今日の出来事:1541年−肥後国にポルトガル人が漂着、大友宗麟にカボチャの種が贈られる「カボチャの伝来」、1616年−松平忠輝事件、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が出雲崎に到着、1773年−七家騒動、1868年−北越戊辰戦争:栃尾攻防戦、1868年−会津戊辰戦争:第十次・白河攻防戦、1868年−磐城戊辰戦争:第二次磐城平攻防戦、1945年−ソ連対日参戦:占守島の戦い
今日は、肥後国にポルトガル人が漂着、大友宗麟にカボチャの種が贈られる「カボチャの伝来」です。ポルトガル船が豊後(現在の熊本県)に漂着しました。豊後の領主・大友宗麟に「カボチャの種」を献上し、貿易の許可を求めました。東南アジアのカンボジア産と伝えられた事から、カンボジアがなまって「かぼちゃ」と呼ばれるようになりました。九州各地で栽培されて「日本カボチャ」となりました。江戸時代には北海道などの寒冷地でも栽培され、多様な品種を派生する事になります。
次に、松平忠輝事件です。松平忠輝は、徳川家康の六男として江戸城で誕生しました。幼名は辰千代、生母・茶阿局の身分が低かったため、家康は誕生したばかりの辰千代を素直に喜ばず、捨て子のしきたり(当時は捨て子の方が強く丈夫に育つとされ、安育祈願として一度、寺の門前に子供を捨て、通りがかった家臣に拾わせて、自分に届けさせて育てるという風習)の際に家康の側近・本多正信に拾わせ、養育先を探させて、下野栃木(長沼)城主で3万5000石の大名・皆川広照に預けられて養育されました。1599年、家康の七男で同母弟・松千代が早世したため、その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられました。1602年に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗りました。1603年、わずか40日で信濃国川中島12万石に加増移封されました。そして、姉婿・花井吉成が家老として補佐する事になりました。1606年、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚しました。しかし、1609年に重臣・皆川広照らによる御家騒動が起こりました。皆川広照は、いくら諫言しても改めない松平忠輝の行状を幕府に訴えたところ、逆に家老として不適格とされて改易となりました。1610年、越後高田藩主に任じられ、川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられました。越後領有当初の松平忠輝は、堀氏が築いた福島城の城主でしたが、1614年に高田城を築城しました。高田城は幕命により、松平忠輝の義父・伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造されました。しかし、父・家康との距離は縮められず、1614年の「大坂冬の陣」では留守居役を命じられました。1615年の「大坂夏の陣」では大坂に出陣しました。1616年、家康が死去しました。家康は、今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼びませんでした。拝謁を望む松平忠輝は駿府まで自ら馳せ参じましたが、家康は最後まで面会を許しませんでした。その後、松平忠輝は「大坂夏の陣」の際に不行跡があった事を譴責され、兄・秀忠から改易を命じられました。松平忠輝は、伊勢国朝熊に流罪となりました。生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼しましたが、聞き入れられませんでした。1618年には飛騨国高山に、1626年には信濃国諏訪に流されました。そして、1683年に幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去しました。亨年92でした。息子・徳松(母は竹の局)は放免の際に同行が許されず、岩槻藩主・阿部重次の預かりとなりましたが、そこで冷遇されたため、1632年に住居に火をつけて自殺しました。享年18でした。しかし、家康との仲は最後は埋まっていたと言います。それが「野風の笛」です。この笛は、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と渡り歩いた物でした。その天下人の象徴である笛を家康は死期に際して、茶阿局を通して形見として松平忠輝に渡しました。松平忠輝が配流から死去までの58年間を過ごした長野県諏訪市の貞松院に保存されており、現在は諏訪市の有形文化財に指定されています。現品は節に金泥で織田家の紋・織田瓜と変体仮名による銘が入れられ、収納箱には松平家の葵紋と「織田信長自愛のかせ御笛」という文言が記されています。その後、徳川宗家より赦免されたのは、死去から300年後の1984年でした。松平忠輝の菩提寺である貞松院の住職・山田和雄が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家18代目当主・徳川恒孝に願い出て実現しました。7月3日に徳川恒孝によって赦免され、仏前への奉告は貞松院の檀信徒の都合などで3年後の1987年10月24日に行われました。10月24日の法要には、仙台伊達家当主の妹や諏訪家当主、当時の家臣の子孫など約400名が参列し、徳川恒孝が赦免状を読み上げました。徳川恒孝はその後、文学博士・児玉幸多に「歴史を後から変えるべきではない」との批判を受けました。
その次に、奥の細道:松尾芭蕉が出雲崎に到着です。松尾芭蕉は、鼠ヶ関を越えて越後に入りました。そして、出雲崎に到着しました。この頃、金沢まで「越後路十日、越中路三日」と呼ばれていました。越後路は、海岸線に沿って続く単調な道筋でした。途中、弥彦神社や西生寺にも詣でました。芭蕉が、出雲崎から海を眺めると、薄く横に広がる島影が見えました。それは、佐渡島でした。ここでこの句を詠みました。「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」
その次の次に、七家騒動です。七家騒動は、1773年に出羽国・米沢藩で起こった御家騒動です。上杉鷹山は、米沢藩の第9代藩主です。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として有名です。日向・高鍋藩主の秋月種美の次男として江戸藩邸で生まれました。幼名は松三郎です。1760年、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となり、桜田の米沢藩邸に移って直松と改名しました。1763年より、尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服して勝興と称しました。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の偏諱を授かり、治憲と改名し、1767年に家督を継ぎました。上杉家は、借財が20万両(現代の通貨で約200億円)、石高が15万石でありながら初代藩主・上杉景勝の命に縛られ、会津120万石時代の家臣団6000人を召し放てずに、他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高くなりました。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。加えて農村の疲弊や、寛永寺普請による出費、1755年の洪水による被害が藩財政を直撃しました。名家の誇りを重んじて、豪奢な生活を改められなかった前藩主・上杉重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと考えていました。新藩主に就任した上杉鷹山は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと激しく対立しました。また、それまでの藩主は1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行いました。そのため、幕臣への運動費が捻出できなかったため、1769年に江戸城西丸の普請手伝いを命じられて、多額の出費をしたため再生は遅れました。「天明の大飢饉」で東北地方を中心に餓死者が多発していましたが、上杉治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。また、曾祖父・綱憲が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲、神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わずに学問を学ばせました。1773年8月15日、藩主・上杉鷹山の改革政策に反対する藩の重役で、奉行・千坂高敦と色部照長、江戸家老・須田満主、侍頭・長尾景明、清野祐秀、芋川延親、平林正在の7人が、元藩儒で藩医・藁科立沢の教唆を受け、改革の中止と改革を推進する奉行・竹俣当綱一派の罷免を強訴しました。8月18日に7重臣の裁決が下され、須田満主と芋川延親の切腹及び改易、残り5人の重役は隠居及び閉門または蟄居、石高削減となりました。また、芋川延親の父・芋川正令も息子に連座して押込となりました。その後、藁科立沢が斬首並びに士分剥奪となりました。米沢藩首脳部は10人で構成されていましたが、その中の7人が藩政から退いた事で運営に影響を与える事になりました。8月22日には、侍組平侍・吉江輔長の奉行就任や、千坂高敦の弟で上杉重定附き小姓頭・広居忠紀が江戸家老の就任しました。これらの施策と裁決で、破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の上杉斉定の時代に借債を完済します。
そのまた次に、北越戊辰戦争:栃尾攻防戦です。戦力を増強した新政府軍は、それまでの守勢一辺倒から攻勢に転じました。まずは列藩同盟軍の拠点となっている栃尾を攻撃しました。栃窪・森立峠・半蔵金の三方向から進軍しました。列藩同盟軍は八丁沖東部戦線と西部戦線で攻勢に出ていた為、栃尾の守備兵力は十分ではありませんでしたが、新政府軍の接近を知ると迎撃の態勢を整えました。こうして、新政府軍と列藩同盟軍との戦闘が各地で繰り広げられました。
栃窪の戦い:本道を進軍する新政府軍を、列藩同盟軍は土ヶ谷と土ヶ谷西南方の山頂陣地から挟撃し、新政府軍を逆に撃退しました。しかし、「奇兵隊」四番隊が間道を迂回して山頂を守る長岡藩兵を追い落とす事に成功すると、本道を進む本隊も土ヶ谷を奪取して、そのまま栃尾に進軍しました。
森立峠の戦い:加賀藩兵が先鋒となりましたが、列藩同盟軍の一之貝陣地は固く突破できずにいました。これを見た「奇兵隊」三番隊が迂回して一之貝陣地東方の大平山の山頂を占領し、ここから銃撃を行なうと一之貝守備兵も動揺し、更にはこれを見た薩摩藩兵が突撃した為、一之貝陣地は奪取され、列藩同盟軍は後方の荷頃に撤退しました。しかし、勢いに乗る薩摩藩兵はそのまま荷頃陣地にも攻めかかり、激戦の末に奪取しました。
半蔵金の戦い:ここを守る長岡藩・花輪彦左衛門隊は奮戦しましたが、長州藩「奇兵隊」・長府藩「報国隊」・松代藩兵が次から次へと迂回して包囲してきたため、支えきれずに栃尾に撤退しました。
「栃窪の戦い」、「森立峠の戦い」、「半蔵金の戦い」で敗れた列藩同盟軍でしたが、攻撃の拠点である栃尾を死守しようと、かつて上杉謙信公の居城だった栃尾城跡を最終防衛線にして布陣しました。長岡藩・河井継之助は、栃尾城跡の狼煙台等の外郭ラインに塹壕や胸壁を築いて布陣して、ここまで勝ち進んできた新政府軍を食い止める事に成功しました。そして、遂に新政府軍は栃尾を目の前にして撤収しました。河井継之助は長岡藩兵のほぼ全軍を栃尾に集結させ、栃尾の守りを固める事を指示しました。これにより、その後も散発的に起きた栃尾周辺の戦いで、列藩同盟軍は新政府軍から栃尾を守りきりました。そして、あの「第二次長岡城攻防戦」で大攻勢をする事になるのです。
そのまた次の次に、会津戊辰戦争:第十次・白河攻防戦です。列藩同盟軍は、再び白河城へ攻撃を仕掛けました。しかし、再び敗走しました。
さらに次に、磐城戊辰戦争:第二次磐城平攻防戦です。「第一次磐城平攻防戦」に失敗した新政府軍は、今度は海岸側の部隊が磐城平攻略に動きました。小名浜から出撃した薩摩藩、大村藩は山側の部隊に一報を入れる事なく磐城平城へ攻め寄せました。列藩同盟軍は六斤砲を用意し、稲荷台に小銃を装備した藩兵を配置して待ち受けていました。また、磐城平城に入っていた仙台藩参謀・古田山三郎らは相次ぐ敗戦の雪辱に燃え、戦意高揚していました。新政府軍は散開して城に近づきましたが、後装銃を含むこれまでにない銃撃を受けて前に進む事ができず、弾薬の欠乏により薩摩藩は後退を始めました。銃声を聞いて出撃した岡山藩兵に迎えられて、湯長谷に撤退しました。
最後に、ソ連対日参戦:占守島の戦いです。「ポツダム宣言」受諾により「太平洋戦争」が停戦した後の8月18日未明、「日ソ中立条約」を一方的に破棄したソ連軍が千島列島東端の占守島に上陸、日本軍守備隊と戦闘となりました。ソ連軍上陸部隊が上陸を開始しました。日本軍は激しい砲撃を加えて上陸用舟艇13隻撃沈破を報じ、ソ連側によると指揮官艇を含む上陸用舟艇2隻が炎上、複数が損傷する等の損害を受けました。日本軍は航空隊も出撃させましたが、対空砲火で艦攻(九七式艦上攻撃機)1機を失いました。7時頃に第一梯団の上陸は完了しましたが、重火器は対戦車砲4門のみで、司令部が海没したために部隊の統制は乱れていました。ソ連軍は艦砲射撃などで日本軍砲台の制圧を試みましたが、効果がありませんでした。第二梯団の上陸は、続けて午前7時頃に開始されました。日本軍の砲撃のため上陸に手間取り、午前10時頃になって、ようやく上陸は完了しました。依然として火砲の多くは輸送船に残されたままでした。上陸したソ連軍部隊は、日本軍の激しい抵抗を受けながら四嶺山に接近しました。四嶺山をめぐってソ連軍と日本軍の間で激戦が行われました。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出しました。師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に上陸地点への射撃を命ずるとともに、池田末男大佐が率いる戦車第11連隊に対して師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して、敵を撃滅するように命じました。戦車第11連隊は、連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退し、四嶺山北斜面のソ連軍を後退させました。ソ連軍は対戦車火器を結集して激しく抵抗を始め、日本戦車を次々と擱座・撃破しましたが、四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を先頭に参戦すると、多数の遺棄死体を残して竹田浜方面に撤退しました。戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田末男連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出しました。その後、日本側の独歩第283大隊は国端崎に向けて前進し、ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪還しました。ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい戦闘となりました。独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、副官以下50名余が戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南側への集結を援護する事に成功しました。この戦闘の間、ロパトカ岬からソ連軍130mm砲4門が射撃を行ったのに対し、四嶺山の日本軍15cm加農砲1門が応戦して全門を制圧しました。18日午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車第11連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼と後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となりました。昼ごろに第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止する事としました。しかし、実際には戦闘は続いていました。夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島転進を終えました。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送の攻撃を行いました。樋口は大本営に現状を報告、大本営はマッカーサーにスターリンへの停戦の働きかけを依頼しましたが、スターリンはこれを黙殺しました。ソ連軍上陸部隊は、日本軍に対して攻撃を仕掛け、艦隊とロパトカ岬からの砲撃も手伝い、幅4km、深さ5〜6kmにわたって橋頭堡を確保しました。すでに反撃行動を停止していた日本軍は、無用の損害を避けるため後退しました。ソ連軍航空部隊は間欠的に夜間爆撃を行いました。堤師団長は軍使を通じてソ連軍に降伏する事を確約しました。ソ連軍司令官グネチコ少将は代理を通じて、堤師団長に対して、日本軍の降伏・武装解除の最後通牒を渡しました。ソ連艦上で堤師団長は降伏文書に調印し、ソ連軍の監視の下で武装解除されました。ソ連軍は大きな損害を受けながら、日本軍の武装解除にたどり着きました。当時のソ連政府機関紙イズベスチヤは「ソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べました。両軍の損害は、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名でした。日本軍は武装解除後に分散されたため、死傷者の正確な数をつかめませんでした。武装解除され捕虜となった日本兵は、しばらくの間、兵舎の整備、越冬準備の薪の収集作業に使役されていましたが、10月中旬に目的地も告げられぬままソ連船に乗船させられ、シベリアへ抑留される事になります。
今日の誕生日:足利尊氏、城山三郎、柴田恭兵、名取裕子、蜷川有紀、水道橋博士(浅草キッド)、伊藤麻衣子、高城剛、吉川晃司、堀江しのぶ、田村勤、清原和博、KEIKO(globe)、中居正広(元SMAP)、平石直之、松尾駿(チョコレートプラネット)、G−DRAGON(BIGBANG)、奈津子(元SDN48)、亜希子(元SDN48)、有村藍里、成海璃子、藤井流星(ジャニーズWEST)、那須川天心
今日の記念日:高校野球記念日、米の日、ビーフンの日、糸ようじの日
今日の「今日訓」:本日は、1915年8月18日に高校野球の前身である「第1回全国中等学校優勝野球大会」の開会式が大阪の豊中球場で行われました。これにより「高校野球記念日」となりました。「米」の字を分解すると「八十八」になる事から「米の日」、米を原料とする麺なので「ビーフンの日」、「歯(8)と歯(8)の間に糸(1)」で「糸ようじの日」となりました。
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