mixiユーザー(id:48382454)

2022年08月21日00:28

7 view

08月21日の日記

今日の出来事:1192年−源頼朝が征夷大将軍に就任、1575年−土佐統一:四万十川の戦い、1864年−禁門の変:六角牢の獄、1868年−秋田戊辰戦争:久保田藩(秋田藩)が仙台藩の使者を斬り、奥羽越列藩同盟を離脱

今日は、源頼朝が征夷大将軍に就任です。「奥州合戦」の終了で長い間、続いていた内乱が終結を迎えました。朝廷より「奥州征伐」を称える書状が下り、任官を打診されました。源頼朝は上洛するため鎌倉を発し、「平治の乱」で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅の跡に建てた新邸に入りました。後白河法皇に拝謁し、会談しました。ここで源義経と源行家の捜索・逮捕の目的で保持していた「日本国総追補使・総地頭」の地位を、「より一般的な治安警察権の行使のため」に改め、永久的なものに切り替わった「建久新制」が発せられました。しかし、東国の支配者の象徴として源頼朝が希望していた「征夷大将軍」に任官されませんでした。代わりに「大納言」への任官を求められましたが、源頼朝は辞退して後鳥羽天皇への拝謁を終えると六波羅に戻りました。しかし、六波羅に「今に於いては異儀有るべからず」と記した権大納言任官の院宣が届きました。再び辞退の書を返しましたが、容れられずに除目は行われました。さらに武官の最高職である「近衛大将」への任官も打診されました。源頼朝は、やはり辞退しましたが「右近衛大将」へと任ぜられました。源頼朝は両官を辞し、勲功の有った御家人を任官させました。「権大納言就任」が決まった源頼朝は、九条兼実と面会して語りあい、次のように述べています。「今の世は法皇が思うままに政治をとり、天皇とても皇太子と変わりないありさま。さいわいあなたもまだ若くて先は長い。私にも運があれば、法皇御万歳(崩御)の後にはいつか必ず天下の政を正しくする日が来るでしょう。」そして、逆臣として討たれた父の汚名を雪ぐ意味で一旦は「朝大将軍」(国の大将軍)を受けた方が良いと判断し、鎌倉へ戻るため京を発しました。その後、1192年に後白河法皇が崩御すると、源頼朝は「征夷大将軍」へと任ぜられました。この将軍就任によって、鎌倉幕府が開かれました。これが、「い(1)い(1)く(9)に(2)つくろう鎌倉幕府」です。

次に、土佐統一:四万十川の戦いです。四万十川の戦いは、土佐・長宗我部氏と土佐・一条氏の戦いです。この合戦で長宗我部元親により、土佐が統一されました。「渡川の戦い」とも呼ばれています。土佐西部の幡多地方は、藤原北家・五摂家の流れを汲む名門の一条氏が国司として下向し、その高貴な家筋によって周囲の豪族を従えて勢力を誇っていました。しかし、一条兼定の代になると毛利氏の干渉による河野通直との戦いや長宗我部氏の台頭によって領域を脅かされ、国内での一条氏の影響力は失われていました。一条兼定は、土佐東部の安芸国虎と結んで長宗我部元親に対抗しましたが、「八流の戦い」で安芸国虎が滅ぼされると四万十川以東の豪族は次々と長宗我部氏に降り、一条氏の影響地域は四万十川下流域以西に押し込められました。次第に遊興に耽って国政を省みなくなった一条兼定は、主君を諌めようとした重臣・土居宗珊を無実の罪で手討ちにしました。家臣の信望も失った一条兼定はは、家臣団のクーデターによって土佐を追放され、妻の実家・大友氏を頼って豊後へと逃れました。こうして、幡多地方は長宗我部氏の統治となりました。翌1575年、旧領回復を目指して九州から戻った一条兼定は伊予・宇和島で挙兵し、旧臣を従えて本拠地の土佐中村に復帰しました。すると一条家への義を感じる土豪が次々に帰参し、その兵力は3500に達しました。こうして、一条氏と長宗我部氏との軍事的衝突は避けられない情勢となりました。四万十川の河口部西岸の栗本城に入った一条兼定は、四万十川に杭を打ち込ませ、地形を利用した迎撃の構えを取りました。一条方が四万十川以東の集落や中村城の城下町を襲って挑発すると、長宗我部元親は3日後に7300の軍勢を率いて四万十川東岸に現れました。これは、半農半兵の「一領具足」制度のなせる技でした。両軍は、四万十川を挟んで東西に対陣しました。まず、長宗我部方の第一陣が正面から渡河を試みました。数で劣る一条方は、後退しながら弓矢や鉄砲を浴びせて応戦しました。ここで、長宗我部方の第二陣に控えていた福留儀重が率いる手勢が北へ向かい、障壁となる杭がない上流から迂回する動きを見せました。二方面からの挟撃を恐れた一条方は、隊を分けて上流に向かった福留隊を追いました。この隙を逃さずに、長宗我部元親は残った全軍に一斉渡河を命じました。少ない兵力をさらに分散させ、寄せ集めで指揮系統も乱れていた一条方に、正面から倍以上の兵力で迫る長宗我部軍を迎え撃つだけの力はなく、総崩れとなりました。追撃を受けた一条方は、数百名の死者を出して敗走しました。長宗我部方には被害はなく、土佐の覇権が懸った「四万十川の戦い」は、わずか数刻で決着しました。この戦いで一条兼定は辛うじて逃げ延びましたが、瀬戸内での隠遁生活の末に10年後に43歳で死去しました。こうして、土佐を完全に掌握した長宗我部元親は、各地を転戦して覇を唱え、四国のほぼ全域に勢力を拡大する事になります。

その次に、禁門の変:六角牢の獄です。「禁門の変」にともない、長州藩邸付近と堺町御門付近から出火しました。この火災は「どんどん焼け」と呼ばれました。火の手は北東の風により延焼し、現在の京都御苑の西側〜南東方向の広い範囲に広がり、約2万7000世帯を焼失しました。物的被害は焼失町数811町(全町数1459)、焼失戸数49414軒(全戸数27517軒)、人的被害は負傷者744名、死者340名を記録しましたが、二条城や幕府関係の施設に被害はありませんでした。「禁門の変」の戦闘自体による被害は、長州藩軍281名、会津薩摩藩軍101名でした。この時、六角獄舎にも火が及ぶ恐れが生じました。管理を任されていた京都町奉行官吏は過激な志士達の脱走を恐れて、判決が定まっていなかった「生野の変」の首謀者・平野国臣など囚人39人を斬罪に処しました。
以下は「六角牢の獄」で処刑された人です。
平野国臣:福岡藩士。「生野の変」の首謀者。
古高俊太郎:膳所藩郷士。「池田屋事件」の発端者。
樋口良好:肥後藩士。尊攘運動に加わって捕えられる。
乾十郎:大和国五条出身の儒者・医者。「天誅組の乱」に参加。
水郡善之祐:河内国富田林の庄屋。「天誅組河内勢」の首領。
長野一郎:河内国南河内郡長野の医者。「天誅組河内勢」に参加。
田中楠之助:河内国大県郡竪下村の庄屋。「天誅組河内勢」に参加。
原田一作:備中上房郡松山の商人。「天誅組の乱」に参加。
吉田重蔵:福岡藩士。「天誅組の乱」に参加。
中倉才次郎:土佐藩士。「天誅組の乱」に参加。
古東領左衛門:淡路の大地主。「天誅組の乱」に参加。
幸助:紀伊富貴村の農民。「天誅組の乱」に参加。
幾助:紀伊名倉村の大工。「天誅組の乱」に参加。
森本伝兵衛:河内国甘山村の人。「天誅組河内勢」に参加。
辻幾之助:京都の人。「天誅組の乱」に参加。
保母健:島原藩士。「天誅組の乱」に参加。
石川一:因幡鹿奴藩士。「足利三代木像梟首事件」を起こし、その後に「天誅組の乱」に参加。
木村楠馬:十津川郷士。「天誅組の乱」に参加。
船田彦次郎:鳥取新田藩士。「天誅組の乱」に参加。
横田友次郎:鳥取藩士田村貞彦の従僕。「生野の変」に参加。
大村辰之助:鳥取人。「生野の変」に参加。
本多小太郎:膳所藩士。「生野の変」に参加。
片山九市:亀山藩郷士。「生野の変」に参加。
今井三郎右衛門:豊岡藩士。「池田屋事件」で新選組により捕縛。
佐藤市郎:長州藩士。「池田屋事件」で会津藩により捕縛。
吉田五郎:越前敦賀築山の郷士で新徴組隊士。「生野の変」に参加。
山田虎之助:長州藩士。「池田屋事件」で会津藩により捕縛。
内山太郎右衛門:長州藩士。「池田屋事件」で幕吏により捕縛。
河村丹斎:小郡の医師。「貴真膏」元祖。京都で売薬をし国事に奔走。幕吏に捕えられる。
村上俊平:上野佐波郡境町の人。水戸浪士と横浜を夜襲しようし、幕吏に捕らえらる。
南雲平馬:上野利根郡沼田村の郷士。「池田屋事件」で捕えられる。
河村季興:三条西家諸大夫。長州藩兵の上京に先立ち、武家伝奏・野宮定功を通じて冤罪を嘆訴するため、三条西季知と三条実美の命を受け、丹羽正雄と京都に上る途中、伏見で幕吏に捕らえられる。
吉川菊治:三条西家諸大夫・河村季興の家来。河村に従い長州から上京、伏見で捕えられる。
横田清兵衛:京都の書籍商。「八月十八日の政変」による「七卿落ち」の際、幕府の嫌疑を受け捕えられる。
長尾郁三郎:京都の商人。「足利三代木像梟首事件」を起こし、幕吏に捕えられる。
丹羽出雲守正雄:三条家家臣。三条実美の命を受けて冤罪を朝廷に哀訴しようと河村季興と共に上京したところ、伏見で幕吏に捕縛される。
川勝寛治:三条家家士。三条実美の密命を同志に伝えるため京都に潜行し、幕吏に捕えられる。
佐竹織江:彦山修験の奉行職。「彦山義挙」で小倉藩兵に捕らえられる。
藤山衛門:彦山修験の奉行職。「彦山義挙」で小倉藩兵に捕らえられる。

最後に、秋田戊辰戦争:久保田藩(秋田藩)が仙台藩の使者を斬り、奥羽越列藩同盟を離脱です。新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は、庄内藩を討つため沢為量・大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させました。しかし、本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒しました。その後、「奥羽列藩同盟」の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁されました。新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため、佐賀藩士・前山清一郎が率いる佐賀藩兵と小倉藩兵を仙台藩に派遣しました。前山清一郎の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったため、仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山清一郎の部隊に引き渡しました。前山清一郎と救出された総督府の一行は、盛岡藩に到着しました。藩主・南部利剛は1万両を献金しましたが、態度は曖昧なままでした。続いて、総督府一行は久保田藩に入りました。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって、攘夷派が勢力を保っていました。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず、生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流しました。沢為量副総督は分隊を率いて、弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしましたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖されており、奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩に留まる事になりました。そのため、結果的に総督府一行は久保田藩で合流する事になりました。久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は、久保田藩に志茂又左衛門ら使者12名を派遣しました。しかし、九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得により、久保田藩の尊皇攘夷派は仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害しました。こうして久保田藩は「奥羽越列藩同盟」を離脱して、東北地方における新政府軍の拠点となったのでした。そして再び、庄内藩による秋田攻撃がはじまる事になります。

久保田藩に斬られた仙台藩の使者:志茂又左衛門、佐々徳之進、山内富治、川越新造、内㟢順治、庄司傳三郎、高橋市平、小嶋寅之助、棟方市七郎、志茂丁吉、高橋辰太郎、南部藩:高橋惣助

今日の誕生日:弘文天皇(第39代天皇)、島津義弘、菅原洋一、稲川淳二、関根勤、円広志、加門良、宮崎勤、益戸育江(高樹沙耶)、西村和彦、タフィ・ローズ、萩原聖人、野口健、粟田麗、VERBAL(m−flo)、arie(元Folder5のARISA)、ウサイン・ボルト、RINA(SCANDAL)、星奈津美、本田真凜,クマのプーさん

今日の記念日:献血の日、噴水の日、女子大生の日、イージーパンツの日、パーフェクトの日、ホワイトティースデー、福島県民の日、静岡県民の日

今日の「今日訓」:本日は、1877年に開幕した第1回内国勧業博覧会で、会場の上野公園中央の人工池に日本初の西洋式の噴水が作られた事を記念して「噴水の日」、1913年に東北帝國大学(現:東北大学)が女子受験生3人の合格を発表し、日本に初めて女子大生が誕生した日で「女子大生の日」、1964年、それまでの「売血制度」を廃止し、全ての輸血用血液を献血によって確保する事が閣議決定された事で「献血の日」、1970年、プロボウラーの中山律子が東京の「府中スターレーン」で開催されたプロ月例会の優勝決定戦で、女子プロボウラー初のパーフェクトゲームを達成した事から「パーフェクトの日」、「8(パン)2(ツ)1(イー)ジー」の語呂合わせで「イージーパンツの日」、「8(歯)に(1)いい」の語呂合わせで「白い歯(ホワイトティースデー)」となりました。
「福島県民の日」:廃藩置県で全国に多数の県が生まれた後、現在の福島県域は、会津地方を若松県、中通り地方を二本松県(二本松県になって、わずか12日後に県庁が信夫郡福島町に移転、福島県に改称)、浜通りは磐前県の3つの県として統合されました。その後、1876年に福島県、若松県、磐前県が合併して現在の福島県となりました。
「静岡県民の日」:明治維新により、静岡藩が設置されて、徳川将軍家の徳川慶喜が入りました。伊豆国(旧韮山代官領)の地域に韮山県が成立しました。旧堀江陣屋が堀江藩になりました。そして、1869年に、駿府は静岡に改名されました。(明治政府に対し、恭順の意を示す必要に迫られた駿府(府中)藩が、「府中」を「不忠」と解される事を恐れて、静岡浅間神社裏手の賤機山(しずはたやま)から名を取って「賤ヶ丘」(しずがおか)とし、その後「静岡」と改称)廃藩置県で、静岡藩は静岡県に置き換わり、堀江藩が堀江県に置き換わりました。その後、駿河国部分が静岡県となり、遠江国部分は浜松県となりました。堀江県は浜松県に編入されました。韮山県は、荻野山中県や小田原県と合併して、足柄県となりました。1876年に足柄県が分割され、相模国部分は神奈川県に編入され、伊豆国部分は静岡県に編入されました。そして、浜松県が廃止されて静岡県に編入されます。こうして、伊豆国、駿河国、遠江国の3国が、合併して現在の静岡県となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する