脅威に対抗するため、三木武吉や緒方竹虎らが「保守合同」を働きかけました。また、参議院の「緑風会」は、不偏不党を建前としていましたが、会員の多くは保守系であり、やはり有志という形で「保守合同」を求める口上書を民主、自由両党に送りました。「保守合同」には反対論もあり、その中心人物として旧改進党系の松村謙三、宇都宮徳馬、三木武夫らがおり、彼らは「保守分立論」を唱えました。しかし、最終的に「保守合同」によって「自由民主党」が結党され、唯一の保守政党による単独政権が誕生し、「55年体制」が始まりました。しかし、保守政党の溝は深く、総裁人事がまとまらなかったため、二党の総裁と総務会長であった鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、大野伴睦の4人による総裁代行委員体制として始まりました(5ヵ月後の1956年4月に鳩山一郎が総裁に就任)。また鳩山派に反発した吉田茂、佐藤栄作、橋本登美三郎らは当初「自民党」に参加しない等、足並みの乱れも見られました(3人は鳩山一郎が引退した1957年に「自民党」に入党します)。「保守合同」を受けて鳩山内閣は政権の基盤が変わったとして一旦、内閣総辞職をして首班指名を受け直しました。そして、第3次鳩山一郎内閣が誕生しました。結党当初の「自民党」は吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・戦後派など複雑な人間関係、思想対立の要素が絡んでおり、決して磐石であるとはいえませんでした。「保守合同」した当時、三木武吉は「自民党」について「10年持てば」と言い、松村謙三は「30年後には崩壊する」と予想しました。だが、日本経済の急速な成長や、いわゆる「政・官・財」の癒着構造、派閥などによる役職・資金配分のシステムや「派閥抗争」による「擬似政権交代」などに支えられる形で時を追うにつれてその政治的基盤は次第に強化されていきました。また、「緑風会」は自身の「保守合同」への参加は断りましたが、やがて会員のほとんどは「自民党」に移籍し、1965年に自然消滅しました。こうして、参議院で一定の勢力を占めていた「緑風会」を事実上吸収した事で、衆参共に「保守合同」による一大政党が完成しました。その後、「自民党」は「四十日抗争」などの分裂危機、「新自由クラブ結成」、「新生党」・「新党さきがけ」・「国民新党」など「自民党」からの離党・新党結党、新自由クラブ・日本社会党・公明党との「閣内連立」による政権維持、「1993年の下野」、「2007年の参議院第二党転落」など様々な変化がありましたが、衆議院第一党としての位置は2009年の第45回衆議院議員総選挙まで崩れませんでした。

その次に、シンザンが菊花賞を勝ち、日本競馬史上2頭目の三冠馬となるです。シンザンは、1963年11月にデビューし、3連勝を遂げました。翌1964年の1月に「オープン」を勝ち、4連勝を達成しました。次に、「スプリングS」に出走しました。シンザンは6番人気でしたが、ウメノチカラや「弥生賞」を勝ったトキノパレードなどを退けて優勝しました。「皐月賞」では1番人気となり、先行策をとると直線の入口で先頭に立ち、猛追するアスカに4分の3馬身差をつけて6連勝で「一冠」を獲得しました。次に、調整のため出走した「オープン」で2着に敗れ、初の敗北をしました。本番の「東京優駿(ダービー)」では1番人気に推されました。中団を進んだシンザンは最後の直線コースで外から仕掛け、内から追い込んだウメノチカラに一時交わされるも、鞭を入れられると再び差し返して優勝しました。優勝タイムの2分28秒8は、前年のメイズイのレコードから0.1秒遅れの競走史上2位のタイムでした。秋は「オープン」に出走して2着、次の「京都杯」ではバリモスニセイの2着に敗れました。「菊花賞」はウメノチカラに次ぐ2番人気でした。「菊花賞」は「牝馬三冠」を目指したカネケヤキが大逃げをし、一時は20馬身以上の大差を付けました。シンザンは直線で一気にスパートし、一時先頭に立ったウメノチカラを残り200メートルの地点で抜き去りました。戦後初、セントライト以来23年ぶりの「三冠」を達成しました。1965年は、オープン競走に2連勝した後、「宝塚記念」に出走しました。ファン投票は第1位でした。レースでは終始好位につけ、最後の直線コースに入ると外から先行馬を交わし、スタートの出遅れから追い込んだバリモスニセイを退けて勝利しました。秋は、阪神競馬場の「オープン」を優勝した後、「目黒記念」へ出走しました。シンザンは63kgという重い斤量を課されましたが、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールして優勝しました。「天皇賞(秋)」は「目黒記念」でシンザンに敗れた加賀武見騎乗のミハルカスが大逃げを打ちましたが、シンザンは直線でミハルカスを交わして先頭に立つと、そのままゴールしました。栗田勝は、初の天皇賞優勝となりました。このレースの単勝支持率は78.3%で、100円元返しでした。GI級競走での100円元返しは、他に5例しかありません、この後、オープンで2着になった後、「有馬記念」では単勝1.1倍の圧倒的1番人気となりました。シンザンは第4コーナーで逃げたミハルカスに並びかけましたが、ミハルカスに騎乗していた加賀武見は、シンザンに馬場状態の悪いインコースを走らせるために故意に外へ進路をとり、外側のラチ近くを走行しました。しかし、シンザンはミハルカスのさらに外を通ってミハルカスを交わし、優勝しました。この時、レースを撮影していたテレビカメラの視野からシンザンが消えてしまい、「シンザンが消えた!」と実況されました。シンザンの引退後、シンザンを超える競走馬を生産して育成する事が目標となり、シンボリルドルフが出現するまでの約20年間、「シンザンを超えろ」のスローガンが標榜され続けました。シンザンは、引退後に種牡馬となりました。しかし、当時は海外から輸入した種牡馬の活躍が著しく、内国産種牡馬の成績は低迷していました。そのような状況に配慮して、シンザンを繋養した谷川牧場は「儲ける事よりもシンザンの血統を後世に伝える事が重要」と考え、種付け料は20万円に設定されました。産駒からは八大競走などの大レースを勝つ馬が出ませんでしたが、1981年にミナガワマンナが「菊花賞」に優勝しました。この時、シンザンは高齢であったため「シンザン最後の大物」と呼ばれました。しかし、その後代表産駒となるミホシンザン(皐月賞、菊花賞、天皇賞(春))が登場しました。シンザンはミホシンザンが天皇賞(春)を制した1987年に、種牡馬を引退しました。1996年7月13日2時頃、老衰により永眠しました。35歳3か月11日の大往生でした。

その次の次に、上越新幹線の大宮駅〜新潟駅間が開通です。「全国新幹線鉄道整備法」の成立後、初の計画として1971年、「東北新幹線」、「成田新幹線」と共に着工しました。当初は、5−6年ほどで全線開業の予定でしたが、「オイルショック」の影響で建設費が高騰するなどし、計画は大きく乱れました。起点は元々の計画では新宿が起点でしたが、変更されました。1973年4月26日から、戸田市・与野市・浦和市の一部による非常に大規模な反対運動が発生しました。工事地内への居座り行動・デモ行進・国鉄説明会の打ち切りなどが実施され、東北・上越新幹線の騒音対策や通勤新線の建設など地元の要望が実現するきっかけとなりました。この一連の反対運動を「東北・上越新幹線反対運動」といいます。この運動により、「通勤新線(埼京線)の建設」、「都市鉄道(ニューシャトル)の建設」、「都市施設帯(環境空間・緩衝地帯)の設置」、「上野-大宮間のスピードダウン(110km/h規制)」が実現する事になりました。1979年3月20日には、建設工事中だった「大清水トンネル」で火災が起き、16名の死者を出しました。その後、「中山トンネル」工事中に2回の異常出水事故が発生しました。迂回のトンネルを掘るなど工事は難航し、この為に東北新幹線(大宮 - 盛岡間)との同時開業は果たせず、5か月遅れの1982年11月15日の開業となりました。上越新幹線の東京−大宮間は「東北新幹線」ですが、新潟行きの列車については東京−大宮間でも「上越新幹線」と呼ばれます。上越新幹線の大宮-高崎間に乗り入れている長野方面への列車は「長野新幹線」と呼ばれます。群馬県から新潟県にかけての区間(高崎-長岡間)は三国山脈を通過する為、大部分がトンネルです。また、世界有数の豪雪地帯である新潟県内を中心にスプリンクラーによる融雪設備を備えたり、新潟県内の新幹線駅に屋根を設置するなど雪害対策が入念に施されています。その為、雪による運行上の障害は滅多な事では発生しません。平野部(関東平野、越後平野)では、大部分が高架上を走っています。従来の東海道・山陽新幹線と違うのは、本州を横断する新幹線という事でした。本州の太平洋側と日本海側を結ぶ初の新幹線という意味でも注目されました。実際に東京から越後湯沢や長岡での乗り継ぎで上越・富山・高岡・金沢方面が、新潟での乗り継ぎで村上・鶴岡・酒田方面がそれぞれ以前より短時間で東京と結ばれました。また、「上越」の名称は並行在来線の上越線(高崎駅−宮内駅間)が由来で、群馬・新潟両県の旧国名(上州と越後)に由来します。なお、新潟県には別に「上越地方」・「上越市」が存在しますが、上越新幹線とは全く関係がありません。この上越市を北陸新幹線が経由しています。2015年3月14日、北陸新幹線延伸と同時に信越本線・脇野田駅は「上越妙高駅」と改称され、新幹線駅舎の運用が開始されました。信越本線は、第三セクター「えちごトキめき鉄道」の「妙高はねうまライン」となりました。越後湯沢−ガーラ湯沢間は、冬季のみ営業する区間です。新幹線車両しか乗り入れませんが、制度上は上越線の支線です。また、「羽越新幹線」は富山市から青森市に至る約560km(共用区間除く)にわたる新幹線の基本計画路線です。富山−上越間は北陸新幹線、長岡−新潟間は上越新幹線との共用区間となりました。

最後に、伊豆大島の三原山が12年ぶりに噴火です。三原山は、東京都大島町の伊豆大島にある中央火口丘です。伊豆大島の最高峰で標高は758mです。伊豆大島では約2万年前から現在まで、100年ないし200年毎に合計100回前後の大噴火が起きています。古くから島民は噴火を「御神火」、火山を「御神火様」と呼び敬ってきました。古代の火山活動については「六国史」などに記述がありますが、伊豆諸島の中で伊豆大島三原山の噴火と断定できるものはありません。伊豆大島の名が噴火記録に出てくるのは、竺仙録に「海中有一座山、名曰大島、毎年三百六十日、日日火出自燃」とあるのが最初で、1338年ごろの様子を記述したと考えられています。島内の元町地区にある薬師堂の祈祷札には、1552年10月17日に「御原ヨリ神火出テ同廿七日ノ夜半、江津ニ嶋ヲ焼出」という記録があります。これが噴火場所として「みはら」という名が出てくる最初の記録です。近世の大噴火としては、1684年から1690年にかけての噴火と1777年の噴火があり、どちらも溶岩がカルデラ壁を越えて流出するほどで、御救米が下されました。多くの記録は「大島焼」や「大嶋焼出」と記述されています。1950−51年の噴火では、三原山火口内南部に「三原新山」ができ、火口の北東に位置し標高754mでそれまで最高峰だった剣ケ峰を抜きました。噴火から2ヵ月後に溶岩は内輪山を越えてカルデラに流れ出しました。「三原新山」は竪坑状火孔再生に伴い、北半分が陥没して失われました。噴火そのものは中規模の噴火でした。1957年に火山弾によって1人が死亡、53人が怪我をしました。そして、1986年11月15日の噴火では、山頂の竪坑状火孔で始まりました。直径800メートルの内輪山の内側が溶岩で埋め尽くされ、内輪山縁にあった火口茶屋が焼失し、溶岩が内輪を超えて北西部からカルデラに800メートル流れ出しました。噴火を見ようと5000人を超える観光客が押し寄せ、島は歓迎ムードに包まれました。噴火は一旦は小康状態となり、立ち入り禁止区域に指定され営業できなかった商店では営業許可を求めて町役場に陳情に訪れるなど、比較的のんびりした雰囲気でした。噴火開始6日後の11月21日になると昼過ぎからカルデラ北部で地震が頻発し、午後4時15分、カルデラ床からの割れ目噴火となりました。午後5時46分には外輪山外の北西山腹からも割れ目噴火が始まり、溶岩が斜面を流れ下り3000人が住む元町集落に迫りました。この溶岩は最終的に元町の人家から数百mまで迫りました。割れ目噴火は北西側に伸びたため、当初島南部への避難が行われましたが、波浮港には大型船が接岸できないこと、地震活動の南東部への移動、波浮港周辺での開口割れ目の確認など、噴火の更なる拡大が懸念され、22時50分には全島避難が決定されました。翌22日5時10分に最後まで残っていた大島支庁・大島町職員が退去しました。全島の約1万人の島民が船で脱出し、およそ1ヶ月間避難しました。火口周辺は立入り禁止となり、1996年11月に解除されました。

今日の誕生日:田崎草雲、宇都宮三郎、岡本綺堂、芦田均(第47代内閣総理大臣)、エルヴィン・ロンメル、浪越徳治郎、カーチス・ルメイ、笹沢左保、内田康夫、肝付兼太、神田川俊郎、アンニ=フリッド・リングスタッド(ABBA)、中島啓江、堀井恒雄、パトリック・エムボマ、木村美穂(阿佐ヶ谷姉妹)、戸賀崎智信(元AKB48グループカスタマーセンター長)、平井理央、本郷奏多、谷澤恵里香(元アイドリング!!!7号)、峯岸みなみ(元AKB48)、渡部香生子、渋野日向子、平良海馬、南方仁

今日の記念日:七五三、昆布の日、きものの日、かまぼこの日、生コンクリート記念日、のど飴の日

今日の「今日訓」:本日は、「七五三」です。数え年で男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の時に子の成長を祝い、神社や寺院に参詣する行事です。15日になっている理由は7+5+3=15であるためです。1681年11月15日に、徳川徳松(江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まったのが起源です。この「七五三」に便乗して「昆布の日」、「きものの日」、1115年に蒲鉾が初めて文献に登場した「祝宴の膳の図」に描かれていた事から、「1115年」で11月15日を「かまぼこの日」、1949年に生コンクリートが初めて市場に出荷された事で「生コンクリート記念日」、「い(1)い(1)ひと(1)声(5)」の語呂合わせで「のど飴の日」となりました。
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