mixiユーザー(id:48382454)

2022年11月12日00:13

29 view

11月12日の日記

今日の出来事:1660年−塩止事件、1868年−秋田戊辰戦争:雫石・橋場口の戦い、1942年−第二次世界大戦:第三次ソロモン海戦、1945年−二又トンネル爆発事故、1948年−極東国際軍事裁判(東京裁判)で判決、1990年−今上天皇の即位の礼

今日は、塩止事件です。越後・新発田藩士の井上久助は、新発田藩の危機「塩止事件」で、自ら無実の罪を被って会津藩に斬刑に処せられる事で、藩を救った藩士です。父・井上八左衛門正実は、若狭・高浜城の溝口秀勝に仕官して戦場を馳駆した功臣でした。溝口秀勝は、「関ヶ原の戦い」で徳川家康から所領を安堵されて、新発田藩初代藩主となりました。井上八左衛門正実は700石を賜り、在中の役目を果たしました。その後、井上久助が5歳の時に病で亡くなりました。溝口秀勝はこれを深く悼み、まだ幼かった井上久助に跡目を継がせ、その郎党すべての面倒を見ました。これにより、井上久助はその恩義を忘れませんでした。1650年代になると、会津藩よりろうそくを、新発田藩より塩を送るのが恒例となっていました。御用商人の手による物々交換でした。しかし、会津藩のろうそく輸送が突然途絶えたため、新発田藩も塩の送り出しを中止しました。これは塩との価格不均衡が生じ、その交渉中にろうそくを止め、相対して塩荷も止めたもので、御用商人の問題でした。しかし、この事は会津藩を刺激しました。「塩は領民の生死に関わり、また重要なる兵糧である。塩止めは敵対行為である。新発田藩主はいかなる意図があるのか」と詰問状を送り、間罪使を派遣して強硬談判に及ぶと、さらに幕府に訴え出ました。親藩である会津藩主・保科正之は徳川家光の異母弟で、23万石の東北を鎮撫する役目がありました。対する外様5万石の小藩・新発田藩が対抗して塩を止めた事は、会津藩にとってはその誇りを傷つけられたものでした。当時、幕府の大名廃絶政策はかなり熾烈で、外様小藩の新発田藩にとっては存亡の危機となりました。この時、「拙者に存念がござる」と井上久助が名乗り出ました。井上久助の身には全く関わりの無い事でしたが、自ら塩横領の犯人と名乗り出て会津藩に出頭しました。町人の中村墨五郎を帯同して、横領の事実を証言させました。井上久助は、塩止めは欲に駆られた自分一人の所業で、藩主・溝口宣直以下は何人も全く預かり知らぬ事であると強弁し、熱した銅版を渡る拷問「抱烙の刑」にも耐えました。井上久助は熱板の上を渡りながら、謡曲「杜若」の一節を謡い、渡り終えるとばったりと倒れて無言となりました。結局、井上久助が一人で行った罪とされ、中村墨五郎は許されて帰国しました。その後、1660年11月12日、井上久助は会津藩と新発田藩の藩境の番所付近で、会津藩により斬刑に処せられました。こうして、井上久助は新発田藩を存亡の危機から救った英雄となりました。

次に、秋田戊辰戦争:雫石・橋場口の戦いです。「生保内口の戦い」によって、盛岡藩兵は久保田藩領に攻め込みましたが、盛岡藩兵は戦闘に負けて撤退しました。順次撤退を始め、板橋には盛岡藩兵160人が警備体制を敷いていました。11月5日に盛岡藩は降伏帰順を決定し、各警備隊にその旨が伝えられました。一方、奥羽鎮撫隊総督府は盛岡藩の帰服が正確さを欠くとして「問罪の師」を派遣すると共に、石田英吉(長崎・振遠隊隊長)、菅野覚兵衛らの庄内討伐軍および長崎・振遠隊に盛岡への転進を命じました。転進の軍は国見峠を越えて、雫石を突破して盛岡城に迫る方策を定めました。12日早暁、長崎・振遠隊を先鋒として島原藩兵、秋田藩兵らが国見峠を越え、降りしきる秋雨を突いて進撃しました。橋場に駐留していた警備兵は、降伏の知らせに規律が緩んでいました。太平の見張り小屋にいた小数の盛岡藩兵と板場の平右衛門と治右衛門は、手作りの濁り酒を持参して飲んで寝込んだところで襲撃を受けました。平右衛門は、真暗闇の中を転びながら板場にたどり着き、照井隊長に報告しました。治右衛門は既に斬り殺され、他の藩兵は暗闇が幸いして逃げ帰りました。照井隊長が率いる警備兵は、平右衛門の先導で峠に向かって進みました。そして、坂本川、小屋場ノ沢付近の治郎吉橋の曲がり角で「振遠隊」と衝突しました。照井隊長は攻撃の中止を要請しましたが、聞き入れられずに小銃の撃ち合いになりました。照井隊長は、敵の指揮官と一騎打ちの勝負を迫り、名乗りを上げて斬り合いました。しかし、勝負が付かず、双方が刀を捨てての組み打ちとなり、崖から転げ落ちて照井隊長が組み勝ちました。照井隊長は、腰の小刀を抜きましたが鞘のまま抜け、鞘を口に加えて小刀を抜こうしました。その時、敵将は素早く小刀を下から抜いて照井隊長の心臓を刺して、勝ち名乗りを上げました。隊長を討たれ、鉄砲の精巧さに押された兵が橋場まで下った時は、既に間道を迂回して竜川を越えた一隊による北方の山上から大砲や小銃の攻撃を受けて、自ら集落に火を付けて逃げた後でした。敗走する盛岡兵の中で、マタギの与吉は集落が焼ける煙の中を、三柱神社の方に進んでいきました。与吉は「振遠隊」の隊長らしき者が、敗走する盛岡兵を遠望するのを見つけました。与吉は明神岩の陰に身を寄せて、火縄銃の一発で斥候長・福田栄之助を斃しました。味方のマタギが「与吉(よぎ)うまくやったぞ」と叫んで山道に逃げ込みました。敵がその声に集中攻撃をする間に、与吉は舟原の山中に逃げました。声援した者の名前は伝わっていません。長崎勢は「よぎ」の呼び名を頼りにマタギを何人も呼んで尋問するなど、後年まで尋ねましたが誰も与吉の名を知らせる者はいませんでした。与吉は安栖佐兵衛の元で一生を隠れ通し、81歳で死去しました。戦死した「振遠隊」の斥候長・福田栄之助の遺骸は雫石の広養寺に埋葬されました。明治時代に官修墳墓に指定され、県から管理費が交付されて管理人が置かれました。戦後は、顕彰碑が墓前に建てられました。「振遠隊」はさらに進んで安栖に迫り、川を隔てた小赤坂にも砲撃を加えました。盛岡の本陣からは降伏の使者が送られ、春木場の西馳せ下りに白旗を建てて申し入れを行い、ひとまず休戦となりました。小田儀兵衛方に来ていた橋場の九郎兵衛(千葉惣七)は帯刀していたため、斬り殺されました。13日、雫石警備隊・長沢田斉と菊池仙助は振遠隊隊長・石田英吉と会見し、新政府軍に発砲した理由を釈明しました。そして、三戸式部による謝罪降伏の手続き中である事を理由に、進撃の見合わせを要請しました。しかし、新政府軍はこの申し入れを一蹴して雫石まで進軍し、寺院や大家に宿泊して盛岡への進撃に備えました。盛岡藩は家老・毛馬内讃岐と用人・遠山合らを急いで雫石に派遣して、石田英吉や軍監・中尾栄吉郎らと会見しました。そして、進撃は7日間見合わせる代わりに、11月18日に盛岡城を開城し、銃砲や弾薬等を全て引き渡す事を決定しました。しかし、実際に開城は5日延期され、11月28日に行われました。雫石に駐在していた軍のうち、振遠隊隊長・石田英吉は秋田藩兵の一部を率いて盛岡に入城し、残りの軍は総督府の連絡で角館まで引き上げました。

その次に、第二次世界大戦:第三次ソロモン海戦です。米軍は「ウォッチタワー作戦」を発動し、ガダルカナル島、フロリダ諸島を占領しました。日本軍はガダルカナル島の戦力を増強して米海兵隊から占領地を奪還しようと試みましたが、ヘンダーソン飛行場から発進した米軍機によって輸送船団が撃退されて阻止されました。日本軍は、米軍機に襲撃されると大きな損害を出す、輸送船による兵力増強を諦めました。代替手段として、日本海軍は駆逐艦を輸送船のかわりに用いる「鼠輸送」で補給を続けました。また、駆逐艦の輸送力は輸送船に比べてあまりにも小さく、その補給効果は限定的でした。さらに米海軍の迎撃や米魚雷艇の活動によって駆逐艦の損害も増えました。日本海軍は制空権掌握の障害となるヘンダーソン飛行場に対して、4回の艦砲射撃を行っていました。金剛型戦艦「金剛」、「榛名」が砲撃を行い、一時的に飛行場を使用不能としました「ヘンダーソン基地艦砲射撃」。それでも飛行場の機能を奪うには至りませんでした。海上からの砲撃と並行して、ニューブリテン島のラバウル基地から日本軍ラバウル航空隊(第十一航空艦隊、第二五一海軍航空隊等)、ニューギニア島のブナ基地から第二〇四航空隊や空母「隼鷹」、「飛鷹」航空隊がガダルカナル島上空に出撃して、飛行場爆撃や米軍戦闘機駆逐を試みましたが失敗しました。戦争初期、空中格闘戦能力の高さで連合軍機を圧倒した「零式艦上戦闘機(零戦)」も、制空戦闘では「往路2時間、ガダルカナル上空での空中戦、帰路2時間」、零戦より速度のでない「一式陸上攻撃機」爆撃隊を掩護する任務では「片道4時間、直掩戦闘、帰路4時間、合計8時間」という長時間の任務となり、損害を増やしました。日本軍が航空戦に苦戦する一方、米軍はエスピリトゥサント島を基地とする「B−17大型爆撃機(通称・空の要塞)」の活動と米軍潜水艦によって、日本軍の行動力を妨げていました。ガダルカナル島の日本陸軍に補給物資を届ける事がますます難しくなり、日本軍にとってガダルカナル島の戦局は悪化の一途を辿りました。そこで日本海軍(連合艦隊)は、大口径砲を装備した戦艦による艦砲射撃をふたたび実施して飛行場を破壊、同時に陸軍第三十八師団と大量の補給物資をガダルカナル島に強行輸送し、米軍を圧倒するという決断を下しました。第十一戦隊の金剛型戦艦「比叡」、「霧島」の2隻を中核として「第五次挺身隊」を編成し、彼らに第三十八師団上陸の前にヘンダーソン基地の砲撃を命じました。「比叡」、「霧島」とも就役してから30年が経過していましたが、改装によって速力30ノットを発揮する高速戦艦となり、「真珠湾攻撃」や「ミッドウェー海戦」で空母機動部隊の護衛艦をつとめるなど、第一線級の能力を持っていました。特に「比叡」は、大和型戦艦のテスト艦として装備が改良されていました。吉田俊雄(海軍少佐、軍令部勤務)は「本来海軍が担当すべきガダルカナル島で陸軍が苦労している。せめて海軍は艦砲射撃で掩護しなければならない。」という、陸軍に対する日本海軍の引け目が作戦の背景にあったと指摘しています。「比叡」、「霧島」を擁する第十一戦隊や各艦将校は「柳の下のドジョウ掬いで2回目は危ないのではないか」と懸念を示していましたが、山本五十六連合艦隊司令長官が自ら陣頭指揮をとる事を示唆すると、作戦を了承しました。それでも、日本海軍は米軍の空母機動部隊が「南太平洋海戦」で壊滅すると、米軍による妨害を排除可能と判断しました。第三十八師団は最大速力15ノット以下の輸送船11隻に分乗し、11月13日を上陸予定日としてショートランド泊地を出港し、南東に針路をとりガダルカナル島へ向かいました。11月9日、第四戦隊、第三戦隊、第十一戦隊、第八戦隊、第十戦隊(軽巡長良、第十六駆逐隊)、第三水雷戦隊(軽巡川内、第六駆逐隊、第十五駆逐隊、第十一駆逐隊)、第二航空戦隊・空母「隼鷹」がトラック泊地を出撃しました。アメリカ海軍は日本軍の動きを察知すると、機先を制するように動き出しました。ニューカレドニアのヌーメアにいたウィリアム・ハルゼー提督が、ガダルカナル島にいるアメリカ海兵隊のバンデクリフト少将との約束を守るべく行動を開始しました。ハルゼーはリッチモンド・K・ターナー少将に陸軍第182歩兵連隊、第4海兵隊補充大隊、第1海兵隊航空技術者大隊をガダルカナルに投入するよう命じ、また「南太平洋海戦」で受けた損傷を修理中の空母「エンタープライズ」を中核に、新世代のノースカロライナ級戦艦「ワシントン」、サウスダコタ級戦艦「サウスダコタ」、巡洋艦「ノーザンプトン」、「サンディエゴ」、駆逐艦8隻をもって、第16任務部隊を編成しました。ダニエル・キャラハン少将に対しては、指揮下の巡洋艦「サンフランシスコ」、「ペサンコラ」、「ポートランド」、「ヘレナ」、「ジュノー」、駆逐艦10隻の第67任務部隊4群をもってターナー輸送船団の護衛を命じました。海兵隊航空地上要員部隊は、輸送艦「ゼイリン」、「リブラ」、「ベテルギウス」に乗艦し、ノーマン・スコット少将が率いる第62任務部隊第4群(巡洋艦「アトランタ」、駆逐艦4隻)に護衛され、ガダルカナル島へ向かいました。11月11日、第16任務部隊はダンベア湾を出港しました。日本艦隊も米艦隊の出撃を第十一航空艦隊の偵察により察知しました。当初は「戦艦3、巡洋艦1、駆逐艦4」という規模の艦隊と「重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦11隻」に守られた10隻程度の輸送船団がガダルカナル島に接近しているという情報でしたが、12日に「戦艦は防空巡洋艦の誤り」という訂正電報が入りました。また第八五一航空隊の偵察機は「敵大機動部隊発見」を報告し、日本軍は米空母の出現を知りました。その一方で、日本軍はガダルカナル島の米軍航空戦力を戦闘機2、艦上爆撃機20程度と推測し、11日には第十一航空艦隊が米軍戦闘機11機撃墜、第二〇四空が24機撃墜を報じました。空母「飛鷹」航空隊(陸上基地発進、零戦12、艦上爆撃機9)に至っては、ガダルカナル島周辺の米軍巡洋艦1隻、駆逐艦5隻、輸送船3隻を攻撃して「米軍機撃墜25、駆逐艦1隻、輸送船1隻撃沈(零戦3、艦爆4喪失)」と報告しています。宇垣纏連合艦隊参謀長は、航空隊の戦果報告と、ガ島日本軍陸上部隊からの戦果報告が全く一致しないことに「全然別個の一群存在するや否や総合判断に苦しむ」と困惑していました。このような状況下、日米両軍は期せずして、船の墓場と両軍が呼ぶ「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」(サボ島とガダルカナル島周辺海域)に引き寄せられていました。11月12日、日本艦隊は戦艦「比叡」を旗艦とするガダルカナル島砲撃艦隊(挺身艦隊)と、第三戦隊(金剛型戦艦金剛、榛名)と主力空母「隼鷹」、軽空母「瑞鳳」を含む支援艦隊の二手にわかれました。日本軍より一足はやくガダルカナル島に到着した米軍は、島で待つ米軍海兵隊に増強兵力、補給物資の揚陸を開始しました。ブナ基地から発進した空母「飛鷹」航空隊の九九式艦上爆撃機9機が攻撃しましたが、戦果なく撃退されました。ラバウルから飛来した第十一航空艦隊の一式陸上攻撃機27機がエスペランス岬方面からガダルカナル島上空に出現しましたが、米軍輸送船団を識別できず、ヘンダーソン飛行場を爆撃して去りました。午後12時30分、第二〇四空の攻撃隊がガダルカナル島に向かいましたが、天候不良のため引き返しました。第二五三海軍航空隊と第五八二海軍航空隊の零戦18機に護衛された29機の一式陸攻が出現しました。29機の所属は、9機が第七〇三空(8機喪失)、7機は第七〇五空(5機喪失)、4機は第七〇七空(3機喪失)でした(残9機所属不明)。攻撃隊はフロリダ諸島上空で二手に分かれると、8メートルから16メートルの超低空から攻撃を仕掛けました。米軍戦闘機の迎撃と、防空巡洋艦「アトランタ」、「ジュノー」をふくめた米軍艦艇の対空砲火により一式陸上攻撃機は戦果なく撃退されましたが、1機の一式陸攻が「サンフランシスコ」に体当たりし、火災を発生させました。日本挺身艦隊も米軍輸送船団の揚陸作業と護衛巡洋艦について情報を得ていましたが、航空攻撃に対する戦果は実際の米軍被害にくらべてかなり大袈裟でした。攻撃隊は「重巡洋艦1、軽巡洋艦1撃沈、輸送船3炎上」と報告しました。日本軍第十一航空艦隊は「米重巡洋艦1隻撃沈、重巡洋艦4隻炎上中」と各部隊に通知しました。第十八戦隊は「米軍輸送船1隻撃沈、米軍重巡洋艦1隻、輸送船1隻大火災、重巡洋艦1隻黒煙噴出、駆逐艦2隻白煙、米軍戦闘機19機撃墜」と受信しています。こうして日本軍の航空攻撃は失敗し、米軍はガダルカナル島に増援兵力を輸送する事に成功しました。12日午後、米軍はB−17爆撃機による航空偵察をおこない、ガダルカナル島に接近する日本軍艦隊を発見しました。そこでターナーは自身の護衛艦隊から「アトランタ」、「ジュノー」、「ヘレナ」、駆逐艦2隻を分離させ、キャラハン少将の艦隊に加えました。一方、12日午後3時30分、田中少将率いる輸送船団と護衛艦隊はショートランド泊地を出港しました。

その次の次に、二又トンネル爆発事故です。福岡県田川郡添田町落合の日田彦山線彦山駅から南方500mにあった二又トンネルで、アメリカ軍が大日本帝国陸軍の隠していた火薬を焼却処理しようとしたところ大爆発を起こし、山全体と多数の民家が吹き飛ばされて死者147人、負傷者149人を出した事故です。1945年8月15日に日本が降伏し、「第二次世界大戦」は終結しました。連合国福岡地区占領軍は、添田警察署と責任者で山田填薬所長だった陸軍少佐に対して火薬類の引き渡しを指示したため、陸軍少佐は在庫確認しました。二又トンネルには532185kgの火薬及び爆弾の信管185kgが保管されていました。火薬を焼却しても危険性がないとして、先に試験的に爆薬に点火し、爆発しない事を確認した上で、警察官たちに焼却処分しても危険性のない事を説明して、警察官たちがその旨を付近住民に伝えました。点火時刻を15時と決めた占領軍一行は吉木トンネルと同様に、トンネルの北側入口(彦山駅側)から約10m程離れたところから導火線を作り、全員をトンネルから100m北方へ避難させ、15時頃に下士官が導火線に点火しました。様子を見守っていた占領軍兵士一行はこちらも爆発の可能性はないとして、巡査部長に後を託して15時30分頃にジープで基地へ引き揚げました。巡査部長はトンネル付近に住民が近寄らないように見張りを立たせていましたが、点火から約2時間後、悲劇は起こりました。占領軍兵士一行が引き揚げてから約1時間後の16時30分頃、火薬を燃やす炎は火柱のようになってトンネルから噴出し、川の対岸にあった民家に延焼しました。火は次々と燃え広がって多くの住民が消火活動にあたりましたが、炎の勢いはおさまるどころか激しさを増し、ついに17時20分、火薬が大爆発を起こして山全体が吹き飛んでしまい、彼らは落ちてきた土砂の下に埋もれてしまいました。付近の民家は住民ごと吹き飛ばされ、火薬の搬入作業にあたった婦女子の多くや、爆発の危険性はないと住民に説明してトンネルの見張りを行っていた巡査部長、ドングリ採集をしていた落合小学校の児童29名も犠牲になりました。トンネルを爆心地として被害の範囲は2km内外に及び、飛んできた炎や空中に舞い上げられ落ちて来た土砂、岩石、倒壊物などの落下により多くの人々が死傷、多くの民家と田畑が延焼や埋没、全壊し、甚大な人的被害を出すに至りました。爆発により被害を受けた家屋は135戸に及びました。

そのまた次に、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決です。極東国際軍事裁判は、「第二次世界大戦」で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判です。「東京裁判」とも称されます。以下の判決が言い渡されました。
死刑:板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、武藤章、松井石根、広田弘毅
終身刑:荒木貞夫、梅津美治郎、大島浩、岡敬純、賀屋興宣、木戸幸一、小磯国昭、佐藤賢了、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、南次郎、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹
有期禁錮:重光葵(7年)、東郷茂徳(20年)
判決前に病死:永野修身、松岡洋右
自殺:小泉親彦、近衛文麿、橋田邦彦、本庄繁
訴追免除:大川周明(精神障害)

最後に、今上天皇の即位の礼です。今上天皇の即位の礼「大嘗祭」を巡る儀式は、1990年1月23日の「期日奉告の儀」から始まり、1年間に渉って関連行事が行われました。「即位の礼」にあたり、式典の警備・要人警護には昭和天皇の「大喪の礼」での3万2000人を大きく上回る3万7000人の皇宮護衛官、警察官が動員されて、徹底した検問などが行われました。この警備の特別予算は54億円に上りました。高御座の輸送に当たっては、過激派テロリストによる妨害を防ぐため、陸上自衛隊のヘリコプターで隠密に行われました。即位を祝う「饗宴の儀」は、宮殿豊明殿で11月12日から行われ、15日迄計7回、延べ3500人の賓客が招かれました。NHKが中継した「即位の礼・正殿の儀」は、平均視聴率31.9%を記録しました。

今日の誕生日:オーギュスト・ロダン、大山巌、孫文、グレース・ケリー、 ミヒャエル・エンデ、俵孝太郎、ニール・ヤング、銀河万丈、由美かおる、岩崎宏美、松本ちえこ、TOM(元TOM★CAT)、ナディア・コマネチ、麻木久仁子、寺島進、河野景子、高木琢也、サミー・ソーサ、中野聡子(日本エレキテル連合)、寺川綾、高良健吾、清武弘嗣、浅村栄斗、今井華、守屋茜(元櫻坂46)、平祐奈

今日の記念日:洋服記念日、皮膚の日

今日の「今日訓」:本日は、1872年に「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という「太政官布告」が出され、それまでの公家風・武家風の和服礼装が廃止された事で「洋服記念日」、「い(1)い(1)ひ(1)ふ(2)」の語呂合わせで「皮膚の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する