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2022年11月10日00:11

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11月10日の日記

今日の出来事:1180年−源平合戦:黄瀬川の対面、1566年−箕輪城の戦い、1567年−東大寺大仏殿の戦い、1868年−会津戊辰戦争:佐川官兵衛降伏、1915年−大正天皇の即位礼、1928年−昭和天皇の即位礼、1989年−ベルリンの壁崩壊

今日は、源平合戦:黄瀬川の対面です。「富士川の戦い」の翌日、黄瀬川駅(静岡県駿東郡清水町)で若い武者が源頼朝との対面を願い出ました。その若武者は、源頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟・九郎義経でした。土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしませんでしたが、騒ぎを聞きつけた源頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い、対面がかないました。頼朝は「後三年の役」で源義家が苦戦していた時、その弟・義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流しました。後に義経はもう一人の兄・範頼とともに木曾義仲討滅、平家追討の指揮をとり、「宇治川の戦い」、「一ノ谷の戦い」、「屋島の戦い」で勝利し、そして「壇ノ浦の戦い」で平家を滅ぼす事になります。

次に、箕輪城の戦いです。箕輪城主・長野業盛は、長野業正の子です。長野氏の本姓は在原氏で、祖先は在原業平です。長野氏は上野西部の豪族で、関東管領・山内上杉家に属する勢力でした。また、周囲の小豪族・国人を取りまとめており、その集団は「関東幕注文」では「箕輪衆」と呼ばれていました。また、娘を上野の諸豪族に嫁がせる事で団結力を強めていました。一方で、上野守護代で長野業正の縁戚である白井長尾家で長尾景誠が暗殺されると、介入して白井長尾家の実権を握りました。上杉憲政が北条氏康に大敗した「河越夜戦」に参戦し、この時に嫡子・吉業を失いました。1552年、御嶽城が落城して武蔵国を上杉憲政が完全に失うと、長野氏は西上州の諸将とともに離反しました。これにより、上杉憲政の馬廻衆も離反し、居城・平井城を退去して沼田氏など上杉方の勢力が強い上野国北部へ逃れました。その後、1557から甲斐の武田信玄が西上野侵攻を開始すると、長野業正は上野国人衆を糾合して2万余の大軍を編成し、瓶尻で迎え撃ちました。しかし、緒戦で武田軍を圧倒しましたが諸将の足並みが揃わず、打ち負かされてしまいました。しかし、ここで長野業正は殿軍を務めて、度々武田軍の追撃を打ち払う退却戦を演じました。さらに居城・箕輪城に籠城した長野業正は、守りを固めて越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に後詰を請い、遂に武田方の侵攻を挫きました。その後も防衛戦を指揮し、野戦では勝てませんでしたが、夜襲・朝駆けの奇襲戦法を用いて武田方の6次にわたる侵攻を全て撃退しました。こうして、主君・上杉憲政が北条氏康に敗れて上野を追われた後も、上杉家に義理を立てて北条氏に従わずに上野国の支配を崩さなかった忠臣と言われるようになりました。1561年12月28日、長野業正は病死しました。享年71でした。後を三男・業盛が継ぎました。死去する前に長野業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない。」と遺言しました。武田信玄は、「長野業正が上野にいる限り、上野を攻め取ることは出来ぬ」と嘆きましたが、その死を知ると大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けました。長野業盛は一度は、武田軍を撃退しました。しかし、1566年に武田信玄が2万の大軍を率いて攻め込むと、居城・箕輪城に拠って箕輪衆を率いて懸命に抗戦しましたが、衆寡敵せずに敗れて11月10日、本丸の北側にある御前曲輪の持仏堂で父・業正の位牌を拝み、一族郎党と供に自害しました。享年23でした。辞世は「春風に 梅も桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」 これにより、長野氏は滅亡しました。遺骸は哀れに思った僧・法如らが、大円寺の墓地に葬りました。長野業盛の子・亀寿丸(2歳)は、家臣に抱かれて落ち延びて、城の南1里半にある寺・和田山極楽院に匿われました。後に出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主となりました。長野業盛の弟・業親の子の伝蔵(業実)は、武田氏滅亡後に「徳川四天王」の一人で箕輪を領した井伊直政の家臣となり、4000石を有して彦根藩の次席家老となりました。幕末の大老・井伊直弼の師・長野主膳は長野業盛の子孫と言われています。弟・正宣は、武田信玄に仕えて53貫文の地を拝領しました。その子・久左衛門正信は、上野国三寺郷に住し、三寺姓を名乗りました。

その次に、東大寺大仏殿の戦いです。1564年に飯盛山城で三好長慶が病死すると、翌1565年に三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀は、第13代将軍・足利義輝を暗殺しました「永禄の変」。この「永禄の変」以降、三好三人衆と松永久秀は三好氏の主導権を巡って仲たがいに陥りました。三好三人衆は松永方の城であった飯盛山城を突如襲って、三好長慶の甥で後継者であった三好義継を高屋城に庇護しました。これにより三好三人衆と松永久秀の対立は、決定的となりました。松永久秀は、長らく敵対関係にあった筒井順慶に矛先を向けました。その居城・筒井城で「筒井城の戦い」となり、落城させました。翌1566年、三好三人衆に加担する安宅信康に率いられた淡路衆が、兵庫に上陸しました。三好三人衆の軍は筒井軍と合流し、堺に向け兵を動かしました。更に高屋城にいた三好義継、三好康長軍、池田城にいた池田勝正軍、滝山城を攻囲していた安宅信康軍の一部を加え、総勢1万5000で松永久秀が居座る堺を包囲しました。松永軍は6000で劣勢となり、津田宗達と会合衆に仲介を申し出て堺を戦場としない、自らの敗北を認めるという条件で停戦を結びました。大和では、筒井軍が筒井城を攻城し、居城の奪還に成功しました。また、篠原長房が率いる阿波、讃岐の15000が兵庫に上陸しました。三好三人衆はここで、遺言により秘されてあった三好長慶の死を世間に公表すると、三好氏の新当主・義継を喪主とする盛大な葬儀を真観寺で営みました。ここから、三好三人衆軍の松永久秀討伐に向けた快進撃が始まります。山城、摂津を統治下に置いた三好三人衆は、新たな征夷大将軍として足利義栄を迎えました。しかし、1567年5月24日、松永久秀がいる信貴山城に突如として、三好義継が保護を求めてきました。これが、劣勢下にあった松永久秀に大義名分を与えました。この動きを察知した筒井順慶は、筒井城の防備を固めました。三好義継を擁した松永久秀は、信貴山城から多聞山城に移動しました。三好義継が松永久秀に寝返った事に激怒した三好三人衆は、大和へ入国しました。三好三人衆軍と筒井順慶軍は連合軍となって奈良周辺に出陣しました。これに対して松永・三好連合軍は戒壇院、転害門に軍を進めました。そして、ついに戦闘が開始されました。東大寺の南大門周辺で両軍の銃撃戦が繰り広げられ、真夜中になっても銃声が衰える事はありませんでした。その後、前線部隊の小競り合いがありましたが、多聞山城との間合いを詰めるため、三好三人衆は東大寺に陣を進めようとしました。これに対して筒井順慶は反対していましたが、膠着状態を避けるため興福寺を通じて東大寺への布陣の許可を申し出ました。これに対して寺側が許可しました。これは筒井順慶自身が興福寺側であった事と、松永・三好連合軍が戒壇院、転害門に許しを得ず布陣しており、松永久秀に対して寺領が侵されるなど不満が高まっていたためでした。許しを得た三好三人衆の1人・岩成友通隊は1万の兵で東大寺へ軍を進め、布陣しました。これに対して松永久秀軍も戒壇院の防備を固め、立て籠りました。足利義栄の普門寺城で警護軍として駐屯していた篠原長房、池田勝正連合軍は8千で大和に入国、西方寺に布陣しました。これに即応した三好三人衆の1人・三好政康隊が兵8千を引き連れて西ノ坂へ陣変えし、岩成友通隊は氷室山法雲院の背後に布陣し、筒井順慶軍は引き続き大乗院山に陣取りました。池田勝正軍は宿院城を攻城しましたが、松永久秀軍が頑強に防御したため、多くの兵を失って西方寺に退却しました。松永久秀軍は、般若寺、文殊堂、仏餉堂、妙光院、観音院を焼き払いました。池田勝正軍は再び挑みましたが、撃退されて再び西方寺に退却しました。この時も松永久秀軍は宝徳院、妙音院、徳蔵院、金蔵院を焼き尽くしました。松永久秀の援軍要請をうけ、畠山高政が率いる根来衆が出軍し、三好三人衆軍に属していた飯盛山城の城主・松山安芸守が裏切って畠山軍に加勢しました。畠山高政軍が紀ノ川沿いに大和に入国してきましたが、岩成友通、篠原長房連合軍が迎撃し、紀伊に撃退しました。そのまま河内に兵2千をすすめ、飯盛山城を攻囲しました。松永久秀軍は、飯盛山城の救援軍として兵500を向かわせました。三好三人衆・筒井順慶連合軍が奈良に駐屯してから約6ヵ月が経過し、膠着状態の中で松永・三好連合軍は勝負に出るため、三好三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲しました。午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し、法花堂、大仏殿回廊、そして大仏殿が焼失しました。この戦いで三好三人衆軍は討ち死にしたり、焼け死んだりした者が300名を数えました。この時焼失したのは、大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などでした。鐘楼堂も火がつきましたが、僧侶達の懸命な消火活動によって類焼を避ける事ができました。この火災で三好三人衆軍、池田勝正軍は総崩れになり、摂津、山城に退きました。また、別所長治軍は大仏殿が焼けると自陣を焼いて播磨へ帰国、一方の筒井順慶軍は筒井城に引き上げました。飯盛山城は三人衆の1人・三好長逸の誘降戦術により開城し、松永久秀に寝返った者は堺へ去りました。この「東大寺大仏殿焼き討ち」は、将軍・義輝弑逆の「永禄の変」と主君・謀殺の「三好家乗っ取り」と共に「松永久秀の三悪事」の一つとなりました。

その次の次に、会津戊辰戦争:佐川官兵衛降伏です。佐川官兵衛直清は、佐川幸右衛門直道の子として会津若松城下で生まれました。弟・又四郎は京都で村田新八らと斬りあい斬死、父と弟2人は「戊辰戦争」で戦死しました。子の直諒も「日露戦争」で戦死しています。会津藩主・松平容保が京都守護職となると佐川官兵衛は藩主に従い、「別撰隊」が組織されると京都市中の警護にあたり“鬼佐川”の異名をとりました。「鳥羽・伏見の戦い」が勃発すると佐川官兵衛は林砲兵隊に協力して奮戦し、右眼を負傷しました。この後、越後口防御の任に着き、精鋭の朱雀四番隊長として越後に向かいました。長岡藩総督・河井継之助と謀り、新政府軍の参謀・山県有朋、黒田清隆らによる長岡城奪取の計画を小千谷の片貝で破り、長岡南方の朝日山を占領しましたが、長岡城は新政府軍の手に落ちました。佐川官兵衛はその後も善戦を続け、河井継之助らとともに長岡城を奪回しましたが増援部隊の上陸、新発田藩の降伏、新潟港の陥落などで苦戦に陥り、長岡城は再び敵の手に落ちました。そして、白河口の敗報で会津に召喚されました。会津若松に戻ると若年寄に任ぜられて鶴ヶ城の防衛にあたりました。すぐに、400石を加増され、禄1000石の家老に任ぜられて軍事を委任されました。しかし、このとき既に鶴ヶ城は新政府軍の包囲下にあり、城内の米蔵は戦火によって焼失し、兵糧は欠乏をきたすようになっていました。佐川官兵衛は糧道を確保するために自ら精兵を率いて城外に出て、押し寄せてくる敵軍を相手にして各地で転戦しました。「長命寺の戦い」では父・幸右衛門が重傷を負って間もなく戦死しました。「住吉河原の戦い」でも多大の戦果をおさめ、「一ノ堰の戦い」でも勝利を得ました。薩長軍からは「鬼の官兵衛」と恐れられました。佐川官兵衛は小笠原邸に仮の本陣を置き、城外からの糧道の確保をはかりました。しかし、城内では佐川官兵衛の知らないところで、降伏の議が進められていました。佐川官兵衛はその間、高田を占領し、田島へ転戦しました。やがて城内では降伏が決定し、手代木直右衛門・秋月悌次郎の両名が使者となって、高田に赴いて佐川官兵衛に降伏を勧めました。だが佐川官兵衛は「この戦いは君側の姦を除くためであり、また新政府軍のなすところに憤然たるものがある」といって応じませんでした。鶴ヶ城が開城されても、佐川官兵衛は大内宿に立て籠もって戦い続けました。松平容保が城を出たと聞いてようやく降伏し、藩主に対して補佐の道を誤った事、その任を全う出来なかった事を詫びました。また、萱野権兵衛が戦争の全責任を負って切腹を命じられると、佐川官兵衛は自分がこれに代わろうとしましたが、許されませんでした。会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住しました。廃藩後は警視庁に出仕し、一等大警部に任命されました。そして、「西南戦争」に「積年の恨み」を晴らすべく、警視隊副指揮長兼一番小隊長として参戦し、死闘を演じて壮絶なる戦死を遂げました。

そのまた次に、大正天皇の即位礼です。皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、1915年11月10日に京都御所紫宸殿で行われました。本来は1914年に挙行される予定でしたが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期されました。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調されました。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台が設けられましたが、貞明皇后は親王(澄宮崇仁親王)を懐妊中であった為、欠席しました。貴族院に在職中だった柳田国男も参列し、大嘗祭についての提言を残しました。礼服は復活せず、束帶が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活しました。その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になりました。明治よりも神事性が後退したかわりに、「賢所大前の儀」が新たに制定され、即位の前提に神道がある事を強調する儀式構成になりました。男性の束帶は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女子の十二単は近世以前の資料により、松本真弦らが中心となって新たに定められました。大正の大礼の総予算は、853万8357円(当時の金額)でした。

そのまた次の次に、昭和天皇の即位礼です。1928年11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発して京都御所へ向かいました。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に、賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続きました。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていました。11月10日、「即位の礼」当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱しました。天皇は「紫宸殿の儀」を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨を奉告し、帰京しました。帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われました。悠紀田は滋賀県野洲郡三上村、主基田は福岡県早良郡脇山村から選ばれ、3月に発表されました。昭和の大礼の総予算は当時の金額で1968万3637円50銭5厘でした。

最後に、ベルリンの壁崩壊です。1989年11月9日に東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表した事によって、ベルリンの壁が11月10日に東西ベルリン市民によって破壊された事件です。1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表しました。しかし、この法案では出国の際には相変わらず国の許可を要する等、様々な留保条件が付けられていたため、既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決されました。議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処する事にしました。11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員はいったん全員が辞任、首相のヴィリー・シュトフらはそのまま引退し、新たに改革派のハンス・モドロウらが政治局入りし、モドロウを後継の首相に任命する事が決まりました。この後、ようやくクレンツは世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、市場原理の導入などの改革を表明しました。11月9日、クレンツは党の中央委員会で「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げました。当時、社会主義統一党のスポークスマン的な役割を担っていたシャボウスキーは、18時からの記者会見のために会議の途中で退席しました。その際シャボウスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡されました。シャボウスキーは記者会見が始まって1時間ほどたった頃、内容をよく把握しないまま国民の大量出国問題に対し「我々はもう少々手を打った。ご承知の事と思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」と言うと、クレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表しました。この案は中央委員会の承認は受けていましたが、未だ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず正式な政令にはなっていませんでしたが、シャボウスキーは閣議決定されているものと錯覚していました。この記者会見場で記者が「この政令はいつから発効されるのか」と質問したところ、翌日の11月10日の朝に発表する事が決められていたにも拘らず、それを伝えられていなかったシャボウスキーは「私の情報が正しければ『遅滞なく』ということです」と答えました。この発言を受け、国境ゲート付近でゲートを越えようとする市民と、指令を受け取っていない国境警備隊との間で当該指令の実施をめぐるトラブルが起きました。マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調された事も混乱に拍車を掛けました。この記者会見の模様は、夕方のニュース番組で生放送されていましたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(ベルリンでは、東西双方がお互いのテレビ番組を視聴する事が可能)半信半疑で壁周辺に集まり出しました。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近では、いざこざが起き始めました。21時頃には、東ベルリン側でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがりました。門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となりました。日付が変わる直前の11月9日23時に、ついに警備隊は群衆に屈し、ゲートが開放され、東西ベルリンの国境は開放される事になりました。本来の政令は「旅行許可の規制緩和」がその内容であり、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要でした。しかし、混乱の中で許可証の所持は確認される事がなかったため許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込みました。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、抱き合ったり、一緒に踊ったり、あり合わせの紙吹雪をまき散らすなど、東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所で見られました。この大騒ぎはそれから三日三晩続きます。数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーやつるはし、建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始めました。壁は東側によって建設された東側の所有物ですが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていませんでした。しかし、数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになりました。こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに破壊されました。ベルリンの壁は、「冷戦」、「越えられない物」、「変えられない物」の象徴でした。これは西ドイツ国民の誰もが予想しておらず、事件当時に外遊先のポーランドにいた西ドイツのヘルムート・コール首相は、このニュースを聞くと慌ててベルリンへ向かいました。東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放されました。ポルシェ、BMW、メルセデス・ベンツを自国に擁する西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製の小型車「トラバント」に乗った東ドイツ市民が、相次いで国境を越えて西ドイツに入ってきました。西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れました。こうした国境線にも越境を阻止する有刺鉄線などが張られていましたが、これらも壁と同じく撤去されました。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから暫く東西ドイツ融合の象徴として扱われました。ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、東ヨーロッパなどから祝辞が送られました。次の政治目標に、1945年5月8日のドイツ分断以降、ドイツ人にとっては悲願である「東西ドイツ統一」が設定されました。

今日の誕生日:(紀元前98038年)デーモン閣下、ヴラド・ツェペシュ(通称ドラキュラ公)、マルティン・ルター、忠犬ハチ公、三橋美智也、山城新伍、入川保則、河原さぶ、糸井重里、原日出子、芹澤信雄、川島なお美、マイク・パウエル、清水宏次朗、伊藤一朗(Every Little Thing)、畠田理恵、岩瀬仁紀、オユンナ、ウォンビン、トニ・ブランコ、山口あゆみ、浦田直也(元AAA)、たくや(ザ・たっち)、かずや(ザ・たっち)、NAOKI(EXILE、三代目J Soul Brothers)、牧田和久、三浦貴大、サムエル・ワンジル、井口眞緒(元日向坂46)、忠犬ハチ公、デーモン閣下

今日の記念日:技能の日、肢体不自由児愛護の日、エレベーターの日、トイレの日、井戸の日、断酒宣言の日、島唄の日、いい頭皮の日、いい友の日、いい音・オルゴールの日、ポスティングの日、ハンドクリームの日、かりんとうの日、無電柱化の日、川口市の日、希少糖の日

今日の「今日訓」:本日は、1890年11月10日に東京の浅草に完成した12階建ての「凌雲閣」で日本初の電動式エレベーターが一般公開された事で「エレベーターの日」、1970年に、アジア初の技能五輪「国際職業訓練競技会」が日本で開催された事で「技能の日」、11月10日から12月10日までの1か月間を「手足の不自由な子供を育てる運動」期間で初日を「肢体不自由児愛護の日」、「いい(11)ト(10)イレ」の語呂合わせで「トイレの日」、「いい(1)井(1)戸(10)」で「井戸の日」、11月(November)を「もう飲めんばー」、10日を「酒止(十)まる」とした語呂合わせで「断酒宣言の日」、日付を横一列に並べた「111」が三味線「0」を奄美島唄に欠かせない締め太鼓「チヂン」を表している事で「島唄の日」、「いい(11)頭皮(10)」の語呂合わせで「いい頭皮の日」、「いい(11)友(10)」の語呂合わせで「いい友の日」、「いい(11)音(10)」の語呂合わせで「いい音・オルゴールの日」、「いい(11)とどけ(10)」の語呂合わせで「ポスティングの日」、「いい(11)手ン(10)」の語呂合わせで「ハンドクリームの日」、「かりんとう」の棒状の形を(11)で砂糖の糖を(10)の語呂合わせで「かりんとうの日」、「1110」の「1」を電柱に見立て「0」になる事で「無電柱化の日」、「1110」で「川口市の日」、「い(1)い(1)とう(10)」の語呂合わせで「希少糖の日」となりました。
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