今日の出来事:1644年−三十年戦争:フライブルクの戦い、1793年−日露会談(大黒屋光太夫の帰還)、1858年−イギリスの探険家・スピークがナイル川水源の湖に到達、当時のイギリス女王の名前をとってヴィクトリア湖と命名する、1945年−橘丸事件:日本陸軍の病院船「橘丸」が米軍に拿捕、1955年−少女漫画雑誌「りぼん」が創刊、1962年−日本初のテレビ情報誌「週刊TVガイド」が創刊
今日は、三十年戦争:フライブルクの戦いです。ドイツのフライブルク・イム・ブライスガウ周辺で、フランス軍とバイエルン選帝侯軍を主力とした神聖ローマ帝国軍が激突した戦闘です。三十年戦争で最も多く死傷者を出した戦闘となりました。この戦いの結果、カトリック諸侯軍の主力であったバイエルン選帝侯軍は壊滅的な打撃を受け、フランスと講和する事となりました。これにより、三十年戦争でフランスの勝利を確定させました。
次に、日露会談(大黒屋光太夫の帰還)です。大黒屋光太夫は、江戸時代後期の伊勢国白子(現・三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭です。1782年、大黒屋光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名と共に、神昌丸で紀州藩の囲米を積んで、伊勢・白子の浦から江戸へ向かって出航しました。しかし、駿河沖付近で暴風にあって漂流しました。7ヶ月の漂流の後、一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島の1つ、アムチトカ島へ漂着しました。そこで、先住民のアレウト人や毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇しました。彼らと暮らす中で、大黒屋光太夫らはロシア語を習得しました。4年後の1787年、有り合わせの材料で造った船でロシア人らと共に島を脱出しました。その後、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年にイルクーツクに至りました。イルクーツクで、日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会いました。キリル・ラクスマンは、大黒屋光太夫の境遇に同情すると同時に、帰国が叶うように最大級の尽力をしました。大黒屋光太夫の一行は、次第にラクスマン一家と家族的な付き合いをするようになりました。しかし、帰国を願う嘆願書は、大黒屋光太夫ら日本人をロシアに帰化させようとしていたイルクーツク総督府によって、握りつぶされていました。1791年、キリル・ラクスマンは大黒屋光太夫と直接、女帝エカチェリーナ2世に帰国を直訴するため、帝都・サンクトペテルブルクに向けて出発しました。キリル・ラクスマンと大黒屋光太夫はサンクトペテルブルクに到着しましたが、長旅が祟ってキリル・ラクスマンは腸チフスにかかりました。大黒屋光太夫は、キリル・ラクスマンを献身的に介護し、3ヶ月後に回復しました。この間、エカチェリーナ2世はツァールスコエ・セローに行幸していました。エカチェリーナ2世を追って、ツァールスコエ・セローに赴いて謁見を賜り、帰国の許可を嘆願しました。エカチェリーナ2世は、外務参事院議長のアレクサンドル・ベズボロドコ公爵に漂流民送還を指示しました。こうして、大黒屋光太夫ら漂流民送還の勅令が出されました。1791年11月1日、大黒屋光太夫はエカテリーナ2世のお茶会に招かれ、日本人として初めて紅茶を飲みました。この事から11月1日は「紅茶の日」となりました。1792年11月8日、日本に対して漂流民を返還する目的で、遣日使節のアダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われて、エカテリーナ号でオホーツクを出発しました。大黒屋光太夫を含め、神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国する事が出来たのは大黒屋光太夫、磯吉、小市の3名だけでした。12月3日、漂流から約10年を経て、磯吉、小市と3人で根室へ上陸して帰国を果たしました。しかし、小市はこの地で死亡します。藩士が根室に駐在していた松前藩は、幕府に報告しました。老中・松平定信は、目付・石川忠房、村上義礼を派遣しました。目付は、翌年の春に松前に到着しました。1793年8月3日、初の「日露会談」で大黒屋光太夫、磯吉の2人は引き渡されました。その後、2人は江戸へ送られ、11代将軍・徳川家斉の前で聞き取りを受けました。海外情勢を知る大黒屋光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与する事になります。
その次に、イギリスの探険家・スピークがナイル川水源の湖に到達し、ヴィクトリア湖と命名です。イギリスの探検家ジョン・ハニング・スピークは、リチャード・フランシス・バートンとともにナイル川の水源を探す探検を行いました。まず二人でタンガニーカ湖を発見しました。その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残ったバートンを置いてスピークは探検を進め、この湖を確認しました。この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王・ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名しました。しかし、スピークの探検では湖がナイル川の水源である事が確認できななかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発しました。しかし、1875年にアメリカの探検家ヘンリー・モートン・スタンリーによって、「ヴィクトリア湖」が水源である事が確認されました。
最後に、橘丸事件です。日本陸軍が国際法に違反して病院船「橘丸」で部隊・武器を輸送した事件です。日本陸軍創設史上、最も多い約1500名の捕虜を出す事となりました。モルッカ諸島の一部を成しているカイ諸島には、第五師団(山田清一陸軍中将)歩兵第十一連隊の第一、第二大隊、歩兵第四十二連隊の一個中隊の総勢1562名が駐屯していました。しかし、戦局が「フィリピンの戦い」がほぼ終わって「ボルネオの戦い」に移ると、この方面の兵力は戦略的価値を事実上失いました。そこで南方軍(寺内寿一元帥陸軍大将)は第二軍(豊嶋房太郎陸軍中将)に対して兵力の集約を行うよう命じ、命を受けた第二軍は遊軍と化していた第五師団をカイ諸島から引き揚げさせて、近いうちに連合軍が上陸してくるであろうシンガポールかジャワ島の防衛に宛てる事としました。この手の兵力後退輸送は、それ以前にも重巡洋艦「足柄」や軽巡洋艦「五十鈴」などが実施していましたが、「足柄」も「五十鈴」も任務中途で撃沈されており、兵力輸送用船舶として「唯一安全なアクセス」として、病院船に白羽の矢が立ちました。「橘丸」による兵力後退輸送任務は「光輸送乙号作戦」と命名されました。命を受けた「橘丸」は海上トラック「広瀬丸」という偽名で、シンガポールを出港してトアールに入港しました。1562名の将兵たちは白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包していました。臨検された場合に備えて、適当な内容のカルテまで準備されました。「橘丸」はトアールを出港しましたが、この時すでにPBYカタリナが上空で張り付いていました。アメリカ海軍駆逐艦「コナー」と「チャレット」 は、バンダ海を航行中の「橘丸」に対して国際信号旗「“S” “Q” “1”(停船せよ、さもなくば攻撃する)」を掲げて停船を命じました。「橘丸」を挟み込むように接近した「コナー」と「チャレット」から臨検隊が送り込まれましたが、臨検隊に踏み込まれた「橘丸」の対応は墓穴を掘るばかりでした。「なぜ看護婦が乗っていないのか」とか「なぜ怪我患者がいないのか」という質問にまともに答えられず、「患者」の名前とその病名ですら答える事ができませんでした。決定打は食堂下の船倉に収められていた赤十字の箱から出てきた小銃、40トンの弾薬および曲射砲2門で、ついに「橘丸」は国際法違反により拿捕されました。拿捕された「橘丸」には星条旗が掲揚され、捕虜となった将兵は周囲から銃を突きつけられて、サロンへと収容されました。将兵のうち、将校クラスは暴発を警戒して「コナー」と「チャレット」に移されました。「橘丸」はモロタイ島に到着し、ここで将兵と乗組員は収容所送りとなりました。このうち将兵は貨物船に押し込められ、フィリピン・マニラのモンテンルパ捕虜収容所に移送されました。乗組員は「橘丸」に戻され、8月14日にマニラに入港しました。乗組員もモンテンルパ収容所に収容されましたが、終戦後に安田喜四郎船長を除く乗組員は無罪として釈放されました。その後の「橘丸」は、パラオからウェーク島に回航され、ウェーク島からの復員兵第一陣700名を乗せて浦賀に帰投しました。日本が「橘丸」拿捕を知ったのは、8月6日の連合軍の放送、またはオーストラリア放送を傍受した時とみられています。第五師団長の山田清一中将と同参謀長・浜島厳郎大佐は8月15日に自決しますが、それは「国際法違反」の責めによるものではなく、「将兵を無抵抗裡に敵手に委した」という理由からでした。
今日の誕生日:藤田伝三郎、尚泰、岩崎小弥太、カール・ゴッチ、西山登志雄(カバ園長)、黒鉄ヒロシ、田中耕一、石川真、藤田朋子、宮川孝子(元PINK SAPPHIRE)、行定勲、稲葉篤紀、安住紳一郎、伊藤英明、なすび、安藤希、荒木絵里香、ブルゾンちえみ、増田有華(元AKB48、元DiVA)、熊井友理奈(元Berryz工房)、バリィさん、鬼塚英吉
今日の記念日:司法書士の日、ハチミツの日、ハサミの日、ハモの日、八味唐がらしの日、ハイサワーの日、山佐スロワールドの日、ビーチサンダルの日、ホウ酸処理の日、八丁味噌の日
今日の「今日訓」:本日は、1872年に、太政官無号達「司法職務定制」が布告され、司法書士の前身である代書人の制度が定められた事を記念して「司法書士の日」、「はち(8)みつ(3)」の語呂合わせで「ハチミツの日」、「は(8)さみ(3)」の語呂合わせで「ハサミの日」、「は(8)み(3)」の語呂合わせで「ハモの日」、「八(8)味(3)」の語呂合わせで「八味唐がらしの日」、「我が輩が作ったサワー」から「輩サワー」と名付けられた事から「ハイ(8)サワー(3)」の語呂合わせで「ハイサワーの日」、「ヤマ(8)サ(3)」の語呂合わせで「山佐スロワールドの日」、8月の「8をビーチのBに、3日をサンダルの3」で「ビーチサンダルの日」、「ほう(8)さん(3)」の語呂合わせで「ホウ酸処理の日」、「八(8)丁味(3)噌」の語呂合わせで「八丁味噌の日」となりました。
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