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2022年10月07日00:09

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10月07日の日記

今日の出来事:1324年−正中の変、1571年−レパントの海戦、1684年−大老・堀田正俊暗殺事件、1757年−柄井川柳が「川柳評万句合」を初めて開催、川柳の発祥の日、1868年−会津戊辰戦争:十六橋・戸ノ口原の戦い、1868年−秋田戊辰戦争:神宮寺の戦い、大館城攻城戦、1965年−マリアナ海域漁船集団遭難事件、1969年−黒い霧事件

今日は、正中の変です。正中の変は、元亨4年に起きた後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し、首謀者が処分された事件です。この年は改元があって正中元年となったため、日本史の上ではこの改元後の元号をとって「正中の変」と呼んでいます。後醍醐天皇は父・後宇多法皇に代わって1321年から親政を開始し、記録所の再興などの政治を始めました。後宇多法皇は、死の間際まで皇太子の邦良親王を大覚寺統の嫡流として、後醍醐天皇に邦良親王への譲位を行うように命じていました。後宇多法皇が崩じると、邦良親王はさっそく後醍醐天皇に譲位を行わせるため、鎌倉へ伺いを立てました。また、持明院統も邦良親王の即位後に量仁親王を皇太子にする事を条件にこれを支持したため、鎌倉幕府も皇位継承を早期に行う事を決めました。しかし、後醍醐天皇はこの事を知ると邦良親王や持明院統だけでなく、幕府に対しても激しく反発しました。そこで、後醍醐天皇は六波羅探題南方・大仏維貞が鎌倉へ赴いている隙に討幕を行う事を企てました。これを受けて側近・日野資朝や日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼びかけました。当時は畿内をはじめ、各地で「悪党」の動きが活発になっており、奥州では「安藤氏の乱」が得宗家を震撼させてあり、こうした政情不安に乗じて後醍醐天皇は「倒幕」という「承久の乱」以後、絶えてなかった具体的な行動を行ないました。しかし、土岐頼員が計画を「六波羅探題」の奉行・斉藤利行の娘である妻に漏らしてしまった事から露顕しました。1324年10月7日、密かに上洛していた土岐頼兼と多治見国長の元へ討手が差し向けられ、四条付近で激しい戦闘が行われました。2000騎余を率いた山本時綱は、三条堀河の土岐頼兼の宿所を急襲しました。土岐頼兼は奮戦しましたが、衆寡敵せずに自刃しました。多治見国長は、小串範行によって夜中に急襲を受けました。酒に酔っていましたが、急襲の声に驚き騒ぎました。無防備でしたが、共に寝ていた遊女の機転によって鎧兜を身に着け、寝入っている者を起こしました。多治見国長は少ない手勢を率いて奮戦しましたが、最終的には館の裏手を突破された事から観念し、一族郎党と共に自害して果てました。「六波羅探題」の追究は朝廷にも及びましたが、日野資朝・俊基らが自ら罪を被って鎌倉へ連行されました。日野資朝は佐渡島へ流刑となりました。日野俊基は赦免されて帰京しましたが、以後は蟄居謹慎の日々を送りました。一方、後醍醐天皇は側近・万里小路宣房に釈明書を持たせて鎌倉へ下向させたため、今回の変とは無関係という事で咎められませんでした。

次に、レパントの海戦です。レパントの海戦は、ギリシアのコリント湾口のレパント沖での、オスマン帝国海軍と教皇、スペイン、ヴェネツィアの連合海軍(神聖同盟:スペイン王国、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、教皇領、サヴォイア公国、トスカーナ大公国、ウルビーノ公国、マルタ騎士団)による海戦です。1570年にオスマン帝国のスルタン・セリム2世が、キプロス遠征を行いました。ヴェネツィア共和国は、キプロス防衛のためにカトリック教国の艦隊を結集させようとしました。しかし、スペインが消極的だったため、翌年8月にファマグスタが陥落してキプロスはオスマン領になりました。カトリック教国の連合艦隊は、300隻からなり、有能な指揮官ドン・フアン・デ・アウストリア(スペイン王・フェリペ2世の庶弟)によって指揮されていました。オスマン帝国の艦隊は、メジンザード・アリ・パシャに率いられた285隻でした。両軍とも大多数をガレー船が占めていました。午前12時に開戦となりました。風向きが西に変わり、オスマン艦隊に帆を下ろすための隙が生じました。ここで先行する連合艦隊のガレアス船がオスマン艦隊を射程距離に捉えて砲撃を開始しました。連合艦隊左翼のバルバリーゴ艦隊は、オスマン艦隊右翼のシロッコ艦隊が後方へ回り込むのを防ぐため、海岸近くまで船を寄せていました。地形に詳しいシロッコ艦隊の6隻が連合艦隊の後背に回り込む事に成功しました。激烈な戦闘が展開され、旗艦で指揮を執るバルバリーゴ司令も右目を矢で射抜かれる致命傷を負いました。指揮官不在の連合艦隊は崩壊しかけましたが、隙を見て横付けした援軍によって難を逃れました。指揮権はバルバリーゴの甥のマルコ・コンタリーニが継承しました。一方のオスマン艦隊のシロッコも、槍に胸を貫かれて戦死しました。オスマン艦隊は大混乱に陥り、先を競って離脱しようとしたため船を衝突させる被害を出しました。連合艦隊右翼のドーリア艦隊は、オスマン艦隊左翼のウルグ・アリ艦隊と対峙し、互いに包囲されるのを防ぐために南へ移動しました。中央部隊も両軍の総旗艦が衝突する大激戦でした。ドン・フアンのガレー船は、ドーリアの進言によって衝角を短くしていたため高い位置にあり、射撃の際に有利でした。この戦闘により、アリ・パシャが戦死したため、オスマン艦隊の旗艦は投降しました。双方のガレーの櫂手は、キリスト教徒とイスラム教徒の奴隷で構成されていました。ドーリアとウルグ・アリが南へ移動して戦闘を続けていましたが、ウルグ・アリは北への転進をはかりました。そこへ、ドン・フアンおよびサンタ・クルス侯がドーリア艦隊の救援に赴きました。すでに、シロッコ、アリ・パシャ、アサンが戦死しており、これ以上の戦闘は無益と判断したウルグ・アリ艦隊は戦線を離脱しました。致命傷を受けたバルバリーゴは2日後に死亡しました。結果は、オスマン帝国の大敗となりました。海戦に参加した285隻の内、210隻が拿捕されて25隻が沈没しました。3万人の5000人が戦死または行方不明となり、25000人が捕虜となって奴隷となるか処刑されました。ガレーの漕手となっていたキリスト教徒の奴隷12000人は解放されました。この戦闘は、西欧の軍隊がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなり、ヨーロッパに大きな心理的影響を与えました。オスマン帝国は艦隊の再建に取り掛かり、6ヶ月後には大艦隊の艤装を完了しました。ヴェネツィアから奪取していたキプロス島の権利を割譲させるなど、地中海における優位性を依然として維持しました。小説「ドン・キホーテ」の作者であるミゲル・デ・セルバンテスも参戦しましたが、砲撃を受けて左手を失いました。

その次に、大老・堀田正俊暗殺事件です。堀田正俊は老中・堀田正盛の3男として生まれました。春日局の養子となり、その縁から第3代将軍・徳川家光の嫡男である家綱の小姓に任じられました。春日局の孫・稲葉正則の娘と婚約し、春日局の遺領3000石を与えられました。徳川家光の死去に際して父・正盛が殉死し、遺領のうち下野新田1万石を分与され、守谷城1万3000石の大名となりました。第4代将軍・徳川家綱に上野安中藩2万石を与えられ、老中に昇進しました。徳川家綱の死去にあたり、家綱政権時代に権勢をもった大老・酒井忠清と対立して家綱の実弟・綱吉を推しました。徳川綱吉が第5代将軍に就任すると酒井忠清に代わって大老に任ぜられ、古河藩13万石を与えられました。牧野成貞と共に「天和の治」と呼ばれる政治を執り行ない、特に財政面において大きな成果を上げました。しかし突然、従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休に江戸城内で刺殺されました。稲葉正休は同席していた老中・大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らにその場で斬り殺され、稲葉家は改易処分となりました。堀田正俊が暗殺される直前に、徳川綱吉は「生類憐れみの令」を布く事を表明しており、これに反対していました。堀田正俊は徳川綱吉を将軍に就任させた功績があり、大きな発言力を持っていました。そのため両者の間に溝が生まれた事から「徳川綱吉による陰謀説」があります。またこの事件以降、徳川綱吉は奥御殿で政務を執るようになり、老中との距離が生まれます。そのため、両者を連絡する柳沢吉保・牧野成貞ら「側用人」が力を持つ事となりました。

その次の次に、柄井川柳が「川柳評万句合」を初めて開催です。柄井川柳は江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主の家系で、家を継いで名主となりました。はじめは談林派俳諧の点者でしたが、前句付の点者として「無名庵川柳」と号し、最初の万句合を興行しました。これが、「川柳の発祥の日」となりました。こうして江戸の流行となり、これ以降、月3回5のつく日に句合を興行しました。「川柳」は口語が主体であり、季語や切れの制限がなく、字余りや句跨りの破調、自由律もあります。付け句からあらかじめ用意された七七を省略し、五七五として独立しました。柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出して「誹風柳多留」を刊行すると、流行に拍車をかけて盛んになった事から、「川柳」という名前で呼ばれるようになりました。柄井川柳は辞世の句に「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳」を残しました。

そのまた次に、会津戊辰戦争:十六橋・戸ノ口原の戦いです。
十六橋の戦い:母成峠を突破した新政府軍は、猪苗代に向けて進撃を開始しました。ここには、会津藩の祖・保科正之の霊を祀る土津神社がありました。猪苗代城代・高橋権太輔は城と土津神社に自ら火を放って退却しました。薩摩藩の川村純義は、猪苗代に到着するとすぐに十六橋に進撃を命じました。十六橋は猪苗代湖から流下する日橋川に架けられた石橋で、会津若松の城下に入るにはこの橋を渡らなければなりませんでした。この橋を会津藩兵に破壊されれば、水量の多いこの川は容易に渡れなくなります。会津藩兵が橋を破壊する前に橋頭堡を確保する必要があったのです。川村純義が率いる薩摩四番隊2800が十六橋に到着すると、会津藩兵は「母成、敗れる」の報で、既に十六橋の破壊に着手していました。これに一斉に銃火を浴びせかけ、突撃しました。午後3時頃に十六橋を奪取しました。薩摩四番隊は、すぐに戸ノ口原へ前進しました。
戸ノ口原の戦い:「十六橋、敵に陥ちる」の報に若松城では、敵兵の若松城下侵入を絶対阻止すべく、「敢死隊」、「奇勝隊」ら700名を急遽派遣しました。十六橋の南岸、戸ノ口原一帯に防御線を布くと同時に、藩主・松平容保みずからも若松郊外の滝沢村へと本陣を進めました。このとき護衛していたのが白虎士中一番隊と二番隊の八十名(白虎隊)でした。しかし、戸ノ口原の戦況は危急で、二番隊の少年たちにも戸ノ口原への出動命令が下されました。戸ノ口原を守備していた会津藩兵は、川村純義が率いる薩摩四番隊の前に次々と後退していきました。そして、到着したばかりの白虎隊士中二番隊が、いきなり第一線に立たされる事になりました。彼らは日向内記を隊長として、その指揮のもとに滝沢峠を越えて戸ノ口原に到着しましたが、新政府軍の先鋒と対峙したのは夕暮れの事でした。暗雲が低迷し小雨が降っていました。彼らは急の出撃で食糧も携帯していませんでした。隊長の日向内記は食糧を調達してくると言って単身姿を消してしまいました。はじめは遠くに聞こえていた銃声も次第に近づいてきました。敵はすぐ目の前まで来ていたのでした。副隊長の篠田義三郎(17歳)は隊長に代わって指揮をとり、敵と応戦しましたが新政府軍の進撃により、これが初陣の白虎隊士らは次第に敵中に取り残されていきました。それでも必死に戦った白虎隊士でしたが、死傷者が続出して後退を余議なくされました。こうして生き残った20名の白虎隊士は、運命の飯盛山へと向かう事になるのです。

そのまた次の次に、秋田戊辰戦争:神宮寺の戦い、大館城攻城戦です。
神宮寺の戦い:新政府軍は副総督・沢為量が本営を神宮寺に置き、増援部隊が続々と到着しました。そして神宮寺岳・大平山を中心に雄物川対岸に防衛陣地を築いて、一大要塞地帯を形成しました。主力は、矢島藩兵一隊と久保田藩兵(秋田兵)でした。庄内藩軍は軍議を開き、神宮寺岳とその南の大平山を攻撃する事になりました。酒井吉之丞が率いる庄内軍二番大隊の二つの小隊(権蔵隊、惣四郎隊)が、大平山の南側の熊沢から稜線沿いに攻撃を開始しました。新政府軍は強固な胸壁陣地内より射撃して反撃を行い、庄内軍を撤退させました。庄内軍二番大隊は仙台藩軍と一関藩軍の応援を受け、「山狩り」と称して西側の楯岡より六右衛門の大砲隊の援護射撃を受けながら、再度攻め登りました。二番大隊の指揮官・酒井吉之丞も前線に出て指揮をしました。先鋒の伝十郎隊も頂上まで二町の距離の峰まで攻め上りますが、新政府軍は激しい防衛線を展開しました。結局、二番大隊の攻撃は失敗に終わりました。この間に、雄物川の船橋には兵糧が運びこまれ、増援部隊が続々と到着しました。そして、新政府軍は大規模な反撃を行う事になります。
大館城攻城戦:楢山佐渡が率いる盛岡藩は「十二所の戦い」で圧倒的な兵員と新式銃・大砲で攻め込み十二所・扇田地区を占領し、大館城に迫っていました。扇田村を占領された久保田藩は藩南部の庄内藩との戦闘での残存部隊を動員して、大館城を防衛しようとしました。大館城の北にあった弘前藩は、対馬鉄砲隊を大館に移動させ、さらに藩境に部隊を展開させていました。朝5時過ぎ、一発の大砲を合図にして戦闘が開始されました。久保田藩大館城東の根本源三郎隊と小林主鈴隊は長根山山麓まで盛岡藩兵を追撃しましたが、深追いしすぎて小林主鈴が伏兵の弾丸に倒れました。本道では根本順助隊を軸として攻勢をかけましたが、南部側の精鋭が挟撃の体制を取り、大勢を逆転されてしまいました。二階堂鴻之進隊は本道隊を助けようと池内村まで進出しましたが、高場から打ち込まれて孤立しました。弘前藩の応援部隊である対馬寛左衛門隊は二階堂隊を助けようとしましたが、これもかないませんでした。久保田藩側は次第に総崩れとなっていきました。大館城城代の佐竹大和は大館城に引いて籠城しようとしましたが、根本順助に退城するように諫められ、午前8時前に城に火をかけて撤退しました。盛岡藩兵の大館城一番乗りは午前9時前でした。佐竹大和は沼館街道を通り、荷上場村に本陣を置き、難所として名高い「きみまち阪」を防衛拠点としました。大館を占領した盛岡藩兵は徹底的な焦土戦を展開し、大館は猛火に包まれて29軒を残して町は焼失しました。楢山佐渡は正午頃に大館に入り、午後1時に大館の諸役を集めて布告を行いました。内容は「慶応」の年号を廃し、「延寿元年」と改め、新領主・南部利剛の思召により、今後3年間の租税を免じるというものでした。また、思召に逆く者があれば九族まで罪科に処するという内容も含まれていました。同じ内容は扇田村でも同時刻に布告されました。占領地の諸道には南部領地の標木がいたるところに立てられました。南部藩は軍議をひらき、弘前藩を仲介として久保田藩との和平条約を結び、戦争を終結させようとしました。目付役の照井賢蔵を密かに碇ヶ関に派遣し、以前「同じ奥羽の藩が干戈を交えるのは好ましくない。万一の場合その周旋の労はおしまない」との密使があった弘前藩家老・鳥谷森甚弥と連絡を取ろうとしました。しかし、鳥谷森は碇ヶ関に不在で和平交渉は失敗しました。

さらに次に、マリアナ海域漁船集団遭難事件です。カロリン諸島で発生した台風29号は、10月5日時点の予報ではアグリハン島の南方海上を通過するという見通しでした。当時、マリアナ近海では日本から出港した、かつお・まぐろ漁船40隻ほどが操業を行なっていました。台風29号はその前の28号と似た進路を取ると予報されたため、漁船群は同じようにアグリハン島の西側で台風通過を待つ予定でした。しかし台風29号は、10月6日には予想に反して進路を西寄りから北寄りに急転し、7日朝、避航中の7隻がいるアグリハン島付近を通過しました。しかも中心気圧が急激に下降して発達、6日3時には970mbでしたが7日3時には914mbとなり、最大風速70m/sに達しました。これにより、島の西に避航した漁船は、台風の中心が通過すると共に東から西に変わった風をまともに受けました。1隻はアグリハン島に座礁して船体が大破し、1隻は沈没、残る5隻は多くの漂流物が発見されたものの、船体は乗組員もろとも行方不明となりました。その後の空と海からの大規模な捜索により、乗組員3人が救助されましたが、1人が遺体で発見された他、208人は行方不明となったままとなりました。日本における漁船の遭難事故としては、1954年5月の「メイストーム」による北海道近海でのサケ・マス漁船集団遭難に次いで大きなものとなりました。

最後に、黒い霧事件です。報知新聞の西鉄ライオンズ担当記者が、西鉄野手のカール・ボレスから「チームメイトにわざと失策する選手がいる」という話を聞き、調査を開始しました。その結果、報知新聞が八百長の疑惑を抱きました。報知新聞は読売新聞の社会部と組んでさらに調査を開始しました。その結果10月7日、西鉄投手の永易将之が公式戦で暴力団関係者にわざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を持ちかけられ、それを実施していた事が判明しました。西鉄は永易将之をシーズンオフを以て解雇する事を決定しました。 コミッショナー委員会が永易将之に対し、「永久追放」という日本野球界初の処分を下しました。その後、永易将之と週刊ポスト記者による独占インタビューの録音テープが、フジテレビの深夜番組「テレビナイトショー」で放送されました。その中で永易将之は「他にも敗退行為(八百長)をした選手がいる」と暴露し、西鉄の6人の選手(投手の池永正明・与田順欣・益田昭雄、捕手の村上公康、内野手の船田和英・基満男)を公表しました。そして、オートレースのレース中の違反で送検された選手が「プロ野球選手がオートレースの八百長に参加した疑いがある」と自供しました。これにより、前年に中日ドラゴンズを引退した元西鉄投手の田中勉、元大洋ホエールズ投手の高山勲、元・暴力団森岡組準組員の藤縄洋孝が逮捕され、さらに中日のエース・小川健太郎が逮捕されました。さらに別の選手の名が挙がり、次々と疑惑が浮上しました。結局、最終的に以下の処分が下されました。
永易将之:永久追放、池永正明:永久追放、与田順欣:永久追放、益田昭雄:永久追放、小川健太郎:永久追放、森安敏明:永久追放、村上公康:1年間の野球活動禁止、船田和英:1年間の野球活動禁止、葛城隆雄:3ヶ月の出場停止、桑田武:3ヶ月の出場停止、成田文男:1ヶ月の謹慎処分、坂井勝二:無期限出場停止と減給処分、江夏豊:戒告処分、三浦清弘:戒告処分、田中調:厳重戒告処分、基満男:厳重注意処分、高山勲:自殺、田中勉:事実上の永久追放処分、佐藤公博:事実上の永久追放処分
永久追放者を出した西鉄と中日は戦力が低下しました。特に西鉄ライオンズは1970年から72年まで3年連続最下位となった上、観客動員も激減して球団経営が完全に行き詰まり、1972年シーズン終了後に身売りされる事になりました。そして同時にパ・リーグの人気も下降する事になるのでした。

今日の誕生日:ハインリヒ・ヒムラー、室田日出男、坂田利夫、安田富男、桐野夏生、ウラジーミル・プーチン、ティコ・トーレス(ボン・ジョヴィ)、氷室京介(元BOØWY)、叶恭子、青田典子(元C.C.ガールズ)、阿部渉、森岡隆三、森慎太郎(どぶろっく)、浮雲「長岡亮介」(元東京事変)、生田斗真、ふるっぺ(ケラケラ)、リーチマイケル、チョン・ニコル(元KARA)、尾関梨香(元櫻坂46)、野中美希(モーニング娘。)

今日の記念日:盗難防止の日、ミステリー記念日、キットカットのオトナの日、トナーの日、大人のダイエットの日、シャツの日

今日の「今日訓」:本日は「とう(10)なん(7)」の語呂合わせで「盗難防止の日」、1849年10月7日に推理小説の先駆者といわれるエドガー・アラン・ポーの命日で「ミステリー記念日」、1877年に横浜で国産のシャツが製造されるようになった事で「シャツの日」、「オト(10)ナ(7)」の語呂合わせで「キットカットのオトナの日」、「大人のダイエットの日」、「ト(10)ナー(7)」の語呂合わせで「トナーの日」となりました。
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