大内惟義
知略63武力62優雅44勇名20菩提53加護78無常30弓術59
平賀義信の子。母が比企尼の三女ではないみたいなので、平賀朝雅からみれば異腹兄。
頼朝の準一門筆頭だった父・義信の威光もあってか、緊要地であった伊賀の守護に任ぜられ、三日平氏の乱(平安時代)の際には鎮圧に当たる。その後も畿内で勢力を伸ばす。
その後、伊賀守護は山内首藤経俊に代えられていたが、経俊は三日平氏の乱(鎌倉時代)で失脚し、代わって異腹弟の平賀朝雅が経俊の持っていた伊勢・伊賀の守護職に就任。さらにその朝雅が牧氏の乱で誅殺されると、今度は惟義が伊勢・伊賀の守護職に就任。越前・摂津・丹波・美濃と合わせて6ヵ国の守護となる。
根拠地が畿内であるため、幕府方とも朝廷方ともつかない微妙な立場のまま、承久の乱の直前に死去。6カ国守護を継承した息子・惟信は、承久の乱で朝廷側に付き敗北し、そのまま行方不明。10年後、生き延びて僧侶になっているのが発見されたが、今さら危険性もないだろうということで西国流刑で済まされた。東国ではないあたりが有情。
惟義が大内を名乗るようになったのは、伊賀にある九条家(当時は初代の兼実)の荘園・大内荘の地頭になったためで、渡来王族の子孫を称する周防の大内(多々良姓大内)氏とは無関係。
多々良姓大内は、周防の大内村が由来。平安末期には勢力を伸ばしていて、範頼の西国遠征に協力するなどしているが、なぜか『源平合戦』には未登場(うろ覚えではあるが、『元朝秘史』の日本編には登場していたはず)。
『源平合戦』に多々良明宗という武士は登場するが、これは多々良浜を由来とする三浦一族の一人で、三浦義村の従兄弟。
この多々良浜は、初代ゴジラが日本初上陸したとされる三浦半島の海岸で、西国落ちした足利尊氏の反攻のキッカケとなった筑前の戦場とは別。
いや、本当にややこしいなと。
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