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2022年10月24日08:12

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18980701 NO5620 馬山浦に関する報告

18980701 NO5620 馬山浦に関する報告
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013_0010_0010 駐韓日本公使館記録 13巻 一. 各領事館来信 (1) 馬山浦に関する報告
文書題目 (1) 馬山浦に関する報告
文書番号
発信日 明治三十一年七月一日 ( 1898年 07月 01日 )
発信者 一等領事 伊集院彦吉
受信者

(1) 馬山浦に関する報告
韓国で通商港として新たに開こうとしている馬山浦(マサンポ)は慶尚道(キョンサンド)昌原(チャンウオン)郡の管下にあり、釜山港の西方、海陸共に約十五里とする。陸路運輸の便は、その本道によるときは甚だしく急な坂の山道ではあるが、洛東江(ナクトンガン)河口の三つの支流を渡らなければならないという不便があり、経路はすこぶる険しくて狭く、人馬の通行には困難であるので、馬山浦開港の時には釜山港との運輸の便はもっぱら海路によらなければならない。そこで本官はこの行路、特に海路を選びその模様を視察した。
釜山港を出て西進しおよそ八海里の所に加徳島(カドクト *洛東江河口の西)がある。この島とその西の巨済島(コジェド)でもって朝鮮海峽の洋面に湾口をなし、熊川(ウンチョン *昌原郡熊川面)・鎮海(チネ *昌原郡鎮海邑)両郡の陸地から約十五海里の内海を形づくり、小島が散在するが海底は深く、その西北隈より真北に向って更に海水が湾入すること七海里ばかりの港湾が即ち馬山浦である。
馬山浦湾は東西に長くおよそ三海里、南北は狭く、広いところで一海里半に過ぎず、湾内海底は東北部に浅く、次第に西南に向かって深くなる。湾口の中央に小島があり猪島(チョド *現・トルソム)と称す。周囲五六町、その左右は陸地との距離六丁余りで、いずれも海水は深く大船の通過は自由である。
湾の西北に舞鶴(ムハク *761m)の山脈が起伏して陸地の後面を包囲し、東北に盤龍(*馬山駅の東2.2kmにある八龍山328mであろうか)の高嶺があり、東南に熊川郡の険岳が控えているので、湾内は四季、風向の如何にかかわらず海上は穏やかであるため極めて安全な錨地である。
陸地は海面に接し、平坦の地が多く、特に東北部、即ち馬山市街の付近で最も平坦である。西南に進むに従い次第に綾慢な傾斜面をなし、漆原(チルォン)郡境あたりではほとんど平地はない。
馬山浦の現市街は湾口の西北に当り、平坦の地にある。海岸に突堤がある。その規模は小規模であるが、貨物の揚げ卸しに便利である。戸数約八百、人口五千を越えないであろう。海岸は人家が密集して並び空いた土地はない。韓船の出入りが常に頻繁なのだが、その付近の海底はやや浅く、突堤の沖三百間あまりで僅かに三尋(四、五メートル)ばかりであるので大船の錨地としてば少し不便を感じるであろう。
以上は馬山浦の地勢の一般であるが、これから居留地の位置を考えると、現在の馬山浦市街のある場所は、前回の電報で知らせたように、既に人家が犇(ひし)めいて空いた土地はない。海岸・突堤などもその規模が小さく、通商港の設備はあるももの小さすぎる。またその付近の海底が浅いので、汽船の繫泊(けいばく)に不都合であるので、全く新たに居留地を得るのがふさわしいと感じた。その場合、その位置は別紙略図に朱線で示したように、馬山市街から西南の海岸七、八町(*一町はほぼ百m)余りの所より、更に十四、五町の間で、およそ三十万坪の地区を当てれば良居留地を得ることになるであろう。
これに対する錨地は、湾内猪島(チョド)の左方、及びその内面で、ここが湾内で海水の深い部分であるので、巨船・大船が容易に投錨することができ、陸地は舞鶴山の麓、尺山、玩月、月影(ウオリョン *猪島の西岸)の諸村の田畑であり、海岸に向ってやや傾斜面をなしているがそれほど急ではないので、優に数十万坪の平地を得ることも難しくはない。
従来新開港場の実施に際し、韓国政府は財政が困難であるためすこぶるその設備を怠り、そのために邦民(*日本人)の経営上大いに不便を感じる所であるが、馬山浦などは新たに居留地を選定するにしても、木浦などのように土木工事に過分の経費を要しないであろう。これはその海岸は干潮面が僅かに干潟をなし、土石の材料は付近に潤沢であるので、ここの埋め立てをすれば貨物の置場、税関敷地などを得るのに容易であるからである。
また新居留地に充てようとする地区は、一帯が田畑だけで人家がないので、土地の収用に困難を見ないであろうし、飮用水は舞鶴山(*761m)より流出する渓流が二三あり、水質も佳良であるので、これを利用すれは他日幾千の人口を有する事になっても不足を告げないであろう。
居留地の位置はほぼ前述の辺りに選定するものとするならば、我が領事館敷地は各国居留地制であるので西北端海岸に接近し、小さな丘からこれを中心として四方およそ一万余坪を使えば後日の設計に便利である。もしまた専管居留地であることが可能ならば、別紙の図面に示すようになるべく馬山浦市街に接近し、平地の多い地区を我が居留地とすることが良計であろう。この場合においては、一面平坦であるので領事館敷地としては特別の場所はなく、ただ我が国民の商売の経営を妨げない限り、海岸に近い一帯の地区を設定すればよい。
次に現状において、仮に領事館として借り入れるべき家屋は、個人のものには一つもなく、ただ馬山浦市街中に旧・転運使(*郷豪が納めた租税を中央へ運搬する官吏)の官衙がある。既に荒廃にまかせまた狭隘ではあるが、少し修繕を加えたならばやや領事館用として一時を凌ぐことができそうだが、開港実施の場合には韓国政府としてもこの家屋は必要となるだろうから我が方がこれを利用することはできないであろう。特に新たに居留地を選定するときはその付近に一個の家屋もないので「バラツク」ででも建設しなければ館務を行なうことはできないであろう。
以上は一応の調査に止まっているので、他日専門家の踏査を経て十分な設計をなす必要がある。

馬山浦の現状及び開港に対する地方韓人の意向
この出張のついでに馬山浦の現時の状況、及びその他に関し調査した所次の通り。
本官の出張までは馬山浦の韓人は開港のことを知らなかった。これは独り人民だけでなく昌原郡守なども政府よりなんらの通知にも接していないと言っていた。このような事情であるので、郡守などは全くさしさわりを感じないもののようで、極めて冷淡であったが、土地の商売その他一般の人民は、開港の事を聞き非常に歓喜しているようすがあり、ひたすら開港実施の速やかであることを希望して居た。
彼らが異口同音に唱える所によれば、馬山浦は釜山開港以前にあっては慶尚道中最も盛んな港であって、特に慶尚道南北部の貢米はいったんすべて馬山浦に回漕し来て、韓政府は転運使(チョヌンサ)というものを置いてその事務を司らせていた。現在存在する官庫二棟は当時貯米の用に供したものでありその規模は甚大である。これをもって慶尚道の過半は勿論、全羅・忠清・咸鏡の諸道より貨物登載船の集まってくることほとんど間断なく、従って諸取引も盛んに行われ、一時は戸数二千余に達していたのだが、釜山開港に続いて政府は米納を廃してこれを代納としたため、商権は釜山港に移ってしまい、遂に今日の衰運を来すに至った。それにより人口も次第に減少し、目下戸数も八百に達しない。しかしこれは全く人為によるものであり、地勢からすれば通商港として遙かに釜山に優るものがある。
そもそも馬山浦が良港であることは韓国中でもその右に出るものがないことは、すでに内外人の認める所であって、北に慶尚道の要市・大邱(テグ)から十九里、洛東江沿岸で最も沃野に富んでいる霊山(ヨンサン *馬山浦の北。現在の昌寧郡の南部)地方は東西に走る洛東江を隔ててわずかに七里の間にある。西南には晋州(チンジュ)、統営(トンヨン)の要市を十二里の所に控え、その他熊川、金海、鎮海、漆原、咸安、固城、宜寧などの各郡に境を接しているので、これらの地方との取引は海・陸の便によって行われ、今なお貨物の集散地としての地位を保っている。現に居民の過半は商いをもって営業とするものであるので、開港の事が行われた場合は交通の便はさらに幾層を増し、釜山港をはるかに凌ぐことになるだろう、と言う。これも大いに根拠のない事ではないが、彼らの言うような盛況を呈するのはしばらく時日を要するだろう。
現在馬山浦付近から産出する穀物は二、三万石以下ではあるが、貢米時代にはこの浦に集まった穀物は十万石余りであったとのことであるので、開港の日には果して幾干の穀物を蒐集するかは到底これを知ることはできないが、第一の貿易品を穀物とし、その他は牛皮などで格別の産物はない。ただ鉱物は古来昌原地方に産するものがあり、かつて本邦人で韓国政府より金・銀・銅の採掘の許可を受けてこれに従事したのだが、都合があって現時中止の姿となっているのだが、今後専門家の精密な踏査を経て適当な採鉱の方法が得られるならば、相当の産出を見ることになろうか。また朝鮮八道中において砂金の採集に従事するものの多くは昌原管下のものであるとのことで、馬山浦が開港したならば沙金の輸出地としては大いに注目すべきものがある。
馬山浦においては既に本邦雑貨の取引が韓人間に相当行われているので、これの輸入地としては大いに望みがあり、邦人の経営を必要とする場所がある。また巨済島(コジェド)付近は我が漁業者が毎年多く出漁しており、馬山浦はその漁獲物の好市場であり、彼らの需用品はここで求めているので、漁船の出入が頻繁なればその開港は我が漁業者にはすこぶる便宜を与えることになるであろう。

馬山浦開港と釜山港との関係
先に韓国政府が木浦と鎮南浦を開放する際に、直ちに利害の関係、取引の便否を感じるものは従来の開港場であるのだが、その経営に着手するものはいずれも仁川・釜山・元山等の我が居留民であって、新たに本邦より渡航したものは労働者を主とし、その他は僅かに指を折って数える程度に止まるものである。ところが従来韓国にある我が居留民の資力は甚だ微弱であるので、木浦・鎮南浦に対する経営ですら日頃すでに困難を感じているのだが、更に馬山・群山・城津の三港を開放しようとする報せに接しその影響がどれ程の物かを掛念し、既に経営している事業をも控えている状況があるのは止むを得ない事であろう。
もともと当国政府において通商港を増設するのは、我か対韓経営上の観点からすれば永遠の利益であるに相違ないとはいえ、先に述べた事情があるために今般の新開港に対する当港居留民の意向は、大いに歓迎しようとするものではなく、寧ろその影響がどうかを憂慮しひたすら研究しつつあるものである。もとより馬山浦開港のため釜山港に多少の影響をこうむることは疑いのない所で、ただその度合がどうかに関しては諸説あるのだが、当港居留民一般の希望は、釜山港は数百年来の歴史を有し、我が居留民が多数の諸般施設を完備している当国開港場中第一位にある港であるため、居民の多数も永住の念をもって万事を経営し、既に少なからぬ資本を投じているので、当港の繁昌はどこまでもこれを維持し、馬山浦が開港したとしてもこれを本店・支店の関係に置こうとするところにあって、すでに有志家中にはそれぞれ調査を進めている所がある。
そもそも馬山浦が良湾であること、また陸地は慶尚道諸要市に接近していることは既述の通りであるが、その欠点を挙げれば、釜山港に近すぎ、その港湾は大海より深く湾入するために、郵船会社の定期船は勿論、大阪商船会社の汽船であってもその集散貨物の量が寄港するにふさわしいか、あるいは政府から特別の命令があるのでなければ、寄港する必要がないと主張している。そうだとすれば、この点においては、馬山浦はやや不便な地位にあり、それは将来その発達上少なからざる影響をこうむるであろう。
しかしながら従来当港に回漕して来る穀物のほとんどは洛東江の水路によるものであるが、その江口から釜山への回航の海路に横たわる多大浦(タデポ *現在は一大観光地)の険しい難所がある。このため朝鮮船舶が毎年危険に遭遇することがしばしばあって、登載貨物に欠損をこうむり、あるいは天候のため江口に滞泊して時日を空しく過ごすおそれがあるので、これらの韓船もひょっとすると馬山浦に回航することになるかとも思われる。その他慶尚道晋州(チンジュ)付近、および全羅道一面の貨物は、馬山浦に回漕するのが順路であるので、同浦が開港したならば釜山は既にその市場ではなくなる。従って輸入貨物の販路も相当量馬山浦に移ることもあるであろう。そこで、
「釜山港にその大きな影響をこうむらせる事がないようにするためには、当港においてはそれにふさわしい設備にとどめ人為でこれを防止する必要があり、その主な手段として、馬山浦が開港されても当分大型汽船の寄港はこれまで通り元山・釜山・木浦・仁川に止め、これを補うために小汽船に各開港場間の沿岸航海を開き、これによって新開港場との連絡を通じ、一面には銀行業者が新開港場において荷為替を取り扱わなければ釜山などの従来の開港場は依然貨物の集散地であることに変わりはないであろう。また新開港場も著しい不便を感じることはなく両者の利益を保全する策となろう」
との説がある。これらはやや姑息な手段の嫌いがあるが、実際の事情においては思うに止むを得ないものであるので、当分我が政府においても以上の事情は斟酌せられ諸事の設計が進められることを本官は切望する。
明治三十一年七月一日
一等領事 伊集院彦吉






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