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2022年08月23日00:07

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08月23日の日記

今日の出来事:1578年−浪岡城の戦い、1640年−お下の乱、1856年−安政大地震:安政八戸沖地震、1878年−竹橋事件、東京・竹橋で近衛兵が反乱、1914年−第一次世界大戦:日本(大日本帝国)がドイツ帝国に宣戦布告、1943年−第四次ハリコフ攻防戦、1945年−ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令(シベリア抑留)

今日は、浪岡城の戦いです。1571年、大浦為信(後の津軽為信)は堀越城から突如出撃して石川城を攻略し、南部宗家・三戸南部家当主・晴政の叔父である石川高信を自害に追い込みました。22歳であった大浦為信の妻・阿保良は兵卒達に自ら強飯を炊き出して手拭に包み、その一人一人に与えました。兵たちは城主夫人からの心配りに感激し、勇んで出撃しました。しかし、その兵には大浦為信が近隣の賭場や盛り場で雇った「ならず者」83人が混じっていました。この「ならず者」たちが、石川城下の婦女子を襲って乱暴の限りを尽くしました。このため、城下で妻子の凄惨な有様を見た石川城の城兵たちは合戦に集中できませんでした。この時、南部晴政は石川高信の実子で長女の婿となり、養嗣子であった石川信直と争っていました。三戸南部家と石川家の内部抗争を好機に、大浦為信は周りの豪族を次々に攻め始めました。1574年に大光寺城の城代・滝本重行を攻めて敗退しましたが、翌年に攻め落としました。そして、1578年に黒石境松に砦を構築して、北畠氏を牽制しました。8月23日、浪岡城に無類の徒輩を潜入させて放火するなど、城下を混乱させました。こうして大浦為信は主力の千数百の兵を率いて、北畠方の武将の内応を受けながら、十川口から攻め寄せました。本郷口には大浦為信の腹心・乳井大隅、浅瀬石城主・千徳政氏ら700余、赤茶口からは森岡金吾ら600余という布陣で、三方から城に猛攻を加えました。北畠方で武勇が鳴り響いていた北畠顕範が討ち取られると、有力家臣・吉町氏をはじめ内応が相次ぎ、城に放火する者まで現れました。こうして、大浦軍の攪乱と攻撃により浪岡城は落城しました。大浦為信は浪岡御所・北畠顕村(北畠親房の後裔)を自害させ、浪岡北畠氏は滅亡しました。これにより、一世紀以上もの間、繁栄した名族・北畠氏は滅亡し、南部氏の影響力が低下しました。

次に、お下の乱です。お下の乱は、別名「相良清兵衛事件」、又は「田代半兵衛の反」とも呼ばれています。犬童頼兄は、肥後・人吉藩の初代藩主・相良頼房に仕えました。家老・深水長智は犬童頼兄の才覚を認めて、死去した嫡子に代わって後継にしようとしました。しかし、竹下監物ら深水一族から反対された為、相良頼房の許しを得て甥・深水頼蔵を奉行とし、犬童頼兄を補佐役にするように主張しました。相良頼房は、深水頼蔵よりも犬童頼兄を信頼していた為、2人を同格の奉行としました。しかし、これが原因で両者は不仲となるのです。犬童頼兄は、相良頼房の信頼を得て家老となり、1592年に相良姓を与えられて、相良兵部少輔と名乗りました。1593年、竹下監物と嫡子・知行が、「太閤検地」によって所領を召し上げられました。竹下監物は犬童頼兄の計略と疑った為、深水一族600人が湯前城に籠城しました。これは、相良頼房の命で竹下監物ら数名が切腹して沈静化しました。しかし、この犬童氏と深水氏の対立は明治時代を迎えるまで続く人吉藩の藩内抗争へと繋がりました。朝鮮出兵から帰国した深水頼蔵は、肥後の加藤清正を頼りました。実父・織部や他の深水一族も相次いで出奔した為、犬童頼兄は家臣の流出を止めるようと人を使わして捕えました。こうして、73名の深水一党が斬られました。これに対して加藤清正が、豊臣秀吉の「惣無事令」が禁じる私闘であると訴え出ました。しかし、犬童頼兄は巧みな弁舌で奉行・石田三成を納得させた為、お咎め無しとなりました。1600年の「関ヶ原の戦い」で西軍に付いた相良氏は、「伏見城の戦い」などで率先して戦いました。しかし、大垣城で西軍本隊が大敗した事を知ると、徳川家臣・井伊直政と内通していた犬童頼兄は、相良頼房に東軍に寝返るように進言しました。そして、同じく内通していた秋月種長、高橋元種兄弟と共に、熊谷直盛、垣見一直、木村由信・豊統父子を城中で謀殺しました。その後、大垣城守将・福原長堯を降伏しました。こうして、相良氏の存続を成し遂げました。これらの功績により、犬童頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられました。徳川家の時代になると犬童頼兄は、「関ヶ原の戦い」で恩がある、同じ兵部少輔の井伊直政を憚って「清兵衛尉」と改めました。1640年に肥後・人吉藩の第2代藩主・相良頼寛は、相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)の専横を幕臣・阿倍正之と渡辺図書助宗に訴えました。阿部正之が大老・土井利勝に報告した為、犬童頼兄は江戸へ召還されて小田原藩仮預かりとなりました。この間に江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされました。内容は、犬童頼兄の養子・田代半兵衛頼昌を引き続き藩士として取り立てる事でした。しかし、田代半兵衛は既に犬童頼兄の処分を知っていました。「お下屋敷」と呼ばれる犬童頼兄の屋敷に呼ばれた神瀬外記と深水惣左衛門は、田代半兵衛らに襲われました。深水惣左衛門は無事に逃げましたが、神瀬外記は捕えられました。そして、江戸での状況と藩主の考えを聞きだす為、全ての指を切られる等の拷問を行って殺害してしまいました。覚悟を決めた田代半兵衛ら一族は、お下屋敷に立て籠もりました。藩兵がこれを取り囲み、戦闘となりました。そして、1640年8月23日、犬童一族全員が討死、又は自害によって121名が死亡しました。これが「お下の乱」と呼ばれる事件です。犬童頼兄は幕府の裁定により、津軽藩預かりとなり、弘前で1655年に88歳で亡くなりました。

その次に、安政大地震:安政八戸沖地震です。安政八戸沖地震は、1856年8月23日12時頃に八戸沖で発生した大地震です。八戸を中心に東北地方北部太平洋側から北海道にかけて強震に見舞われました。この地震で八戸城が所々破損し、湊村は海嘯によって浸水して流家がありました。青森fr酒蔵など土蔵が潰れ、襟裳岬付近では山崩れが発生しました。北海道太平洋側から三陸海岸にかけて津波が発生しました。浦河に停泊していた五百石船2隻が転覆し、南部藩領では流家93、潰家100、破損238軒、八戸藩領では侍屋敷破損数軒、百姓家潰189、半潰53、流家33、船流失93隻、田畑の損1700石余、死者5人と記録されています。

その次の次に、竹橋事件です。竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件です。兵役制度や「西南戦争」の行賞についての不平から反乱を起こしました。大隈重信邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためです。橋西詰にあった近衛砲兵大隊・竹橋部隊の兵卒、三添卯之助、小島萬助等の約260名が、週番士官・深沢巳吉大尉らを殺害しました。大蔵卿・大隈重信公邸に砲撃を加え、周辺の住居数軒に放火、さらに天皇のいる赤坂仮皇居に進軍し、集まる参議を捕らえようとしました。しかし、近衛歩兵隊、鎮台兵により鎮定されました。騒乱に加わった者のうち三添卯之助ら53名は銃殺刑に処せられました。後に日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、憲兵創設のきっかけとなりました。また、近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなりました。以下が竹橋事件で死刑となった者です。近衛砲兵大隊兵士:浅見綾次郎、伊藤丈三郎、今井政十郎、岩本久蔵、浦塚城次郎、小川弥蔵、門井藤七、金井惣太郎、菊池作次郎、木島次三郎、木村円解、久保田善作、小島万作、是永虎市、近藤祖舟、桜井鶴次、笹井常七、佐藤種五郎、沢本久米吉、新熊安治郎、新家仲吉、高橋小三郎、高橋竹四郎、田島盛介、谷新四郎、辻亀吉、堤熊吉、中沢章治、長島竹四郎、永合竹次郎、野中与吉、羽成常助、馬場鉄市、広瀬喜市、藤橋吉三郎、布施仙吉、松居善助、松宮弁次郎、松本久三郎、宮崎関四郎、水上丈平、見山今朝治、本橋兼次郎、山中繁蔵、山部七蔵、山本丈作、吉田定吉、東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士:真田兼松、鈴木直次、高見沢卯助、宮崎忠次、横山昇、近衛歩兵第二連隊兵士:三添卯之助、東京鎮台予備砲兵第一大隊下士:平山荊、梁田正直、自殺:近衛砲兵大隊兵士:大久保忠八

そのまた次に、第一次世界大戦:日本(大日本帝国)がドイツ帝国に宣戦布告です。日本は「日英同盟」に基づいて、1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告しました。連合国の一員として参戦し、帝国陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島を攻略しました。「英・仏・露」からは、主戦場であるヨーロッパの戦線への帝国陸軍の派遣要請がありましたが拒絶しました。帝国海軍は連合国からの再三の要請を受け、巡洋艦「明石」及び「樺型」駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に「桃型」駆逐艦などを増派し、合計18隻を派遣しました。インド洋と地中海でイギリスやフランスなどが持つ世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行いました。アレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆す事に大きく貢献しましたが、多くの犠牲者を出しました。また、「ロシア革命」後に他の大国とともに「シベリア出兵」を実施しました。戦後、大日本帝国も「連合国の5大国」の一国として「パリ講和会議」に参加し、パラオやマーシャル諸島などの、それまでドイツが支配下に置いていた赤道以北の太平洋上の南洋群島を、委任統治領として譲り受けました。そして、「国際連盟」の常任理事国となりました。陸海軍とも国際法を遵守し、ドイツ軍捕虜を丁重に扱いました。青島で捕獲した捕虜約4700名は徳島県板東など12か所の収容所に送られました。板東俘虜収容所でドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理、バームクーヘンやビールをはじめ、サッカーなど数多くのドイツ文化が日本人に伝えられました。ベートーベンの「交響曲第9番」はこのときドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられました。

そのまた次の次に、第四次ハリコフ攻防戦です。「クルスクの戦い」で、ソ連の追撃戦の際に小競り合いがありました。そして、1943年7月末から、ドイツ軍はソ連軍による反撃にあいました。しかし、ソ連軍はドイツ軍の予測していた兵力を大きく上回った攻勢で反攻に臨んでいました。また、ソ連軍は一旦、中央軍集団への攻撃をブリャンスクで停止させ、南方軍集団の殲滅を行うため、ハリコフに向かいました。これに対してドイツ軍は、「クルスクの戦い」で疲弊しかけていた戦車部隊を集結させて、ハリコフで敵軍を迎撃するという作戦を敢行しました。こうしてドイツ軍は間一髪、勝利を手に入れました。しかし、消耗した現地のドイツ軍部隊には、既に防衛できるだけの戦力が残っておらず、これ以降のハリコフはソ連の手に戻る事になりました。

最後に、ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令(シベリア抑留)です。「第二次世界大戦」末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して「日ソ中立条約」を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻しました(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告しました。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明しましたが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領しました。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏しました。これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの「ヤルタ会談」に基づくものでした。当時非公開であった「ヤルタ秘密協定」では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順の租借権の回復および大連港や東支鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていました。日本が「ポツダム宣言」を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定しました。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官・山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わりました。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見ましたが、ソ連軍がその通りに行う事はありませんでした。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出ました。また捕虜の扱いについては一切言及されませんでした。スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していましたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下しました。占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除されました。この際、多数の死傷者が出ました。また、日本人捕虜は内地への帰還を望みましたが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行しました。日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去し、ソ連に搬出するための労働に使役され、後にソ連領内に移送されました。9月5日の山田乙三ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められました。彼らは日本に帰れる事を期待していましたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込みました。行き先は告げられませんでしたが、日没の方向から西へ向かっている事が貨車の中からでも分かり、絶望した事が伝えられています。抑留された捕虜の総数は、65万人〜70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説もあります。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されています。一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着していますが、実際には現在で言うモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方などのヨーロッパ−ロシアなどにも送り込まれていました。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存しています。彼らの墓地も各地に存在しますが、現存するものは少なくなっています。「シベリア抑留」では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出しました。1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われました。最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓って念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者達もいました。しかし、さまざまな事情(ソ連当局の勧誘を受けて民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国せずにソ連に残留して帰化した例、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した例もあります。日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されています。ソ連側(現ロシア政府)は、これまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡しています。従来、死者は約6万人とされてきましたが、実数については諸説あります。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時にソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいましたが、このうち約107万人が終戦後にシベリアやソ連各地に送られ、強制労働させられたと見られています。確認済みの死者は25万4000人、行方不明・推定死亡者は9万3000名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したと言われています。

今日の誕生日:ルイ16世、森有礼、三好達治、別当薫、伊藤一長、岡江久美子、益岡徹、山田隆夫(元ずうとるび)、高橋ひとみ、山咲トオル、佐田真由美、AKIRA(EXILE、EXILE THE SECOND)、DJ LOVE(SEKAI NO OWARI)、崎本大海、川崎希(元AKB48)、草薙航基(宮下草薙)、中井りか(NGT48)、東村芽依(日向坂46)、悲鳴嶼行冥

今日の記念日:処暑、奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー、白虎隊の日、油の日、湖池屋ポテトチップスの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「処暑」です。「暑さが峠を越えて後退し始めるころ」です。1791年 、フランス植民地のサン=ドマング(現・ハイチ)で、大西洋奴隷貿易廃止の重要なきっかけとなった「ハイチ革命」が始まった事を記念して「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」、明治元年(旧暦)8月23日、会津藩の白虎隊・士中二番隊員20名が飯盛山で自刃した事で「白虎隊の日」、離宮八幡宮は「長木」というてこを応用した油を搾る道具を発明、搾油の始まりとされて「日本の製油発祥の地」となりました。859年8月23日、清和天皇の勅命により九州にあった宇佐八幡宮が京都の大山崎に遷宮された事から「油の日」、1962年8月23日、オリジナルのポテトチップス「コイケヤポテトチップスのり塩」を発売した事で「湖池屋ポテトチップスの日」となりました。
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