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2022年08月26日00:07

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08月26日の日記

今日の出来事:842年−承和の変、1184年−源平合戦:三日平氏の乱、1862年−井上佐市郎暗殺、1869年−伊牟田尚平梟首、1993年−レインボーブリッジが開通

今日は、承和の変です。嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位しました。ついで皇位は、嵯峨上皇の皇子の仁明天皇に、仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女・正子内親王)が立てられました。その後、嵯峨上皇による実質支配が30年近く続いて政治は安定し、皇位継承に関する紛争は起こりませんでした。淳和上皇が崩御し、嵯峨上皇も重い病に伏しました。これに危機感を持ったのが皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人・伴健岑とその盟友但馬権守・橘逸勢です。彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移す事を画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しました。阿保親王はこれに与せずに、橘逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に伴健岑らの策謀を密書にて上告しました。皇太后は事の重大さに驚き藤原北家の中納言・藤原良房に相談しました。藤原良房は仁明天皇へと上告しました。嵯峨上皇が崩御し、その2日後に仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされるものを逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒にさせました。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉りましたが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留されました。しかし、政局は大きく変わり、左近衛少将・藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲しました。出仕していた大納言・藤原愛発、中納言・藤原吉野、参議・文室秋津を捕らえました。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃しました。藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となりました。また、春澄善縄ら恒貞親王に仕える東宮職・春宮坊の役人が多数処分を受けました。事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられました(後の文徳天皇)。「承和の変」は藤原氏による最初の他氏排斥事件で、藤原良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させました。「承和の変」の最大の意義は、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨−仁明−文徳の直系王統を成立させた事にあります。藤原良房は、この事件を機にその権威を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政・太政大臣まで昇り、藤原氏繁栄の基礎を築きました。

次に、源平合戦:三日平氏の乱です。1183年の「平氏都落ち」後も、その本拠であった伊賀・伊勢両国には平氏家人が播居しておりました。1184年に大内惟義が伊賀の守護に補任され、武蔵国の御家人・大井実春が平家与党討伐のため伊勢に派遣されました。8月14日午後8時頃に、平家継を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた大内惟義の郎従が多数殺害されました。時を同じくして伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こしました。26日には近江国大原荘で鎌倉軍と平氏残党が合戦となりました。平家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られました。平信兼・藤原忠清は行方をくらましました。反乱はほぼ鎮圧されましたが、源氏方も老将・佐々木秀義が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大きな損害を受けました。事態を重く見た源頼朝は、蜂起した平氏勢力の中の最有力人物である平信兼の捜索を弟・義経に命じました。平信兼の3人の子息、兼衡・信衡・兼時が京の義経邸に呼び出され、斬殺、自害へと追い込まれました。義経はその2日後に平信兼討伐に出撃し、伊勢国滝野の城に立て籠もる100騎ほどの平信兼軍が、激戦の末に討ち取られました。この平信兼追討の最中に、源義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられました。

その次に、井上佐市郎暗殺です。井上佐市郎は土佐藩の下横目(下級警官)で、「吉田東洋暗殺事件」を捜査していました。これを危険と見た「土佐勤王党」では、まず井上佐市郎を料亭「大与」に呼び出して泥酔させました。そして、心斎橋上にて岡田以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で身柄拘束のうえ絞殺し、遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てました。後の三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、この事件の際に井上佐市郎と同行していましたが難を逃れました。岡田以蔵らが捕縛された際、この事件についての取調べもありました。岡田以蔵・久松喜代馬・岡本八之助は、斬首となりました(土佐勤王党の獄)。森田金三郎だけが黙秘を貫いたため、生き残って戊辰戦争に参戦しています。

その次の次に、伊牟田尚平梟首です。伊牟田尚平は薩摩藩士ですが、1860年に脱藩して江戸に出ました。そして、アメリカ公使館員・ヒュースケン暗殺など各地で外国人を殺傷しました。このため、薩摩藩の追捕を受けて捕らえられ、鬼界ヶ島に流罪になりました。1864年に罪を許され上洛しました。1867年に、西郷隆盛の指示により江戸へ出ました。薩摩藩邸に浪士を集めて益満休之助と市中の攪乱工作を指揮しました。江戸城二の丸を放火するなどの破壊工作を行い、江戸幕府を挑発しました。これは、幕府が「大政奉還」した事で武力討伐の理由がなくなったため、薩摩藩などが大義名分を求めて幕府を挑発して挙兵させようとしたためです。そして、この挑発に乗った幕府の過激派が薩摩藩邸を焼き討ちして「薩摩藩邸焼討事件」となり、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発して「戊辰戦争」の開戦となりました。その後、藩船「翔鳳丸」で脱走して上洛しましたが、部下の辻斬りなど様々な罪を着せられました。1869年8月26日、苗字帯刀取り上げの上、梟首となりました。その首級は、三条粟田口に晒されました。享年37でした。薩摩藩の「明治維新」で、表の立役者は西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀ですが、裏の立役者は伊牟田尚平でした。

最後に、レインボーブリッジが開通です。レインボーブリッジは、東京都港区の芝浦とお台場を結ぶ吊り橋です。橋長798mです。「レインボーブリッジ」の名前は一般公募により決められたものです。正式名称は「首都高速11号台場線・東京港連絡橋(臨港道路)」です。混雑の激しい箱崎JCT・両国JCTを通る「首都高速6号向島線」や「首都高速7号小松川線」、「首都高速9号深川線」をはじめ、交通量が多く大気汚染などの公害問題が発生している地域を通る「首都高速1号羽田線」や「首都高速神奈川1号横羽線」を避けて、埋立地などの臨海地域を通る「首都高速湾岸線」から「首都高速都心環状線」に抜ける事ができるので、首都高速道路の渋滞緩和や周辺地域の環境改善に大きく貢献しました。海とビル群の景色や夜景などの眺望が良好な事から週末のドライブコースとしての人気があり、それが要因で渋滞となる事があります。

今日の誕生日:マザー・テレサ、下條正巳、坂井三郎、安藤三男、武村正義、内海賢二、宮川俊二、いがらしゆみこ、つちやかおり、石井明美、佐々岡真司、国武万里、中川敬輔(Mr.Children)、中島知子(元オセロ)、浅田好未(元パイレーツ)、マコーレー・カルキン、今江敏晃、大城美和、重岡大毅(ジャニーズWEST)、パーマ大佐、麻宮サキ

今日の記念日:ナミビアの日、人権宣言記念日、ユースホステルの日、パパフロの日、パワプロの日、オリジナルジグソーパズルの日

今日の「今日訓」:本日は、1958年に「南西アフリカ人民機構 (SWAPO)」が結成され、1966年のこの日にナミビア解放闘争が始まりました。1990年3月に独立したアフリカ南西部の国「ナミビア」の自立を援助する日で「ナミビアの日」、フランスの憲法制定国民議会が人間と市民の権利の宣言(人権宣言)を採択した事で「人権宣言記念日」、小学校教師であったリヒャルト・シルマンは、1909年のこの日に生徒たちと遠足に出掛け、突然の大雨のために小学校で雨宿りをしました。しかし、夜になっても雨は止まず、一夜を明かす事となりました。これがユースホステルを創設するきっかけとなった事で「ユースホステルの日」、「パパ(8)フ(2)ロ(6)」の語呂合わせでパパとお風呂に入る「パパフロの日」、「パワ(8)プロ(26)とパワ(8)フル(26)」の語呂合わせで「パワプロの日」、「パ(8)ズ(2)ル(6)」の語呂合わせで「オリジナルジグソーパズルの日」なりました。
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