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2022年11月09日00:03

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11月09日の日記

今日の出来事:1180年−源平合戦:富士川の戦い、1540年−吉田郡山城の戦い:青山土取場の戦い、1550年−砥石崩れ、1799年−フランス革命:ブリュメールのクーデター、フランス革命終焉、1867年−大政奉還、1868年−戊辰戦争:盛岡藩降伏、濁川焼討ち事件、1938年−水晶の夜(クリスタルナハト)、1963年−魔の土曜日:三井三池三川炭鉱炭じん爆発、鶴見事故

今日は、源平合戦:富士川の戦いです。伊豆国に流されていた源義朝の三男・頼朝は以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害しました。しかし、「石橋山の戦い」で頼朝は大庭景親、伊東祐親が率いる平家方に惨敗しました。源頼朝は山中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平の手引きで船を仕立てて真鶴岬から安房国へ向かいました。頼朝に味方していた三浦一族も平家方の畠山重忠らに本拠・衣笠城を攻められ、城を捨てて海上へ逃れました。源頼朝は安房国平北郡猟島に到着しました。先発していた三浦一族らと合流し、地元の豪族・安西景益が源頼朝らを迎え入れました。源頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣し、小山朝政、下河辺行平、豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求めました。千葉常胤は直ちにお迎えするとの返事を寄こして挙兵し、下総国府を襲って平家一族の目代を殺害しました(結城浜の戦い)。源頼朝は300騎を率いて安房国を出立し、下総国府に入りました。千葉常胤が一族を率いて迎え、千葉氏の300騎を加えました。武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣しました。頼朝は武蔵国へ入ると、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じました。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、何ら抵抗を受ける事なく源氏累代の本拠地鎌倉に入りました。頼朝挙兵の報は大庭景親より福原へもたらされました。平清盛は追討軍を関東へ派遣する事を決定しました。平維盛、忠度、知度、藤原忠清らによる追討軍が福原を出立しました。その後、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵しました。追討軍が駿河国へ入ると頼朝はこれを迎え撃つべく、鎌倉を発しました。大庭景親は1000騎を率いて駿河の平維盛の軍に合流しようとしましたが、頼朝や甲斐源氏に行く手を阻まれました。大庭景親は後に頼朝に降参しますが、処刑されます。甲斐源氏の兵は富士川の東岸に、頼朝は駿河国賀島に、平家方はその西岸に布陣しました。その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝こうと、富士川の浅瀬に馬を乗り入れました。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立ちました。これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できずに、藤原忠清は撤退を進言しました。総大将・平維盛もこれに同意して、平家方は総崩れになって逃げ出しました。遠江国まで退却しましたが、軍勢を立て直す事ができずに全軍散り散りになり、平維盛が京へ逃げ戻った時には僅か10騎になっていました。こうして平家は戦わずに、敗退しました。この「富士川の戦い」の翌日、源頼朝と源義経は黄瀬川で「黄瀬川の対面」と言われる涙の対面を果たす事になるのです。

次に、吉田郡山城の戦い:青山土取場の戦いです。尼子誠久らは「新宮党」など1万を動員し、城下に火を放ちながら徐々に吉田郡山城に迫ろうとしました。これを察知した毛利元就は、積極的な攻勢を加える指示を下しました。家臣は兵数の不利を訴えましたが、毛利元就は不意討ちなら必ず勝てると唱えて軍勢を三手に分けました。第一軍は渡辺通・国司元相・児玉就光に兵500を預けて、城の西方である大通院谷から出た先で伏兵としました。第二軍は桂元澄・粟屋元真などが率いる200人で、こちらも伏兵として青山に近い場所まで密かに南進させました。そして、第三軍1000余は、毛利元就自身が率いて正面から尼子軍を引きつける役割となりました。毛利元就が率いる本隊は、赤川元保の手勢400余を先鋒に、尼子軍の三沢為幸・亀井秀綱・米原綱寛らと激戦を展開しました。そして、数刻に及ぶ戦いで両軍の疲労が色濃くなった頃を見て、伏兵の渡辺通・国司元相・児玉就光勢が左翼から、桂元澄・粟屋元真勢が右翼から突撃したため、尼子軍は大混乱となって壊走しました。毛利軍の追撃は、青山の麓にある尼子本陣の外柵を破壊して内部に侵入するまでに至りました。「青山土取場の戦い」と呼ばれるこの戦いにより、尼子軍は三沢為幸ら500人が討死する大きな被害を受けました。

その次に、砥石崩れです。信濃の林城主・小笠原長時を破り、信濃中南部の大半を制圧した武田晴信(後の信玄)は、信濃北部・東部の平定を目指して北信濃の戦国大名・村上義清の出城である砥石城の攻略に乗り出しました。武田晴信は「上田原の戦い」で村上義清に大敗したため、その復仇を目指しての戦いでもありました。また、この城を落とせば村上氏の東信濃における防衛線が大きく後退するため、戦略上も戦術上も重要な戦いでした。砥石城は小城でしたが、その名のとおりに東西は崖に囲まれ、攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという城でした。この時の武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでした。しかし城兵500人のうち、半数は武田晴信によって虐殺された「志賀城の戦い」の残党で、士気が上がっていました。武田軍の武将・横田高松の部隊が、砥石のような崖を登る事で総攻撃が開始されました。しかし、城兵は崖を登ってくる武田兵に対して、石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退し、武田二十四将の1人・横田高松が戦死、小沢式部、渡辺雲州も討死、小山田信有が負傷しました。兵力では圧倒的に優位であった武田軍でしたが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦しました。武田軍が苦戦している間に、村上義清が2000人の本隊を率いて葛尾城から救援に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃されました。戦況不利を判断した武田晴信は撤退しましたが、村上軍の追撃により1000人近い死傷者を出しました。武田晴信は影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱しました。武田信玄の生涯の中で、「砥石城の戦い」は最大の負け戦と言われています。このため、この戦いは「砥石崩れ」と呼ばる事になりました。しかしこの後、信濃先方衆・真田幸隆の調略により、兵を動かす事なく砥石城は武田軍の手に落ちます。これにより、村上義清の勢力は衰退し、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ落ち延びます。村上義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼った事から、「川中島の戦い」へと発展する事になります。

その次の次に、フランス革命:ブリュメールのクーデター、フランス革命終焉です。ブリュメールのクーデターは、ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデターです。「プレリアールのクーデター」によって、総裁政府の実権を握ったシェイエスは政局を安定させるため、強力な政府を求めて憲法の改正を考えていました。憲法改正を支持する「元老会議」を通過させる事はできても、憲法擁護派の多い「五百人会議」を説得するのは無理と思われました。そこで、「エジプト遠征」から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策しました。この時のナポレオンは、クーデターを成功させる「剣」の役割でしかありませんでした。ナポレオン自身も「シェイエスたちが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と言っています。ナポレオンの役割は当初は受け身であり、首謀者ではありませんでした。ナポレオンには「エジプト遠征」での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、クーデターを起こす事は自明の理でした。シェイエスらが執政として職務に入る時、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出ました。こうして執政政府を樹立して、第一執政となってシェイエスらを抑えたナポレオンは、5年後の1804年に帝政を敷いて自ら皇帝に即位し、「ナポレオン戦争」へと突き進んでいく事になります。「フランス革命」はここで終わったとされています。

そのまた次に、大政奉還です。土佐藩の後藤象二郎は、坂本龍馬から「大政奉還論」を聞いて感銘を受けました。坂本龍馬の「船中八策」にも影響され、在京土佐藩幹部・寺村左膳、真辺正心、福岡孝弟らに「大政奉還論」の採用を主張しました。これに薩摩藩の小松帯刀らも同意し、「薩土盟約」が締結されました。これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するとされていました。前土佐藩主・山内容堂は「大政奉還」を藩論とする事に同意しましたが、上京出兵には反対しました。薩摩藩は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、「薩土盟約」は解消されました。土佐藩は単独で「大政奉還の建白書」を藩主・山内豊範を通じて、将軍・徳川慶喜に提出しました。土佐藩の建白を受けて、徳川慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、「大政奉還」を諮問しました。11月9日に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めました。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれに困惑しましたが、薩摩藩・小松帯刀、土佐藩・後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌10日に徳川慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定しました。徳川慶喜に「大政奉還勅許の沙汰書」を授けられ、「大政奉還」が成立しました。「大政奉還」は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがありましたが、将軍職辞任には一切触れておらず、武家の棟梁としての地位を失っていませんでした。「大政奉還上表」と同日に、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に「討幕の密勅」がひそかに渡されました。密勅に基づく討幕の実行は「大政奉還」の成立に伴い延期となりましたが、薩摩・長州・芸州の3藩は再び出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派を巻き込んで「王政復古」へと向かいます。

そのまた次の次に、戊辰戦争:盛岡藩降伏、濁川焼討ち事件です。
盛岡藩降伏:「十二所口の戦い」で敗退した盛岡藩は、降伏を決意しました。盛岡藩は降伏嘆願書を正使に持たせ、久保田藩に派遣しました。そして、盛岡藩の軍使3名が袈裟掛口に現れて「停戦申し入れ」を行いました。久保田藩もその申し入れを受け、戦闘を停止しました。盛岡藩の降伏談判が藩境の町、沢尻村で行われました。南部藩の重臣・三戸式部と目時隆之進をともなって降伏条件を談判し、盛岡藩は降伏しました。盛岡藩主・南部利剛は新政府より、隠居と盛岡20万石の召し上げを命じられましたが、長男・利恭に白石13万石に減転封が許されました。盛岡藩兵の総指揮をとった家老・楢山佐渡が全責任を負いました。楢山佐渡は東京へ送られた後、盛岡に護送されて報恩寺において刎首となりました。久保田藩は庄内藩・盛岡藩との戦いで、藩士の3分の2が兵火にかかり、人家の四割が焼失しました。奥羽鎮撫使に随従した15藩の約1万の将兵、新庄藩・本荘藩・矢島藩から逃亡してきた藩主・藩士の家族の賄いをすべて久保田藩が負担する事になり、推定総額675000両の戦費を消費しました。このため、新政府から賞典として久保田藩へ2万石が下賜されました。これで東北地方の藩はすべて降伏しました。しかし、戊辰戦争はまだ終わっていません。水戸藩「諸生党」の抗争や「箱館戦争」へと舞台を移して、まだ続きます。
濁川焼討ち事件:濁川焼討ち事件は、「秋田戊辰戦争」終了後の1868年11月9日に、弘前藩兵が盛岡藩領の濁川(現・秋田県鹿角郡小坂町)を焼き討ちした事件です。「秋田戊辰戦争」は11月5日に戦闘終結合意が成立し、8日に盛岡藩は兵士を撤退させました。弘前藩の碇ヶ関口の隊長・郁谷森甚弥は、6小隊を引率して夜5時過ぎに陣馬村を出発し、寺の沢間道を進んで遠辺沢から盛岡藩領に入ると、午後8時に濁川遠見番所を襲いました。続いて弘前藩兵は濁川村に進みましたが、村に兵がいなかったため火を放ちました。弘前藩兵はその後、遠辺沢から秋田藩境まで押し通ると、弘前藩領との境である山桂平まで引き上げました。濁川番所には盛岡藩兵100人ほどが「秋田戊辰戦争」終了後、3日3晩警備をしていましたが、弘前藩兵が攻めて来なかったため、兵を袈裟掛に移動した後に弘前藩兵が襲ってきた形となりました。実際に集落に攻めて来た人数は、30人ほどでした。当時の崩平の崖(旧・川上小学校の川向かいの崖)は、人が駆け上れる勾配であったため、住民はわずかな荷物を背負って子供の手を引いて山を越えて、余呂米沢集落に避難しました。余呂米沢集落は避難民でいっぱいになりました。住民が避難した後に集落は放火され、焼け残っていたのは摺臼野神社と未完成で入居していなかった家が4軒だけでした。この時、この集落には2人の武士と2人の目明かしがいました。このうち、老齢で69歳の武士・池田佐五衛門為吉だけが、単身槍で弘前藩兵と戦って壮絶な討死をしました。その後、弘前藩兵は若木立の集落で飯を炊かせ、勝利の祝杯を挙げると引き上げていきました。弘前藩の「秋田戊辰戦争」への参加態度は、日和見と見られかねない状態でした。そのため、弘前藩は新政府に戦争の実績が欲しかったのでした。しかし、この事件は新政府に、「秋田戊辰戦争」終了後の「私闘」と見なされました。その後、弘前藩は「箱館戊辰戦争」への全面協力を行わざるをえなくなりました。

さらに次に、水晶の夜(クリスタルナハト)です。反ユダヤ主義を掲げるナチス党首のアドルフ・ヒトラーが、ドイツ国大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクからドイツ国首相に任命されました。この後、ドイツではユダヤ系ドイツ人が激しい迫害にさらされる事になりました。しかし、ドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は迫害から免れていました。ところがポーランド政府は、全てのポーランド旅券につき検査済みの認印が必要であるとする新しい「旅券法」を布告しました。これによりドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効とされました。ポーランド系ユダヤ人をポーランドへ送り返したがっていたナチスは、このポーランド政府の決定に激怒しました。ナチスはポーランドの「旅券法」が発効されるよりも前に、ポーランド系ユダヤ人を強制的にポーランドへ送り返してしまおうと企図しました。ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将の指揮の下にドイツ警察が1万7000人のポーランド系ユダヤ人を狩りたて、彼らをトラックや列車に乗せてポーランドとの国境地帯に移送しました。これに対抗してポーランド国境警察は国境を封鎖して、ユダヤ人の受け入れを拒否しました。ナチス政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは、国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪する事となり、窮乏した生活を余儀なくされて餓死者が大勢出ました。ポーランド系ユダヤ人のヘルシェルは、ナチス政府の非人道的なやり方に激昂し、ドイツ大使館員を暗殺して世界にユダヤ人の惨状を訴える事を企図しました。ヘルシェルは、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込みました。ラート暗殺事件を受けて11月9日夜から11月10日にかけて、組織化された反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生しました。あわせて177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊されました。特にフランスとの国境に近いドイツ西部で暴動が多発しました。併合されたばかりのオーストリアやズデーテン地方でも暴動が発生しました。暴動中、ユダヤ人は殴られたり、辱められたりしました。運の悪い者はそのまま殴り殺されました。少なくとも96人のユダヤ人が殺害されました。破壊され砕け散った窓ガラスが、月明かりに照らされて水晶のように輝いた事から「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれました。ナチスはこのような暴動を「煮えたぎる民族精神の正当な蜂起」などと正当化しました。この暴動でドイツ警察に逮捕される事になったのは、被害者であるはずのユダヤ人でした。3万人ものユダヤ人が警察に逮捕され、彼らを収容するためにダッハウ強制収容所、ブーヘンヴァルト強制収容所、ザクセンハウゼン強制収容所が拡張される事となりました。ブーヘンヴァルトに1万人、ダッハウに1万1000人、ザクセンハウゼンに5000人〜1万人が送られました。ユダヤ人が暴動で受けた被害額は、ガラスの交換だけでも600万ライヒスマルクに及びました。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こる「ホロコースト」への転換点となりました。

最後に、魔の土曜日です。この日、「三井三池三川炭鉱炭じん爆発」と「鶴見事故」という二件の大事故が起きました。このため、「魔の土曜日」、「血塗られた土曜日」などと呼ばれています。
三井三池三川炭鉱炭じん爆発:1963年11月9日午後3時10分頃に、三井鉱山三池鉱業所三川鉱(三川坑)第一斜坑の坑口から約1500メートル付近の斜坑で、炭塵爆発が起きました。当時、坑内は1200人以上の労働者が従事しており、死者458名、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839名を出した戦後最大の産業事故となりました。炭塵が爆発する事によって、一酸化炭素が大量に発生、三川坑第一斜坑は入気斜坑で、大勢の労働者が居る有明海海底の坑内現場に一酸化炭素を送り込んでしまった事が多くの人命を奪い、一酸化炭素中毒患者を出しました。爆発発生後、23名からなる三川鉱救護隊が最も早く到着しましたが、これも事故発生から3時間近く経っての到着でした。最も遅く到着した四山鉱救護隊は事故発生から7時間後に到着しました。最終的には3000人の救援隊による救出が行なわれました。炭鉱には炭塵爆発事故の可能性が常にあるにもかかわらず、「当時は三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない」、「実際に何十年も起きていない」、などといった「安全神話」のようなものがありました。加えて「三池争議」の結果、三井鉱山がコストを最優先し、かつては三池炭鉱労働組合が強く主張していた保安を二の次にしていたという側面がありました。このような事が事故そのものと初動救護の遅れの遠因となり、死者・一酸化炭素中毒患者を増やす要因となりました。しかし、事故原因の科学的な立証はできない、と三井三池炭鉱幹部は不起訴処分となりました。
鶴見事故:1963年11月9日21時40分頃に、国鉄の東海道本線・鶴見駅 - 新子安駅間の滝坂不動踏切付近で発生した列車脱線多重衝突事故です。走行中の佐原発、野洲行きの下り貨物列車後部3両目の貨車が突然脱線、引きずられて架線柱に衝突した後に編成から外れ、隣の東海道本線上り線を支障しました。そこへ同線を走行中の横須賀線電車の久里浜発、東京行き上り列車と下り線を走行中の東京発、逗子行き下り列車がほぼ同時に進入しました。90km/h前後という高速のまま進入した上り列車は、貨車と衝突しました。先頭車は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目の側面に衝突して串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目の車体を半分以上削り取って停止しました。その結果、下り列車の4・5両目は車端部を残して全く原形を留めないほどに粉砕され、5両目に乗り上げた形で停止した上り列車の先頭車も大破、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となりました。

今日の誕生日:イワン・ツルゲーネフ、近藤勇、野口英世、白石一郎、佐川満男、梅沢富美男、石田えり、加瀬亮、栃東大裕、松陰寺太勇(ぺこぱ)、YU(D−51)、えなりかずき、SE7EN、いしいすぐる、佐藤麗奈(元アイドリング!!!34号)、モモ(TWICE)、野元空(元フェアリーズ)、長尾しおり(SUPER☆GiRLS)

今日の記念日:換気の日、119番の日、太陽暦採用記念日、ネットワークの日、歯ぐきの日、いいバッグの日、いい靴の日、いい地球の日、タピオカの日、IT断食の日

今日の「今日訓」:本日は、11月9日で「119番の日」、「いい(11)く(9)うき」で「換気の日」、明治5年11月9日、「太陰暦」をやめて「太陽暦」を採用するという布告が行われた事により「太陽暦採用記念日」、イーサネットとグリッドを合わせた造語「イーサ(11)グリッド(9)」の語呂合わせで「ネットワークの日」、「いい(11)歯(8)ぐ(9)き」の語呂合わせで「歯ぐきの日」、「いい(11)バッ(8)グ(9)」の語呂合わせで「いいバッグの日」、「いい(11)く(9)つ」の語呂合わせで「いい靴の日」、「い(1)いち(1)きゅう(9)」の語呂合わせで「いい地球の日」、「オフィスをいい(11)空(9)気にする」の語呂合わせで「IT断食の日」、2002年11月に日本で初めてチルドカップ容器で製造販売した事と、この商品の別名がQ−PON(キューポン)と呼ばれた事から「タピオカの日」となりました。
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