mixiユーザー(id:48382454)

2022年08月15日00:05

30 view

08月15日の日記

今日の出来事:1549年−ザビエル一行が鹿児島に上陸:日本でキリスト教の布教が始まる、1573年−室町幕府滅亡:槇島城の戦い、1862年−島田左近暗殺、「天誅」の始まり、1863年−薩英戦争、1865年−福岡藩士・喜多岡勇平暗殺、1868年−会津戊辰戦争:第九次白河攻防戦、磐城戊辰戦争:泉・湯長谷占拠、1877年−西南戦争:和田越の戦い、1945年−宮城(皇居)事件:クーデター決起〜鎮圧、1945年−終戦記念日:ポツダム宣言受諾、天皇陛下の玉音放送

今日は、ザビエル一行が鹿児島に上陸:日本でキリスト教の布教が始まった日です。世界宣教が目的のイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員をポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣する事になりました。ザビエルは他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共にリスボンを出発し、ゴアに到着しました。そこを拠点にインド各地で宣教し、マラッカやモルッカに赴いて宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導きました。マラッカで出会ったのが鹿児島出身のヤジロウという日本人でした。ゴアで宣教監督となったザビエルは、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指しました。一行は明の上川島を経由しヤジロウの案内で薩摩半島の坊津に上陸、薩摩の大名・島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ました。ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行いました。博多に滞在後に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行いました。周防の大名・大内義隆にも謁見しましたが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内義隆の怒りを買い、周防を立ちました。岩国から海路で堺に上陸しました。豪商の日比屋了珪の支援で、一行は京に到着しました。京では小西隆佐の歓待を受けました。ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得る為、後奈良天皇と足利義輝へ拝謁を請願しました。しかし、献上品がなかったため叶わず、滞在11日で京を去りました。平戸に戻ったザビエルは、置き残していた献上の品々を携え、山口の大内義隆に再謁見しました。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視される事を知っていたザビエルは、一行を美服で装って珍しい文物を大内義隆に献上しました。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、書籍、絵画、小銃などでした。これらの品々に喜んだ大内義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めました。当時すでに廃寺となっていた大道寺を、ザビエル一行の住居兼教会として与えました(日本最初の教会堂)。ザビエルは大道寺で一日に二度の説教を行い、約2カ月間の宣教で約500人の信徒を獲得しました。宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいました。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎となります。ザビエルは、豊後府内にポルトガル船が来着したとの話を聞くと、山口での宣教をトーレスに託して自ら赴きました。豊後に到着したザビエルは、大名・大友宗麟に迎えられ、保護を受けて宣教を行いました。また、豊後に眼鏡を伝来させました。日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がない事を気にして、一旦戻る事を決意しました。日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆しました。ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させました。ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となります。ザビエルは、日本全土での布教の為には日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣しました。ザビエルは中国を目指し、上川島に到着しました。しかし、中国への入境は思うようにいかず、体力も衰えて精神心的にも消耗して病を発症し、この世を去りました。ザビエルが驚いた事の一つは、キリスト教で重い罪とされていた男色が日本で行われていた事でした。布教は困難をきわめました。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識の無さから、キリスト教の神を「大日」と訳した為、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されました。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようにしました。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれる事になります。

次に、室町幕府滅亡:槇島城の戦いです。足利義昭は織田信長に擁されて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任しました。しかし、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(殿中御掟等)により、次第に信長と対立するようになり、織田信長から足利義昭に17条の意見書が突きつけられ、両者の対立は決定的となりました。足利義昭は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して信長を攻撃し、これに武田信玄が加わりました。しかし、信玄の体調が悪化して武田軍の攻勢が停止しました。信長は、足利義昭が兵を入れて砦を構築させていた近江国の今堅田・石山砦を攻撃し、攻略しました。そして、足利義昭自身が松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵しました。信長はこれを討つ為、京へと出発しました。正親町天皇から和睦の勅命が出されると、信長と足利義昭はこれを受け入れて和睦しました。しかし、足利義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英(細川藤孝の異母兄)を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もりました。信長は琵琶湖を渡って坂本城に入り、京・妙覚寺に布陣して二条城を包囲すると無血開城しました。信長は続いて槙島城へ進軍、五ケ庄の柳山に布陣し、宇治川を渡りました。織田軍は槇島城を包囲しました。足利義昭は嫡男・義尋を人質として差し出して降伏しました。こうして室町幕府は滅亡しました。

その次に、島田左近暗殺です。島田左近は、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任した後、条約勅許問題で暗躍しました。彦根藩とともに動き、当初は通商条約調印に反対であった主家・九条尚忠を幕府方賛成派に内応させ、紀州藩主・徳川慶福(家茂)を次期将軍職に擁立するという豪腕をふるいました。「安政の大獄」では井伊直弼の指令の下、数多くの尊皇攘夷派の志士、活動家らを一斉に検挙、捕縛しました。その際、奉行所の岡っ引・文吉を謀臣とし、容赦ない弾圧を行ないました。「桜田門外の変」での井伊直弼暗殺後には更に権勢を強め、皇女・和宮降嫁問題に際しても政治力を行使し、関係者らを調略し、幕府への斡旋に深く関与しました。こうして、「土佐勤皇党」の武市瑞山が台頭してくるまでの間、事実上の都の支配者として君臨しました。1862年、京・木屋町の愛人宅へ忍んで出向いているところを、薩摩藩の田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉ら3名に襲撃され、塀を乗り越えて逃げようとして尻を斬られ、落ちたところで首を討たれました。首は加茂川の河原に晒されました。この時の暗殺劇から始まるのが、いわゆる「天誅」と呼ばれる、都で続発した殺戮騒動です。島田左近の死後、島田左近に追従していた者たちも次々と討たれていきました。こうして、時代は島田左近の天下から、武市瑞山を首領とする「土佐勤皇党」一派の時代に移っていく事になります。

その次の次に、薩英戦争です。薩英戦争は「生麦事件」の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で行なわれた鹿児島湾での戦闘です。イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から「生麦事件」の賠償金10万ポンドを受け取りました。イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜沖に投錨し、犯人の逮捕と処罰および遺族への賠償金2万5000ポンドを要求しました。薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、要求を拒否しました。一方、奈良原喜左衛門らはイギリス艦の奇襲を計画しました。海江田信義、黒田清隆、大山巌らが国書に対する答使とスイカ売りに変装し、艦隊に接近しました。使者を装って乗艦に成功しましたが、イギリス艦隊側に警戒されて乗船を拒まれたため奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去しました。イギリス艦隊は、五代友厚や寺島宗則らが乗船する薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を脇元浦で拿捕しました。これを宣戦布告と受け取った薩摩藩は、正午に湾内各所に設置した陸上砲台の80門を用いて先制攻撃を開始しました。イギリス艦隊は、100門の砲を使用して陸上砲台に対し艦砲射撃で反撃しました。イギリス艦隊は台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃・ロケット弾攻撃を加え、城下で大規模な火災が発生し、陸上砲台や近代工場を備えた藩営集成館も破壊されました。薩摩藩の陸上砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長・副長の戦死を含む死者13人、負傷者50人)に及びました。薩摩藩側は人的損害は非戦闘員の死者5〜8人、負傷者18人でしたが、物的損害は甚大でした(鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失)。午後5時過ぎにイギリス艦隊は砲撃をやめ、戦死者を錦江湾で水葬して横浜に向かいました。朝廷は薩摩藩の攘夷実行を称えて褒賞を下しました。幕府と薩摩藩支藩・佐土原藩の仲介により、代理公使ニールと薩摩藩が横浜のイギリス大使館で講和しました。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払いました。しかし、この借用金は幕府に返されません。講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたままでした。

そのまた次に、福岡藩士・喜多岡勇平暗殺です。福岡藩士・喜多岡勇平は、尊攘)派として活動していました。福岡藩主・黒田長溥の世子・長知をたすけて、長州・朝幕間の斡旋をしていました。しかし、藩論が転換して尊攘派への弾圧がはじまると,、佐幕派への内通を疑われました。1865年8月15日、伊丹真一郎、戸次彦之助らに暗殺されました。この後、福岡藩は「乙丑の獄」と呼ばれる佐幕派による勤皇派の大弾圧が行なわれる事になります。

そのまた次の次に、会津戊辰戦争:第九次白河攻防戦です。新政府軍は棚倉城を落城させました。列藩同盟軍は、白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援を行ないませんでした。そして、列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけましたが、またしても失敗に終わりました。

さらに次に、磐城戊辰戦争:泉・湯長谷占拠です。「八幡山の戦い」の後、土佐藩の板垣退助が800の兵で棚倉城を攻略したとの情報が平潟の新政府軍に届きました。第三陣として常陸国の笠間藩200名が陸路を通って到着しました。平潟の新政府軍は部隊を3つに分け、浜通り諸藩へ攻勢に出る事を決定しました。笠間藩は平潟を守備しました。新政府軍は植田で軍を二分し、薩摩藩、岡山藩、大村藩は海沿いを通って泉藩へと向かい、柳河藩、佐土原藩は山道を通って湯長谷藩・平藩へ向かいました。
泉の戦い:列藩同盟軍は小浜付近に陣を築き、先鋒の薩摩2番隊を迎え撃ちました。これに対し、薩摩藩軍は軍を二つにわけて、一隊で迂回攻撃をさると挟撃して敗走させました。敗走した列藩同盟軍は泉藩の南方で陣を敷きましたが、迂回攻撃に抗しきれずに敗走を重ねました。新政府軍が泉藩の藩庁・泉陣屋に到着すると、泉陣屋は陥落しました。泉に駐屯した新政府軍でしたが、西南方面からの銃声で湯長谷が戦闘中である事を知り、薩摩藩12番隊は戦闘中の柳河藩、佐土原藩を援護すべく新田坂方面へ向かいました。続いて出発した薩摩藩1番隊は新田宿を通過して敵後方に回り込もうとしました。泉藩主・本多忠紀は、泉陣屋が陥落した後、降伏しました。本多忠紀は新政府に敵対した事により、2000石の減封と強制隠居を命ぜられ、家督は養子・本多忠伸が継ぎました。
湯長谷の戦い:柳河藩、佐土原藩は堅牢な陣地で抗戦する列藩同盟軍と相対し、攻略の糸口が掴めずにいました。しかし、泉から来て、列藩同盟軍の左側背に突如として出現した薩摩藩12番隊に列藩同盟軍は動揺し、柳河藩、佐土原藩も合わせて攻勢を開始しました。さらに列藩同盟軍の後背に大きく迂回してきた薩摩藩1番隊が現れると戦況は決し、列藩同盟軍は壊走状態となりました。柳河藩、佐土原藩は湯長谷へ向かいました。一方、仙台藩は汽船・長崎丸と太江丸をもって磐城平城に増援を送り、輸送を終えた両船舶に平潟への砲撃を命じました。平潟の守りである笠間藩兵に不安のあった新政府軍は仙台藩の上陸作戦を恐れて狼狽しましたが、兵員をすでに下ろした両汽船は砲撃のみで引き上げていきました。しかし、新政府側の懸念は消えず、柳河藩兵を全軍呼び戻して平潟の警備に当たらせました。柳河藩を守備に残した事により山側の部隊が佐土原藩のみとなった為、新政府軍は再編成を行って岡山藩兵を山側に転換しました。岡山、佐土原の両藩は前進を続け、湯長谷兵の主力は藩主とともに高野方面にいた為、湯長谷館を難なく占領しました。湯長谷藩主・内藤政養は、降伏しました。内藤政養は養子・政憲に家督を強制的に譲らされた上で隠居する事となり、所領も1000石削減の1万4000石に減らされました。増援として泉藩と湯長谷藩に向かっていた仙台藩・柴田中務の1大隊は、林道通過中に左右から攻撃を受けて多数の死傷者と逃走兵を出しました。残存の部隊は磐城平城へ撤退しました。

さらに次の次に、西南戦争:和田越の戦いです。政府軍は延岡へ突入し、薩摩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除いて抵抗しましたが、敗退しました。西郷隆盛は諸将の諌めを押し切って陣頭に立ち、政府軍と雌雄を決しようとしました。この時の薩摩軍(約3500名)は和田峠に配置していました。長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)、中島健彦(振武隊)、野満長太郎(協同隊)らを配備し、北部の熊田には小倉処平・佐藤三二が指揮する隊を配備しました。政府軍(約50000名)は参軍・山県有朋の指揮のもと、延岡に攻撃主力を部署し、西部の可愛岳山麓と熊田の北部にも配備し、薩摩軍を包囲殲滅しようとしました。8月15日早朝、西郷隆盛は桐野利秋・村田新八・池上四郎・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をしました。一方、山県有朋も樫山にて戦況を観望しました。政府軍は堂坂の泥濘と薩摩軍の砲撃に苦しみました。これを見た桐野利秋が決死精鋭の1隊を率いて、馳せ下って攻撃したため政府軍は危機に陥りました。しかし、第4旅団の左翼が進出して救援すると桐野利秋を退ける事ができました。その後、政府軍と薩摩軍は一進一退の激戦を続けました。やがて政府軍は別隊を進め、薩摩軍の中腹を攻撃しようと「熊本隊」に迫りました。「熊本隊」は政府軍を迎え撃ちましたが苦戦しました。辺見十郎太と野村忍介が援兵を送って「熊本隊」を支援しましたが、政府軍は守備を突破しました。激戦の末、寡兵で軍備の劣る薩摩軍は長尾山から退いて、無鹿山からも敗走し、熊田に退却しました。この機に政府軍は総攻撃を仕掛けて薩摩軍の本拠を一挙に掃討する事を決意し、総攻撃の準備を進めました。

さらにまた次に、宮城(皇居)事件:クーデター決起〜鎮圧です。日本のいちばん長い日「宮城事件」は、1945年8月14日の深夜から15日にかけて一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって、日本の降伏を阻止しようと起こしたクーデター未遂事件です。8月15日、午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁及び放送協会職員など数名が、坂下門付近で佐藤好弘大尉により拘束されました。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁されました。師団長室に入った畑中少佐は、しばらくすると部屋を出てきて、別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉と同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れて、再度入室しました。畑中少佐は無言のまま森赳師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺しました。同席していた白石通教中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺されました。この殺害後、師団参謀の古賀秀正少佐は畑中少佐が起案したと考えられる近作命甲第五八四号を各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じました。玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣されました。宮内省では電話線が切断され、皇宮警察官たちは武装解除されました。玉音盤が宮内省内部に存在する事を知った古賀少佐は第二大隊長・北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じました。宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣と木戸幸一内大臣は金庫室などに隠れて難を逃れました。井田中佐は水谷一生参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍)のクーデター参加を求めましたが、田中軍司令官と高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していました。高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森師団長の殺害を知ると畑中少佐らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造である事を伝えました。芳賀連隊長はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し、即刻宮城から退去するように命じました。宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されました。宮城を離れた畑中少佐は第一中隊の占領する放送会館へと向かい決起の声明の放送を要求しましたが、職員の機転によって防がれました。午前5時頃、東部軍の田中軍司令官が自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めました。連隊長の側に居た近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は東部憲兵隊により身柄を保護されました。午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べました。その頃、陸相官邸では阿南惟幾が自刃しました。竹下中佐は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田中佐に示唆しましたが、井田は既にクーデターの失敗を悟っていました。田中軍司令官は乾門付近で芳賀連隊長に出会って兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらに宮内省へ向かって反乱の鎮圧を伝えました。これを境にクーデターは急速に沈静化へと向かいました。放送会館では東部軍からの電話連絡を受けた畑中少佐が放送を断念し、守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放されました。午前8時前には、近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸内大臣は御文庫へと向かいました。二枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、無事放送会館と第一生命館に設けられていた予備スタジオへと運搬されました。運搬に際しても正式な勅使らしい偽物を仕立てて、本物は粗末な袋に入れて木炭自動車で運搬するという念の入れようでした。最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎二郎中佐と畑中健二少佐は宮城周辺でビラを巻き決起を呼び掛けましたが、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺しました。古賀秀正参謀は玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の骨箱の前で、拳銃と軍刀を用いて自殺しました。午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止の為にスタジオに乱入しようとしましたが、取り押さえられて憲兵に連行されました。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が行われ、戦争は終結しました。

最後に、終戦記念日:ポツダム宣言受諾です。1945年7月26日、米英中の3か国(後にソ連も参加)は「ポツダム宣言」を発し、日本軍の無条件降伏を要求しました。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していました。広島に原子爆弾投下、ソ連対日宣戦布告、長崎に原子爆弾投下という重大な事態が続きました。8月10日、日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国側に確認しました。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の聖断により「ポツダム宣言」受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対し「ポツダム宣言」の受諾を通告しました。8月15日正午から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書)を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(玉音放送)、国民及び陸海軍に「ポツダム宣言」の受諾と軍の降伏の決定が伝えられました。当日は朝から「賢き辺り(=天皇)にあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされました。神聖不可侵とされた最高権力者である天皇の肉声が初めてラジオで放送された事と共に、戦争終結を発表された為、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべき出来事であり、大きな衝撃を与えました。大本営は日本軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、8月16日に戦闘行動を停止するように命令しました。8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対して、戦闘行動を停止するように命令しました。支那派遣軍を除く外地軍に対しては、8月25日零時以降に戦闘行動停止を命令しました。大陸や北方戦線では、ソビエト連邦や中華民国との戦闘が暫く続きました。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止する為の戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われました。また、戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘が続きました。さらに、外地の一般市民が難民と化し多くの犠牲者を出しました。沖縄の久米島では日本軍による住民の殺害「久米島守備隊住民虐殺事件」がありました。これらの戦闘は、8月下旬になると終結しました。9月2日、昭和天皇は「誓約履行の詔書」を発し、日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が降伏文書に調印し、即日発効しました。1951年9月8日には、平和条約である「サンフランシスコ平和条約」が調印されました。そして、「サンフランシスコ平和条約」が発効した1952年4月28日をもって、国際法上、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結する事となります。日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催しています。一般にも同日は「終戦記念日」や「終戦の日」と称され、政治団体・NPO等による平和集会が開かれています。

今日の誕生日:ナポレオン・ボナパルト、目黒祐樹、アン王女、渥美二郎、風祭ゆき、サンプラザ中野くん(爆風スランプ)、大八木淳史、宇梶剛士、麻生祐未、アキラ100%、川口能活、金城綾乃(Kiroro)、秋山竜次(ロバート)、大橋未歩、ナオト・インティライミ、中村剛也、岡田将生、萩野公介、安斉かれん、長尾謙杜(なにわ男子)、本郷猛、鳳凰星座の一輝、ジョディー・爆竜・カレン

今日の記念日:終戦記念日、戦没者を追悼し平和を祈念する日、刺身の日、親に会いにいこうの日

今日の「今日訓」:本日は、黙祷!! ウィーーーンーーー!1945年8月15日の正午に、天皇による終戦の詔書のラジオ放送(玉音放送)が行われ、国民に「ポツダム宣言」受諾が伝えられました。この事から「終戦記念日」、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」、毎年この日に「全国戦没者追悼式」が行われます。1448年8月15日、中原康冨の日記に「鯛なら鯛と分かるように、その魚のひれを刺しておくので刺身、つまり”さしみなます”。」と記述され、これが刺身の語源になった事で「刺身の日」、「08(親)に会いに1(い)5(こう)」の語呂合わせで「親に会いにいこうの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する