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2022年10月16日00:04

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10月16日の日記

今日の出来事:1467年−応仁の乱:東岩倉の戦い、1555年−厳島の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:杵築城の戦い、1793年−フランス革命:ルイ16世の妃・マリー・アントワネットが断頭台で処刑される、1868年−会津戊辰戦争:大内峠の戦い

今日は、応仁の乱:東岩倉の戦いです。「上京の戦い」で東軍は「花の御所」を確保して官軍となり、西軍は追討令を受ける側に追いやられました。しかし、西軍総大将・山名宗全の招聘に応じた大内政弘が摂津の兵庫に上陸、上洛して西軍の士気を高めました。一方の東軍は総大将・足利義視が出奔し、後花園上皇・後土御門天皇が内裏から「花の御所」に避難して危機感を募らせました。戦況が有利になった西軍は攻勢に出ました。畠山義就が武田信賢の守る三宝院を放火して落とすと、将軍・足利義政からの停戦勧告を無視して内裏を占拠しました。翌日には、東軍の筆頭格である細川勝元の家臣・秋庭元明と赤松政則の家臣・浦上則宗が上洛しました。両者は細川勝元の命令を受けて、摂津で大内政弘軍の上洛を防ごうとしましたが果たせず、大内軍の後を追って入京しました。下京がほとんど西軍に占拠されていたため、正面突入を諦めて東寺を経由して東へ迂回しました。京都郊外の東岩倉・南禅寺の裏山に布陣した所で察知され、西軍の南禅寺山攻撃が始まりました。東軍は激しく抵抗したため、西軍は攻撃を中止して京都へ戻り、あした。東軍は北から迂回して入京し、御霊神社を通って東軍本陣へ辿り着きました。この戦いで南禅寺・青蓮寺が炎上しました。細川勝元と赤松政則はそれぞれの家臣と再会した事を喜びました。西軍は三宝院と内裏の占拠などで下京を制圧、東軍は「花の御所」・相国寺・細川勝元邸など残る上京の拠点に追い詰められました。西軍はさらに勢いに乗り、上京に攻めかかって「相国寺の戦い」となります。

次に、厳島の戦いです。厳島の戦いは、「日本三大奇襲」の一つです。陶晴賢は「大寧寺の変」で大内義隆を討ち、大内氏の実権を掌握しました。その後、北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込みました。そして、宗像正氏の正室・山田局と宗像氏貞の間で対立が起き、赤間山田の地に於いて陶晴賢の指示で石松典宗によって、山田局、山田局の娘で宗像氏男の正室・菊姫と4人の侍女が次々と惨殺されました(山田事件)。しかし、この陶晴賢の政策に反発したのが、大内義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就でした。毛利元就は、厳島の宮尾に宮尾城を築きました。安芸への水運路を扼する事を狙ったものでしたが、同時に陶晴賢の軍を厳島に誘引する囮の役割も果たしていました。陶氏の重臣・江良房栄を味方にすべく内応の誘いを入れましたが、拒否されたため「江良房栄が元就と内応している」という虚報を山口周辺に流しました。陶晴賢は疑心暗鬼に陥り、弘中隆包らに岩国琥珀院で江良一族を暗殺させました。陶晴賢は吉見正頼の討伐に石見に赴き、石見津和野城主・吉見正頼を降しました。しかし、この隙を突いた毛利元就によって安芸にある大内方の城の大半が陥落してしまいました。このため、陶晴賢は宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込みましたが、「折敷畑の戦い」で大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となりました。宮尾城には陶方から毛利方に寝返った己斐直之・坪井元政が約500人の兵力で守りについていました。毛利元就は「今、厳島を攻められると困る」という嘘の情報を流させ、家臣・桂元澄が陶晴賢に対して内応を約束するという偽の書状を出したりするなど、謀略を使って陶軍を厳島におびき寄せようとしました。陶方の弘中隆包は危険であるとして厳島攻撃に反対しましたが、陶晴賢は厳島に向けて出撃しました。10月6日、陶晴賢は軍を率いて厳島に上陸しました。岩国を出発した時の船団は500艘、兵の数は3万でした。厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡に本陣を置くと、宮尾城を包囲して攻撃を開始しました。一方の毛利軍は、主力が厳島の対岸に位置する草津城に集結していましたが、兵数は4000〜5000程度でした。この兵力差を埋めるために、毛利元就は狭い厳島に陶軍を誘い込みました。そして、伊予の村上武吉・村上通康ら伊予水軍にも援軍を求めました。草津城から地御前に前進した毛利軍は10月15日の夜半、荒天の中で二手に別れて密かに厳島へ向けて舟を漕ぎ出し、毛利元就・隆元父子が率いる主力部隊が島の裏側の包ヶ浦に上陸を果たしました。この時、毛利元就は上陸に使った舟を島に残さずに全て対岸に戻させ、将兵に「後戻りは出来ない」という決死の覚悟をさせました。小早川隆景が率いる別働隊は、宮尾城を包囲していた陶軍の部隊に対して援軍であると偽って通過し、有ノ浦に上陸して宮尾城の味方部隊との合流に成功しました。翌10月16日早朝、毛利軍は陶軍の背後と城内から一斉に奇襲を仕掛けました。陶晴賢軍は混乱に陥り、総崩れとなりました。陶軍は我先にと島からの脱出の舟を奪い合い、沈没したり溺死する者が続出しました。陶晴賢も島外への脱出を図りましたが、海上は伊予水軍に制圧されていたため、脱出する事が出来ずに浜沿いに沿って大元浦に敗走しました。陶晴賢は舟を求めて大江浦に逃亡しましたが、伊香賀隆正の介錯によって自刃して果てました。陶晴賢に最期まで付き添った伊香賀隆正、柿並隆正、山崎隆方らは刺し違えて自刃しました。陶晴賢に代わって本陣で戦った三浦房清は、最期は30名余りとなり、奮戦の末に討ち取られました。弘中隆包・隆助父子は大聖院を経て山側に後退し、弥山沿いの谷を駆け登った後、隣の山の絵馬ヶ岳へ逃げ登り、抗戦した後に討ち死にして部隊は全滅しました。毛利軍は厳島から引き上げて、対岸の桜尾城に凱旋しました。この戦いで、陶軍の死者は4700人に上ぼる壮絶なもので、毛利元就は血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたといいます。この戦いにより大内氏は弱体化し、毛利氏がその旧領を併合していきます「防長経略」。そして、1557年に陶晴賢によって擁立された大内義長は自害し、大内氏は滅亡する事になります。

その次に、関ヶ原の戦い:杵築城の戦いです。大友義統は「文禄の役」の失態により改易され、毛利輝元の預かりとなりましたが、後に佐竹義重へ移行されました。また子の義乗も加藤清正の預かりから、徳川家康の預かりとなり、江戸住まいの後に東軍として「会津攻め」に従軍しました。家臣団も多くは黒田家の預かりとなった他、田原親賢・宗像鎮統は中川秀成の与力となり、吉弘統幸は黒田官兵衛に身を寄せた後に、従兄弟にあたる立花宗茂の下で2000石の知行を得ていました。豊臣秀吉が死ぬと大友義統等は赦免され、自由の身となりました。石田三成が挙兵すると、大友義統は豊臣秀頼より鉄砲300丁を含む武器・馬匹・銀を贈られ、大阪を離れて故地の豊後に向かいました。大友義統の下向を知った黒田官兵衛は使者を派遣して、周防上関で徳川につくよう要請をしました。同時期に立花家に仕えていた旧臣・吉弘統幸も江戸の大友義延へ合流する途上で大友義統に謁見し、徳川につくように進言しましたが容れられず、毛利輝元の支援を受けて豊後へ向かう大友義統と行動を共にしました。瀬戸内海を渡った大友義統は富来城と安岐城の間に着岸、夜が明けないうちに木付沖を南下して高崎に上陸しました。大友義統は立石に布陣を行い、大友氏ゆかりの旧家臣の集結を求めました。これに呼応して中川秀成に仕えていた旧大友家家臣の田原親賢・宗像鎮統などが加勢しました。豊後杵築領の杵築城は1599年に城主・福原直高が改易され、丹後宮津城主の細川忠興に飛び地として与えられました。細川忠興は家臣の松井康之・有吉立行を派遣して統治に当たらせました。加藤清正より大友義統の豊後上陸の知らせを受けた杵築城では、戦闘準備が開始されると共に細川忠興へ急使が派遣されました。杵築城には細川忠興の家老・松井康之が在城していましたが、度重なる豊臣奉行衆や大谷吉継からの西軍への参加要請に応じないため、毛利輝元と宇喜多秀家は明け渡しを命じる書状を発し、臼杵城主の太田一吉の子・一成を使者として派遣しました。しかし、松井康之はこれ拒絶しました。立石より杵築城攻撃に向かった大友勢は吉弘統幸を大将に、岐部玄達・吉弘七左右衛門・鉄炮頭の柴田統生と雑兵100人でした。二の丸の野原太郎右衛門の内通により城下に火が掛けられ、夜明けから戦闘が開始されました。杵築城側も松井康之が相原山に伏兵を置いて迎え撃ち、柴田統生を討ち死にさせるなど大友勢の敗北に終わりました。なお、この合戦で朱湯院長泉寺・円通山観音禅寺・太平山宝泉寺が焼失しました。大友勢の立石布陣の報を受けた黒田官兵衛は、杵築城支援の先遣隊(一番備:久野次左衛門・曾我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平太夫を頭に約1000人、二番備:井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助を頭に約1000人)を派遣し、自らも追って出陣しました。先遣隊は赤根峠を越えて杵築に到着、黒田官兵衛の本隊を待てとの指示に従わずに石垣原へ兵を進めました。こうして「石垣原の戦い」となります。

その次の次に、フランス革命:ルイ16世の妃・マリー・アントワネットが断頭台で処刑です。マリー・アントワネットは、フランス国王のルイ16世の妃で、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」発言で有名です。1793年1月、革命裁判は夫・ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑としました。息子である王位継承者のルイ・シャルルは、ジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたといいます。マリー・アントワネットはコンシェルジュリー牢獄に移されて裁判が行われましたが、結果は初めから決まっていました。革命裁判所は多数の反革命を処刑するための、最初の生贄としてマリー・アントワネットを欲していました。しかし、マリー・アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航しました。業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問を行ない、「母親に性的行為を強要された」とマリー・アントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させました。しかし、この汚い企みに対し、マリー・アントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼びました。しかし、判決を覆すまでには至らず、彼女は革命裁判で死刑判決を受けて、コンコルド広場で夫の後を追ってギロチン送りに処せられる事となりました。処刑の前日、マリー・アントワネットはルイ16世の妹・エリザベト宛ての遺書を書き残しました。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものでした。12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行されました。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けました。

最後に、会津戊辰戦争:大内峠の戦いです。新政府軍は会津領に侵入し、田島を占領しました。一方、会津軍も日光口守備隊である会津藩小山田支隊が田島と大内の間に陣地を構築、新政府軍の来襲に備えました。新政府軍は大内峠に進撃を開始し、会津藩兵も攻め寄せる敵に猛射を始め、山岳の為に兵を展開できない新政府軍宇都宮藩兵を苦しめました。芸州藩兵が援軍要請を受けて駆け付けると、宇都宮藩兵が狭い戦場全面に兵を展開して戦闘中でした。戦闘に参加する為、戦場の側面にある山の山頂を目指し、道無き道を登っていきました。山頂に着くと、眼下に会津兵の陣地が見下ろせるという絶好の位置に出る事ができました。ここから攻撃を加えて会津藩兵の撃破に成功しました。会津軍を撃退し、新政府軍は大内村を占領しました。こうして会津平野への最大の関門・大内峠の攻略戦が始まりました。ここの地形は、大内峠を越えるとすぐに火玉峠があるという、二つの峠が連続している最大の難所でした。会津軍もまた最大の防御拠点であり、日光方面守備軍に援軍を派遣し、徹底防戦の体勢をとって待ち構えていました。会津藩小山田支隊全軍と小山田直属隊(兵力300〜400)、唐木砲隊、脱走探索隊、凌霜隊に加え、会津から増援として到着した高木弘三が指揮する青龍足軽小隊、横山伝蔵隊、御普請方備えに会津藩の義勇諸隊である義勇隊、報国隊が配置されていました。新政府軍の先鋒は肥前佐賀藩兵でした。佐賀藩は時間が掛かってでも迂回すべきと判断し、道など無い山中に足を踏み入れていきました。続く二番手・芸州藩兵もやはり迂回すべく兵を分進させました。この後、後続する新政府軍は真正面から会津軍との戦闘に突入し、そのまま峠の中腹で釘づけにされ、まったく前進できなくなってしまいました。佐賀藩兵は大内峠の横に広がる山の山頂目指して進みましたが、ここにも会津軍の備えがあって前進できなくなりました。芸州藩兵は上手く迂回に成功し、会津軍の後方に潜り込みました。芸州藩兵は、会津軍が本部を置いていた一軒家を急襲放火しました。会津兵は後方の本部が燃えた事に驚き、背後に敵がまわった事を知りました。これは会津軍にとって退路を断たれた事を意味し、会津軍は撤退戦を開始しました。芸州藩兵を撃退しましたが、芸州兵は会津軍が逃げ去った後の六石山腹の陣地を占領して、大内峠から逃げようとする会津軍と対峙、退路を完全に遮断しました。一方、会津軍の敗勢から勢いを得た日光支軍が後方から追撃を始め、前に芸州藩兵、後ろに新政府軍の挟撃を受けた会津軍は、山中に逃げ込んで壊乱状態となってしまいました。会津藩砲兵隊頭取・笹沼金吾は、近くの水車小屋に潜んで新政府軍を待ち伏せました。新政府軍が通り過ぎるのを待って、後方から敵兵12人を斬り伏せて壮絶な最期を遂げました。この後、新政府軍は火玉峠に進撃し、峠を突破しました。

今日の誕生日:丹羽長秀、田中久重、伊藤博文(初・5・7・10代内閣総理大臣)、大山のぶ代、馬飼野俊一、大島康徳、阿川泰子、パウロ・ロベルト・ファルカン、林寛子、風間八宏、石川亜沙美、徳澤直子、佐藤亜美菜(元AKB48、NO NAME)、瀧本美織、足立梨花、後藤郁(元アイドリング!!!25号)、大坂なおみ

今日の記念日:ボスの日、世界食糧デー、世界脊椎デー、グリーンリボンDAY、人と色の日・自分色記念日

今日の「今日訓」:本日は、「ボスの日」です。1958年にアメリカのパトリシア・ベイ・ハロスキが、会社を経営していた父のために、経営者と部下の関係を円滑にする日として提唱し、アメリカ商業会議所に登録された事が始まりです。1945年10月16日に「国際連合食糧農業機関(FAO)」 が設立された事で「世界食糧デー」、国際連合とWHOの呼びかけで開始された運動器の10年により制定された、世界中で運動器障害(筋骨格系疾患)をはじめとした脊椎疾患への理解と予防を呼びかける「世界脊椎デー」、1997年10月16日に「臓器移植法」が施行された事で「グリーンリボンDAY」、「10(ヒト)16(イロ」で「人色」と読む語呂合わせから「人と色の日・自分色記念日」となりました。
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