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2022年10月28日07:07

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18980428 NO5624 日本人行商人の北関視察談聴き取り報告の件

18980428 NO5624 日本人行商人の北関視察談聴き取り報告の件
자료일람 | 한국사데이터베이스 (history.go.kr)
013_0010_0050 駐韓日本公使館記録 13巻 一. 各領事館来信 (5) [日本人行商人の北関視察談聴取り報告の件]
文書題目 (5) [日本人行商人の北関視察談聴取り報告の件]
文書番号 公第二○号
発信日 明治三十一年四月二十八日 ( 1898年 04月 28日 )
発信者 在元山 二等領事 二口美久
受信者 弁理公使 加藤増雄

(5) [日本人行商人の北関視察談聴取り報告の件]
公第二○号
本月上旬より北関(*咸鏡南北道)各地を経由し、同二十五日帰港した我が行商人の視察報告を、別紙の通り書き取りましたので御参考までに御一覧に供します。 敬具
明治三十一年四月二十八日
在元山 二等領事 二口美久 印
弁理公使 加藤増雄 殿

[別紙]
文書題目 北関近情

北関近情
鏡城(キョンソン)人、李(イ)・監役の計画による、
「慶興(キョンフン *咸鏡北道の北東部に位置し、豆満江に面する)の監理署及び税関を慶興の雄基(ユンギ *慶興の海岸部)湾へ移し、同湾を起点としウラジオストック及び元山(ウオンサン)に航海開始」
の件は、その後鏡城の天一商会の失敗によって行われず、現在のところでは天一商会の残務整理に取り掛かっているのだが、同商会はまた到底再興の見込みはないと言う。
鏡城(キョンソン)とウラジオストック間の交易はかなり盛んであり、ウラジオストックよりの輸入品は各種金巾(カナキン *薄手の綿織物)類を中心とし、鏡城よりの輸入品は主に生牛・燕麦であるが、昨年は咸鏡道北部一体が不作のため農産物の輸出は極めて少なく、また生牛も昨年の冬以来、牛疫流行のため輸出は皆無のところ、この疫病も漸く消滅し、昨今は輸出を見るようになった。
そもそも今回の牛疫は、最初豆満江(トゥマンガン)の対岸である満州地に発生し、そこから豆満江を越え会寧(フェニョン)、慶源(キョンウオン *両地とも国境地域)に侵入し、たちまち六鎮(ユクチン *第四代王・世宗が咸鏡道の北辺に設置した六ケ所の軍事拠点。鍾城、穏城、会寧、慶源、慶興、富寧)に蔓延し、次第に南に広がり、ついに鏡城(キョンソン)以南の明川(ミョンチョン *吉州の北隣)まで伝染したもので、明川以南の吉州(キルチュ)へはまったく侵入しなかった。また昨今では鏡城以南明川に至る間では全く消滅し、百姓らも皆安心して耕耘に従事している。鏡城以北各地も、今回実際に尋ねた所では一体に消滅していると言っていたが、事実かどうかは何分確かめることは困難だ。
また鏡城以北の各地における斃牛(*死牛)の数は明らかではなかったが、明川においては最初に伝染した時から斃(たお)れた数は実に三十頭余に上った、と言っている。 
鏡城と清領の琿春(フンチュン)との交易も前述のように農作不十分のため振わなかった。関北六鎮中、僅かに会寧(フェニョン)と慶源(キョンウオン)の二郡で琿春との交易が少しばかり行われているだけだ、と。
交易品は琿春からは穀類、会寧・慶源からは牛・狐・獺(かわうそ)などの皮革類であり、鏡城からは海参(なまこ)だと言う。
ところがこの頃琿春において防穀令を発し、穀類の輸出を禁じているので、関北人民は食糧を得る道がなく緊迫を極めているとのことで、本月二十六日入港の汽船「蒼龍号」で米穀買入れとして韓銭二万円余が当港に到着している。これは鏡城観察使に収納した庫納金であり、同観察使が管下人民の焦眉の急を救うため一時支出したものだと言う。
しかし当地においても本邦米価が高いため輸入を差し控えていた際であるのでその需用に応じる事が出来ず、この韓銭の幾分は翌二十七日同船便で釜山に転輸した。
露国商人某が当国政府と特約の上、一昨年来伐採に着手した茂山(ムサン *白頭山の東の国境地帯)の材木は、伐り出し費用が高いため収支が釣り合わないため、今年はまだ伐採に着手していない。また昨年までに伐り出している材木で豆満江(トマンガン)岸に堆積しているものも夥(おびただ)しいと言う。



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