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2022年10月26日00:05

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10月26日の日記

今日の出来事:1577年−第二次七尾城の戦い、1581年−正木憲時の乱、1597年−慶長の役:鳴梁海戦、1600年−関ヶ原の戦い:花巻城の夜討ち、1868年−秋田戊辰戦争:刈和野の戦い、椿台大会戦、1881年−OK牧場の決闘、1909年−ハルビン事件:伊藤博文暗殺、1941年−セントライトが、日本競馬史上初の三冠馬となる、1942年−南太平洋海戦、1979年−TBSテレビで「3年B組金八先生」第1部が放送開始

今日は、第二次七尾城の戦いです。「第一次七尾城の戦い」で上杉謙信の包囲を退けた畠山軍は、即座に反撃を開始しました。熊木城は畠山家臣・甲斐親家の謀略で誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りで落城、七杉小伝次は自害し、三宝寺平四郎と内藤久弥は討死しました。富来城には畠山家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せて、藍浦長門が捕らえられて処刑されました。また、長続連も自らの居城であった穴水城を奪還するため出陣し、畠山軍は攻勢に出ました。しかし、北条軍を破った上杉謙信が、再び大軍を率いて能登に攻め寄せてきました。驚いた長続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄し、全兵力を以って七尾城に籠もりました。この時、長続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけて、強制的に領民を七尾城に籠もらせました。このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となりました。七尾城で再び籠城戦の準備がされていた時、穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が七尾に攻め寄せましたが、逆に敗退しました。七尾城は堅城でしたが、籠城戦が続く中、城内で疫病が起こったため、死亡する者が相次ぎました。また、幼君の畠山春王丸も籠城中に死去しました。長続連は、子・連龍を使者として安土城の織田信長のもとに派遣し、後詰を要請すると共に小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすように扇動しました。ところが、一揆はまたもや上杉謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となりました。このような中で親・謙信派であった遊佐続光は、上杉謙信の呼びかけに応じて、仲間の温井景隆や三宅長盛(景隆の弟)らと結託して内応しようとしました。そして10月26日、十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れたのでした。この反乱によって長続連と子・綱連、さらに綱連の弟・則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族は全て討たれました。長一族で唯一生き残ったのは、織田信長のもとに援軍を要請に行った長連龍と、綱連の末子・菊末丸のみでした。こうして七尾城は、上杉謙信の手に落ちました。こうして、能登は完全に上杉謙信の支配下に入ったのです。いよいよ上杉謙信は、西上して「信長征伐」の意思を示します。一方、柴田勝家を総大将とする織田の援軍が七尾城救援に向いましたが、途中で落城の報に接しました。この後、加賀に進んだ上杉軍と柴田勝家が率いる織田軍による、上杉謙信最後の戦いとなる「手取川の戦い」となります。

次に、正木憲時の乱です。正木氏は、安房・里見氏の家臣です。1533年に正木通綱が「稲村の変」で討死したため、子・時茂が家督を相続しました。正木時茂は、槍術に優れていたため「槍大膳」と称されました。1534年の「犬掛の戦い」で里見義豊を討ち、1538年の北条氏との「第一次国府台合戦」に参陣しました。1542年に真里谷氏の勝浦城を攻めてこれを奪って、弟・時忠に任せました。1544年の「刈谷原の戦い」で真里谷朝信を討ち、小田喜城(後の大多喜城)を奪って居城としました。1561年の上杉謙信の関東出陣では、里見義堯の嫡男・義弘に従って嫡男・信茂と共に参陣しました。1561年に正木時茂が死去し、子・信茂が家督を継ぎました。正木信茂は、主君・里見義堯の娘・種姫を娶りました。里見氏の北上政策の中心的存在として、千葉氏の家臣・原胤貞を攻め、臼井城と生実城を奪いました。1562年、千葉氏の家臣・大須賀政常と戦って勝利しました。正木信茂は、若年ながらも里見軍の中心的な人物になりました。しかし、1564年の「第二次国府台合戦」で奮戦しましたが、正木時茂の末弟・弘季と共に討死しました。享年25でした。こうして、家督は正木弘季の子・憲時が継ぎました。この敗戦を契機に、里見氏は北条軍の反攻を受ける事になりました。正木憲時は、それを懸命に防ぎながら、逆に米ノ井城を落とし、1565年には敵将・伊能景信の居城・矢作城を落としました。1567年の「三船山合戦」では、奇襲策によって北条軍に大勝しました。1574年に里見義堯が死去すると、子・義弘に引き続き仕えました。1578年に、里見義弘が急死しました。里見義弘は生前、自身の死後は安房国を弟・義頼に与え、上総国を嫡男・梅王丸(後の義重)に与える事を命じていました。この領土分割の遺言が、里見氏の分裂を招く事になります。里見義弘は最初、小弓公方・足利義明の娘・青岳尼を正室としていましたが、子供に恵まれないまま死去しました。このため、弟・義頼を養子にして後継としました。その後、対立関係にあった古河公方・足利晴氏と反北条氏の為に手を組み、足利晴氏の娘を後室に迎え入れて誕生したのが梅王丸でした。1577年、里見義弘が相模の北条氏と和睦した事により、里見義頼は北条氏政の娘・鶴姫を正室に迎えました。2年後に鶴姫が死去すると北条氏政の妹・菊姫を後妻にしました。梅王丸の誕生によって廃嫡される事となった里見義頼や、次期当主の決定に関与する事が出来なかった家臣達の不満が高まってしまいました。そこで、里見義弘は里見氏の家督を梅王丸に継承させる代わりに、安房一国を里見義頼に与えるという妥協案を出しました。里見義弘が久留里城で死去すると側近や正木憲時、加藤信景ら上総国内に居た重臣達は、直ちに梅王丸に家督を継がせました。その結果、里見義頼や正木時忠の子・頼忠ら安房国内の里見氏関係者は、誰も葬儀に参加しないという異常事態が発生しました。この異常事態は2年間にわたりました。その間に里見義頼は居城を上総国境から遠い館山城に移し、北条氏政と密かに盟約を交わしていました。そして、1580年、里見義頼は奸臣・正木憲時を討つ事を大義名分として挙兵し、上総国に侵攻を始めました。里見義頼は、梅王丸側の対応が整う前に上総国内の主要拠点を制圧し、正木憲時を小田喜城に、梅王丸と加藤信景を佐貫城に取り囲みました。正木憲時は一時、正木頼忠を破って居城・勝浦城を逆に制圧するなどの奮戦を見せましたが、佐貫城の加藤信景は梅王丸の助命を条件に開城しました。1581年10月26日、小田喜城籠城中の正木憲時は、太田康資と共に内通した家臣に殺害されました。こうして、里見義頼は上総国を制圧し、里見氏の領国全てを継承しました。その後、梅王丸は出家する事を条件に命を助けられて「淳泰」と名乗りました。正木大膳亮の家名断絶を惜しんだ里見義頼は、次男・時堯に正木氏の家名を継がせて二代目・正木時茂と名乗らせました。

その次に、慶長の役:鳴梁海戦です。日本軍による全羅道掃討作戦は順調に推移し、残りは全羅道南部のみとなっていました。当地に存在する明・朝鮮側の戦力は右水営に拠る朝鮮水軍わずか12、3隻に過ぎませんでした。朝鮮では「漆川梁海戦」で水軍が壊滅的打撃を受けた後、再び李舜臣を三道水軍統制使に任命していましたが、戦力的劣勢は明らかでした。この状況で日本軍は陸軍が全羅道南部で南進を続け、水軍は沿海を西進し、水陸から鳴梁海峡方面に迫っていました。左軍に属した船手衆の藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総、菅達長と目付・毛利高政は南原城攻略後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける陸軍に呼応して南海岸沿いを西進し、於蘭浦沖に達しました。碧波津に布陣していた李舜臣が率いる朝鮮水軍は、これを迎え撃とうと出撃しましたが、日本水軍先鋒が戦わずに立ち去ると追撃する事ができずに碧波津に帰りました。朝鮮水軍は大船が12、3隻あるだけで戦力的に劣勢でしたので、後続の日本水軍の集結を知ると鳴梁渡に退き、さらに右水営沖に移りました。藤堂高虎らは敵の大船が近くにいる事を知ると捕獲を図り、全軍のうち関船(中型船)数10隻だけを選抜して鳴梁渡へ向かいました。これに対し朝鮮水軍は大船(板屋船)12、3隻で迎え撃ちました。しばらくは李舜臣の船が一隻だけで戦いましたが、僚船を恫喝して呼び戻して戦闘は継続されました。日本水軍では来島通総以下数10人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの損害を受けました。一方、朝鮮側の損害は軽微でした。しかし、夕方になると朝鮮水軍は唐笥島に退却しました。日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃する事ができませんでした。藤堂高虎・脇坂安治らが戦場を見回り、敵船が皆無なのを確認しました。この時、朝鮮水軍は遠く於外島まで退却していました。これにより鳴梁海峡は日本水軍の制圧下に置かれました。朝鮮水軍・李舜臣の艦隊は日本水軍の先鋒を叩く事に成功しましたが、日本水軍本隊の圧力を支えきれず、主力艦の温存策を取って全羅道北端まで撤退しました。このため制海権を失い、朝鮮水軍は非主力艦や根拠地を失いました。

その次の次に、関ヶ原の戦い:花巻城の夜討ちです。豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、花巻を支配していた稗貫氏は没落しました。その後、豊臣氏の代官・浅野重吉が支配しました。和賀広忠・義忠兄弟が城の奪還を目論んで蜂起しましたが、失敗に終わりました。鎮圧後は南部氏領となり、城代に北信愛・秀愛親子が配されました。1598年に北秀愛が亡くなると父・信愛が継ぎました。「関ヶ原の戦い」で南部氏は「慶長出羽合戦」に出陣しました。この機に乗じて和賀忠親が伊達政宗の援助を受けて立ち上がりました。和賀忠親は10月26日の夜、花巻城を襲撃しました。和賀勢の兵は500〜1000でした。これに対して花巻城は主力が田瀬方面に向かっており、手薄な状態で三の丸、二の丸と破られました。一揆軍は本丸に迫り、御台所前御門を挟んで攻防が続きました。城を守ったのは侍ばかりではなく、花巻城下の農民たち、小姓たちの他、仲居の「浦子」、談義所の「松」も薙刀を振るって活躍しました。翌朝になって主力が戻り、盛岡から援軍がやって来ると北信愛は一揆軍を撃退しました。この戦いで稗貫郡・和賀郡は南部家の支配となり、この地は盛岡藩の礎となりました。

そのまた次に、秋田戊辰戦争:刈和野の戦い、椿台大会戦です。
刈和野の戦い:雄物川を渡河した酒井吉之丞が率いる庄内藩二番大隊は、刈和野を目指して進撃しました。羽州街道の上淀川で250名の秋田兵(久保田藩兵)と遭遇しましたが、秋田兵は遁走しました。ここで、二番大隊は本道を南下して刈和野に向かう隊と、本道を北上して船岡に向かう隊に分かれました。南下した隊は峰吉川に達しました。ここで、新政府軍の島原藩兵と銃撃を開始し、庄内軍は郷右衛門隊が反撃して一斉に撃ちかけました。すると新政府軍は潰走しはじめ、刈和野を目指して敗走しました。庄内藩二番大隊は進軍し、本道左右の胸壁陣地の新政府軍に激しい銃撃を受けました。郷右衛門は数名により接近射撃を試みました。そして、陣地を奪取しながら進撃しました。沢為量副総督の本営・神宮寺まで6キロの地点でしたので、新政府軍は必死で防衛しました。庄内二番大隊の迫った事を聞いた沢為量副総督は、「振遠隊」の護衛で角館に退去しました。前線は膠着しましたが、山手にいた隊が山を下って新政府軍の背後をつきました。新政府軍が動揺したのを見た庄内軍は、鬨の声を上げて進撃しました。新政府軍は街に火をつけて潰走しました。こうして、庄内軍は刈和野攻略に成功しました。
椿台大会戦:庄内軍が進撃してくると聞いた新政府軍は、久保田藩の支藩・秋田新田藩の陣屋がある椿台とその付近の丘陵に強固な陣地を築き、最後の防衛線としました。庄内軍四番大隊は椿台攻撃を開始し、糠塚山を占領して安養寺から椿台・椿川方面に攻め込みました。新政府軍は一進一退で持ちこたえ、薩摩藩を中心に福岡藩、佐土原藩、新庄藩、久保田藩、矢島藩、本荘藩などの新政府軍が反撃を開始しました。新庄藩や久保田藩は新式銃を支給されて強力になっていました。午後に糠塚山が奪取されると、庄内軍は追撃されました。夕方には雄物川をまた渡って神ヶ村まで後退しました。はじめて、庄内藩が大敗北した戦闘となりました。遅れて庄内軍の三番大隊が長浜を攻撃しましたが、椿台にいた新政府軍が長浜に投入されたため、こちらの攻撃も失敗に終わりました。

そのまた次の次に、OK牧場の決闘です。OK牧場の決闘は、アリゾナ州トゥームストーンのO.K.コラル近くの路上で起こった銃撃戦です。すでにダッジシティで保安官として名を馳せたワイアット・アープが、銀鉱山であるトゥームストーンへ一旗揚げようとジェイムス・バージル兄弟家族と共にやって来ました。当初はまだ、カウボーイズらとの仲は悪くありませんでした。やがて、カウボーイズらのカウンティ党(民主党支持)と、ワイアット・アープ組の法と秩序党(共和党支持)が対立し、カーリー・ビルによるフレッド・ホワイト保安官殺害事件となりました。その後、駅馬車強盗の容疑者として、ドク・ホリデイがジョン・ビアンにより逮捕されましたが、無罪判決となりました。駅馬車強盗の犯人に関する闇取引(アイク・クラントンに対して、仲間を売るように持ち掛けた)に関する諍いで、アイク・クラントンはワイアット、ドク・ホリデイ双方と喧嘩状態になりました。決闘前夜にドクとアイクは酒場で喧嘩となり、アイク・クラントンは、「アープ兄弟と決闘だ」、「ワイアットを殺す」と町の仲間らに言いふらし、アープらも「決着」をつけなければという気持ちになりました。当日は、「フライ写真館の隣にある空き地から、フリモントストリートに出たあたりで、カウボーイズ組が銃を所持しているので、武装解除するべきだ」と市民の忠告を受けました。バージル・アープは、彼らをただ武装解除するだけのつもりで出かけました。こうして、「OK牧場の決闘」となりました。以下は決闘の結果です。
アープ組(ワイアット・アープ:市保安官で無傷、バージル・アープ:ワイアット・アープの兄で市保安官、右太腿負傷、モーガン・アープ:ワイアット・アープの弟、負傷、ドク・ホリデイ:ワイアット・アープの友人、大腿部打撲)
カウボーイズ組(アイク・クラントン:オールド・マン・クラントンの子で決闘には不参加(逃走)、ビリー・クラントン:オールド・マン・クラントンの子でアイクの弟、死亡、フランク・マクローリー:アイクの友人、死亡、トム・マクローリー:フランクの弟、死亡、ビリー・クレイボーン:カウボーイズの知り合い、決闘中に逃走)
決闘後、アープ組は全員殺人罪で起訴されましたが、全員無罪となりました。この判決を受け、カウボーイズ組はバージルとモーガンを闇討ちし、バージルは腕を、モーガンは命を失いました。その後、ワイアット・アープら自警団は、モーガン殺害の実行犯と見られたフランク・スチルウェルをツーソン駅構内で殺害しました。この出来事は、現在では西部劇の定番となっています。

さらに次に、ハルビン事件:伊藤博文暗殺です。伊藤博文は、長州藩の私塾・松下村塾で学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加しました。高杉晋作の「品川御殿山・英国公使館焼き討ち」に参加し、塙次郎を暗殺するなどし、高杉晋作の「功山寺挙兵」にも加わりました。明治維新後は、初代内閣総理大臣となりました。その後、5代・7代・10代と4度、総理大臣に就任しました。1909年10月26日、伊藤博文は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相のウラジーミル・ココツェフと会談するため、ハルビンに赴きました。午前9時、哈爾浜(ハルビン)駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤博文に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中しました。伊藤博文は約30分後に死亡しました。狙撃後、安重根は ロシア語で「 コレヤウラー!」(韓国万歳!)と大きく叫びました。安重根はその場でロシア官憲に逮捕され、2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡されました。共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もロシア官憲に拘禁されました。留置中に伊藤博文の死亡を知った際、安重根は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べました。大韓帝国のカトリック教会の司教からは、大罪を犯した安重根に「サクラメント」を施してはならないという命令が出されました。しかし、懇意であった洪司祭は彼のもとを訪れ、支えとなりました。抗日闘争に際しては、同志とともに薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染めました(断指同盟)。安重根は旅順の関東都督府地方法院で死刑判決を受けました。彼は判決そのものが不当であると憤慨しました。裁判を統轄した判事は、死刑執行までに少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていましたが、日本政府は事件の重大性から死刑の速やかな執行を命じました。安重根は上訴を行い、担当検察官であった溝渕孝雄へ自らの随筆「東洋平和論」を書き終えるために必要な時間の猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組与えてくれるよう願い出ました。そして、3月26日に死刑が執行されました。また、禹徳淳は懲役2年、曹道先、劉東夏は懲役1年6か月の判決が下されました。安重根の死から5か月後、「日韓併合」により大韓帝国は消滅しました。

最後に、南太平洋海戦です。「ミッドウェー海戦」で日本軍主力空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を撃沈して勝利した米軍は、ツラギ島・ガダルカナル島を占領しました。日本軍は、「第一次ソロモン海戦」で勝利を収めました。「第二次ソロモン海戦」で米軍は日本軍軽空母「龍驤」を撃沈し、勝利を収めました。日本陸軍はガダルカナル島で総攻撃を行いましたが、ジャングルでの戦闘と防御陣地で待ち構えていた米軍海兵隊の反撃に遭い、失敗に終わりました。山本五十六連合艦隊長官は前進部隊(第二艦隊、第二航空戦隊)の航空兵力で、ガダルカナル島陸軍陣地・米艦隊の攻撃を命じました。日本軍は米軍機動部隊戦力を空母3隻と判断しました。第一次攻撃隊として旗艦「翔鶴」から24機(村田重治少佐指揮)が発進、「瑞鶴」から29機、「瑞鳳」から10機、三艦合計62機が発進しました。続いて第二次攻撃隊として44機が発進、米機動部隊に向かいました。アメリカ軍も日本艦隊を発見し、キンケイド少将は、直ちに攻撃隊発進を命令しました。空母「ホーネット」から第1次攻撃隊29機、空母「エンタープライズ」から第二次攻撃隊19機、さらに「ホーネット」から第三次攻撃隊25機が発進しました。日本軍第一次攻撃隊は米艦隊「ホーネット」に攻撃を集中しました。被弾した佐藤兵曹長機が「ホーネット」の煙突前部に突入、その後、「瑞鶴」艦攻隊が攻撃を実施し、「ホーネット」は全動力を失って停止しました。日本側第二次攻撃隊は、空母「エンタープライズ」および炎上漂流中の「ホーネット」を発見し、「翔鶴」艦爆隊19機は無傷の「エンタープライズ」に攻撃を集中し、2発の直撃弾を与えました。「ホーネット」の戦闘力喪失と「エンタープライズ」損傷の一方、日本軍には無傷の空母が残っているという状況でキンケイド少将は撤退を決め、マレー少将に「ホーネット」の曳航作業継続を命じると南東へ退避をはじめました。日本軍は航空機に多大な損害を受けていましたが、残存機をすべて投入して米艦隊の追撃を開始しました。この海戦でアメリカ軍は「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」も大破したため、太平洋における稼働空母数は一時的に0となり、アメリカ軍にとって「史上最悪の海軍記念日」となりました。日本はこの海戦で勝利を収めましたが、村田重治少佐をはじめとする「真珠湾攻撃」以来のベテラン搭乗員を多数失って、これ以上の攻勢に打って出る事が困難となりました。日本軍は航空機損失92機、戦死者498人を出しました。アメリカ軍は、空母「ホーネット」と駆逐艦「ポーター」が沈没、航空機損失74機、戦死者293人でした。日本軍は軍令部や大本営を含めて大勝利を収めたと信じ、「ガダルカナル島の戦い」に勝利するのも目前だと考えました。そこで陸軍第三十八師団を輸送船11隻に分乗させ、ガダルカナル島へ強行輸送する作戦を立案しました。日本軍の作戦を察知した米軍は、空母「エンタープライズ」に応急修理を施して戦線に復帰させ、さらに新鋭戦艦「サウスダコタ」、「ワシントン」をガダルカナル島周辺海域に投入しました。こうしてガダルカナル島へ向かう日本軍艦隊との間に「第三次ソロモン海戦」が発生し、鉄底海峡に多数の両軍艦艇が沈む事になります。

今日の誕生日:岩倉具視、小村寿太郎、加藤寛治、織田作之助、フランソワ・ミッテラン(第4代フランス大統領)、櫻井よしこ、チャック・ウィルソン、北方謙三、ヒラリー・クリントン、小倉久寛、あいざき進也、朝岡聡、久保田篤、野村義男(元たのきんトリオ)、渡辺敦子(元プリンセス・プリンセス)、大澄賢也、岡田浩暉(元To Be Continued)、井森美幸、原田龍二、千秋(元ポケットビスケッツ)、リトル清原、佐々木収(元MOON CHILD)、マツコ・デラックス、加藤歩(元ザブングル)、LISA(元m−flo)、MICRO(HOME MADE 家族)、堀之内聖、一柳亜矢子、斉藤慎二(ジャングルポケット)、今井メロ、堀田茜、大江梨久(NiziU)

今日の記念日:原子力の日、柿の日、デニムの日、どぶろくの日、きしめんの日、青汁の日、歴史シミュレーションゲームの日

今日の「今日訓」:本日は、1956年10月26日に日本が国際原子力機関 (IAEA) に加盟し、1963年10月26日に茨城県東海村の日本原子力研究所で、日本初の原子力発電が行われたことにより「原子力の日」、1895年10月26日に、正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだ事により「柿の日」、1981年10月26日、コンピュータゲームに「歴史シミュレーションゲーム」と言うジャンルを切り開いたコーエーの「川中島の合戦」が発売された事を記念して「歴史シミュレーションゲームの日」、「デ(10)ニ(2)ム(6)」の語呂合わせで「デニムの日」、「ど(10)ぶ(2)ろく(6)」の語呂合わせで「どぶろくの日」、食欲の秋「10月」と「ツ(2)ル(6)」の語呂合わせで「きしめんの日」、10月を「IO(アオ)26(ジル)」で「青汁の日」となりました。
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