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2022年10月20日07:11

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18980930 NO5615 清国庶政改革として惹起した政治的反動事件の通報

18980930 NO5615 清国庶政改革として惹起した政治的反動事件の通報
자료일람 | 한국사데이터베이스 (history.go.kr)
012_0120_0200 駐韓日本公使館記録 12巻 一二. 本省往来信 (20) [清国庶政改革として惹起した政治的反動事件の通報]
文書題目 (20) [清国庶政改革として惹起した政治的反動事件の通報]
文書番号 送第五八号
発信日 明治三十一年九月三十日 ( 1898年 09月 30日 )
発信者 外務大臣 伯爵 大隈重信
受信者 在韓 弁理公使 加藤増雄

(20) [清国庶政改革として惹起した政治的反動事件の通報]
送第五八号
清国の諸改革に対し重大なる政治的反動が起り、「皇太后(*西太后)陛下は今後皇帝陛下(*同治帝)と共同して国務を親裁されよ」との勅語を発布せられ、張蔭桓の邸宅は昨日軍隊によって囲まれた。これは皇太后陛下の勅命に基づいたものとのことで、その目的は、当時同邸内に居住していると思われていた康有為を捕縛するためであったが、同人はその前日に既に北京を出ていたので同邸にいなかった。
この他に捕らえられたものは数名いた。なお伝聞する所によれば、満州大臣が結合して皇太后に対し、自ら政権を執って過激な改革派を鎮圧されるよう奏請しことによっている、とのことで、「皇帝陛下は最近数ヶ月の間改革運動の中心であったが、その権勢は今回の変更によって制限されるであろう」と本月二十二日在清・林・臨時代理公使より電報があり、その後二十五日には張蔭桓は刑部に移され、また慶親王は同人と親交の間柄であったとのことで五日間の賜暇を請願されたとのこと。
続いて同代理公使より電報があり、また在上海・諸井総領事館事務代理よりの電報によると、康有為は天津より乗船して吳淞に到着し、直ちに英艦に搭乗して逃避したとのことである、とのこと。よって本件発生の真相、原因、並びに今後の成行などについては、追って確報に接し次第更に御通報に及びますが、以上今日までの状況をここに御通報に及びます。 敬具
明治三十一年九月三十日
外務大臣 伯爵 大隈重信 印
在韓 弁理公使 加藤増雄 殿



*康有為 - Wikipedia





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