mixiユーザー(id:48382454)

2022年07月28日00:11

11 view

07月28日の日記

今日の出来事:1568年−立花城の戦い、1620年−和霊騒動、1866年−第二次長州征伐(四境戦争):大島口の戦い、小倉口戦い:田の浦の戦い、1868年−箱根戊辰戦争:小田原藩家老・岩瀬大江進自刃、1914年−第一次世界大戦開戦:オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告、世界の多数の国が参戦する「第一次世界大戦」に発展、1945年−第二次世界大戦:大山口列車空襲事件、青森大空襲、一宮空襲

今日は、立花城の戦いです。大友氏の家臣・高橋鑑種は、大友義鎮の弟・晴英が大内氏の家督を継ぎ「大内義長」となると、橋爪鑑実と共に大内義長に付き従って大内家に入って奉行人となりました。しかし、大内義長は1557年に毛利元就に攻められて自害させられました。高橋鑑種は、大内義長の使者として豊後に送られていたため一命をとりとめ、大友氏に帰参し、筑前・宝満城主となりました。しかし、宝満城主・高橋鑑種は、毛利氏の誘いを受けて寝返りました。この時、毛利元就の調略を受けた大友氏の家臣で立花城主・立花鑑載、筑後国衆・筑紫広門も叛旗を翻しました。大友宗麟は戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速を指揮官とする討伐軍を派遣しました。戸次鑑連は、1568年4月から立花城を包囲しました。3ヶ月にわたる攻城戦の結果、7月28日に立花山崖下で激戦となりました。そして、戸次鑑連が立花方の野田右衛門大夫を調略し、立花山城は陥落しました。立花鑑載は自刃しました。立花氏はその後、戸次鑑連がその名跡を継ぎ「立花道雪」となり存続します。その後、尼子氏家臣・山中鹿之助が出雲に攻め込んだため、毛利元就は九州から撤退しました。そのため、高橋鑑種は進退が窮まって大友宗麟に降りましたが、高橋家の家督を剥奪されました。高橋氏は、吉弘鑑理の子・鎮理により名跡が引き継がれ「高橋紹運」となる事で存続します。

次に、和霊騒動です。和霊騒動は、1620年7月28日に発生した宇和島藩の御家騒動です。宇和島藩は、1614年に伊達政宗の庶長子・秀宗が伊予に10万石を与えられて成立した藩です。伊達政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付けて、重臣として藩を運営させました。その中で、山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執りました。初期の宇和島藩の課題は、藩の支配体制を確立する事でした。しかし、宇和島は豊臣氏の時代から領主が頻繁に入れ替わっていたため、領内は疲弊して早くから財政難に見舞われました。その為、伊達秀宗は父・政宗から6万両を借りました。その返済は1635年まで続き、初期の宇和島藩にとって大きな負担となりました。1619年には、大坂城の石垣修復普請を請け負った事から藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立しました。しかし、山家清兵衛は伊達政宗からの信任が厚かった事で、伊達秀宗は山家清兵衛を疎んじて桜田玄蕃を重用しました。こうして、山家清兵衛は失脚しました。翌1620年7月28日深夜、伊達秀宗の命を受けた桜田玄蕃の家臣達が山家邸を襲撃しました。翌未明に山家清兵衛らは討ち取られました。享年42でした。次男と三男も斬殺され、9歳の四男は井戸に投げ込まれて殺害されました。さらに、娘婿の塩谷内匠父子3人も殺害され、生き残ったのは商人に匿われた山家清兵衛の母と夫人だけでした。長男は仙台にいたため無事でした。伊達秀宗は、この事件を幕府や伊達政宗に報告しませんでした。怒った伊達政宗は、五十七騎の一人で重臣・桑折左衛門を通じて伊達秀宗を詰問して謹慎を命じ、幕府に宇和島藩の改易を嘆願しました。伊達秀宗は、幕府や伊達政宗に釈明の使者を出し、妻の実家である彦根藩に仲介を依頼しました。宇和島藩は改易を免れましたが、宇和島伊達家は本家と気まずい仲になりました。この事件後、桜田玄蕃は桂林院殿(伊達秀宗の正室・亀)の3回忌法要の時、大風が吹いて金剛山正眼院の本堂の梁が落ちて圧死しました。この後、山家殺害事件の関係者らが次々と不慮の事故で死亡しました。さらに、宇和島を襲った大地震や台風、飢饉などの凶事、伊達秀宗の長男・宗実と次男・宗時、六男・徳松が早世しました。そして、伊達秀宗も病床に伏しました。この事を「山家清兵衛が怨霊となって怨みを晴らしている」と噂になったため、伊達秀宗は山家清兵衛邸跡に和霊神社を創建して霊を慰めました。

その次に、第二次長州征伐(四境戦争):大島口の戦い、小倉口戦い:田の浦の戦いです。
大島口の戦い:新政府軍に占領された周防大島を奪回するため、「丙寅丸」で高杉晋作が向かいました。幕府艦隊「翔鶴丸・八雲丸・大江丸・旭丸」の四隻を発見すると全速力で突撃を命令しました。不意を突かれた幕府艦隊は右往左往しました。高杉晋作の依頼を受けて柳井に後退していた世良修蔵が率いる「第二奇兵隊」をはじめ諸隊は、大島への渡海を開始しました。長州藩兵の大島来援を知ると、大島の住民はこれを歓迎して長州藩兵への協力を申し出ました。こうして、世良修蔵が作戦立案を担当し、林半七が実戦部隊の指揮を取るという事になりました。源明峠で松山藩家老・菅良弼が率いる部隊を「浩武隊」が撃破しました。清水峠では、松山藩家老・長沼吉兵衛が率いる部隊を「第二奇兵隊」が撃破しました。また、笛吹峠では、「大島農兵」が松山藩兵を敗走させました。こうして、安下庄村に長州軍が進軍すると、松山藩兵は周防大島から退却しました。世良修蔵は残る久賀村の幕府軍撃破の為、清水峠を北上させました。「第二奇兵隊」総督・清水美作が率いる援軍を加えて久賀村に進軍し、幕府軍と戦闘となりましたが、幕府軍を周防大島から退却させました。こうして大島口の戦いは、長州軍の勝利となりました。
小倉口の戦い:田の浦の戦い:長州軍は、幕府軍を撃退して大島を奪回する事に成功しました。次に、高杉晋作は小倉藩領への上陸作戦を指示しました。まず第一陣として山県有朋・三好軍太郎等が率いる「奇兵隊」と、福原和勝が率いる「報国隊」が出撃して関門海峡を渡海しました。「奇兵隊」は大久保海岸に上陸し、「報国隊」は田の浦に上陸しました。小倉藩兵は門司周辺に布陣し、上陸してきた長州藩兵に攻撃を開始しました。しかし、「奇兵隊」の猛攻を支えきれずに敗走しました。その後、下関本営から第二陣が出撃しました。時山直八が率いる「奇兵隊」、熊野直介が率いる「報国隊」が、門司方面に直接上陸を開始しました。この第二陣は門司に布陣していた小倉藩兵と激突し、撃破しました。門司周辺の小倉藩兵を駆逐した長州藩兵は、下関本営に「門司制圧」の合図を送り、これを受けて福田侠平が率いる残りの全軍が門司に上陸しました。小倉城まで攻め込もうと言う意見が大半の中、高杉晋作は制海権が幕府海軍に握られている中での長期対陣は不利と考え、一旦全軍を下関本営に撤退させました。この後、この小倉口は「四境戦争」最大の激戦地となる事になります。

その次の次に、箱根戊辰戦争:小田原藩家老・岩瀬大江進自刃です。岩瀬大江進は、本家の岩瀬正暦の養子となり、1853年に小田原藩の家老となりました。幕末の小田原藩は、佐幕派と尊皇派に別れて統率が取れませんでした。最終的には新政府への恭順を決め、新政府軍に箱根の関所を明け渡しました。しかし、請西藩主・林忠崇や伊庭八郎ら幕臣らが編成した「遊撃隊」がが小田原に入り、藩主・大久保忠礼らと交渉しましたが決裂しました。「遊撃隊」の攻撃によって新政府軍が一時的に不利になると、旧幕府軍に協力しました。そのため、新政府軍の軍監で鳥取藩士・中井範五郎が殺害される事件が起こりました。江戸に在府していた藩士・中垣斎宮の説得を受けて、藩主・大久保忠礼は本源寺に謹慎して再び新政府軍に恭順しました。しかし、新政府軍は激怒し、許しませんでした。岩瀬大江進は小田原藩と藩主の窮地を救うため「殿様御謝罪万分之御一端ニも相成候はば、本懐至極、難有奉存候」と書き置きを残すと、7月28日に切腹しました。11月7日に土佐藩の吉井顕蔵を斬った小田原藩士・小泉彦蔵と山田龍兵衛を鈴ヶ森刑場で斬首、家老・渡辺了叟も岩瀬大江進と同様に自害しました。岩瀬大江進と渡辺了叟の切腹が、小田原藩と藩主を救いました。藩主・大久保忠礼は蟄居の上で家督を養子・忠良に譲る事、石高は11万3千石から7万5千石に削減される事で小田原藩の存続が許されました。

そのまた次に、第一次世界大戦開戦:オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告です。1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都・サラエボでセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺されました(サラエボ事件)。オーストリアのレオポルト・ベルヒトルト外相(二重帝国の共通外相)はセルビア政府に10箇条のオーストリア最後通牒を送付して、48時間以内の無条件受け入れを要求しました。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させる事を除き、要求に同意しましたが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切りました。躊躇するハンガリー首相イシュトヴァーン・ティサと皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われました。ロシア政府は、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持する事を誓約していました。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、ロシア軍部は戦争準備を主張し、皇帝ニコライ2世へ圧力を掛けました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉は決裂しました。ロシア政府は、総動員令を布告しました。ドイツはロシアに動員解除を要求しましたが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻す事は難しいと考えたため、要求に応じませんでした。ドイツ政府は、「三国同盟」に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説きました。ロシアの総動員下令を受けて、参謀総長・小モルトケはかねてからのシュリーフェン・プランを発動させて総動員を下令し、同時にベルギーに対して無害通行権を要求しました。ドイツ政府はロシアに対して宣戦布告し、さらにフランスに対して宣戦布告しました。ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、総動員を下令し、対ドイツ戦を想定した「プラン17」と称される戦争計画を発動しました。イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると外交交渉を諦め、ドイツに宣戦布告し、フランスへの海外派遣軍の派遣を決定しました。また、自治領となっていたカナダも、宗主国イギリスに従い参戦しました。同様にオーストラリアやニュージーランドも参戦する事になります。「日英同盟」によりイギリスと同盟関係にあった日本は、イギリス政府から要請を受け、連合国側としてドイツに対して宣戦布告し、「第一次世界大戦」に参戦します。この後も、オスマン帝国やイタリアが参戦し、やがてアメリカが出てきます。芋づる式に参加国が増え、史上初の世界大戦となるのです。

最後に、第二次世界大戦:大山口列車空襲事件、青森大空襲、一宮空襲です。
大山口列車空襲事件:鳥取発出雲今市(現在の出雲市)行きの下り第809列車は蒸気機関車C5131牽引、次位に廻送機関車48960、客車11両の編成でした。この列車の前2両は増結された病客車(この車輌に赤十字標章が大きく描かれていた)で、呉海軍病院三朝分院を転退院する軍・工廠関係者と付添いの衛生兵、日赤救護看護婦が乗り、他の一般客車は、チ号演習(沿岸防備のための塹壕掘りなど)に動員された国民義勇隊、勤労学徒、軍需工場徴用者、一般乗客等、合計約1200人で超満員でした。第809列車が午前7時15分、大山口駅に到着した際、上空をアメリカ海軍艦載機が旋回しているのを駅長が確認し、駅の東側600mにある上野集落付近の切り割り区間に待避しました。その後、一度駅に戻って全乗客の3分の1にあたる約400人を降ろしましたが、再度上空に敵機約40機が現れたため先程の切り割り区間に退避した直後、一斉に機銃掃射並びにロケット弾にて約30分間連続攻撃を受けました。被害は編成前部に集中しました。本務機関車と廻送機関車が銃弾により損害を受けました。乗務員に被害はなかったものの、病客車を含む客車の前3両には機銃とロケット弾による攻撃が集中し、死者44名、負傷者31名以上という甚大な被害を受けました。また近隣の上野集落の民家も被災し、全半焼3軒という被害が出ました。現場となった切り割り区間は現存し、コンクリートで作られた壁面には銃弾の跡が残っています。慰霊碑が建立され、現在でも被災者・遺族、地元の住民が主体となって事件当日には慰霊祭が行われています。
青森大空襲:1945年7月27日深夜、2機の「B−29」が青森市に飛来し、照明弾とともに6万枚程のビラを撒きました。ビラには数日の内に、青森市を含む11の都市のうち4〜5つの都市を爆撃するから、避難するようにと書かれていました。しかし憲兵隊、警察によって読む事を禁止され、さらに回収されたため、警告が伝わりませんでした。7月28日21時15分、青森県地区警戒警報発令、22時10分、空襲警報発令、前進基地の硫黄島を離陸した「B−29」は、仙台湾から男鹿半島へ抜け、鰺ヶ沢町附近から青森市に向かいました。 そして暗闇に包まれた青森市に現れた62機(内1機は投下失敗)の「B−29」は、照明弾で市内を照らしたのち、22時37分に焼夷弾の投下を始め、23時48分まで続きました。新型の「M74六角焼夷弾」38本を束ねた2186発の「E48焼夷集束弾」が投下され、83000本もの焼夷弾が降り注ぎました。青森市立橋本小学校付近に居た人たちは一気に浦町駅(現在の平和公園)の方向へ逃げていきました。死傷者1767名、焼失家屋18045戸(市街地の88%)、罹災者70166名の被害がでました。東北地方で最大の犠牲者を出しました。
一宮空襲:1945年7月12日深夜から翌日未明にかけて侵入した「B−29」20機の編隊が、市内北部の葉栗・西成両地区と今伊勢町に油脂焼夷弾を投下しました。さらに、7月28日午後10時頃にマリアナ基地を飛び立った「B−29」約260機が一宮市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を開始しました。一宮市は火の海と化しました。攻撃は翌午前2時まで行なわれ、その火は3日3晩燃え続けました。この2回の空襲により、死者727名、負傷者4187名、被災戸数は全市戸数12600戸の83%にあたる10468戸、被災者は全市人口57588名の71%にあたる41027名を数えました。被災面積は80%が灰塵となりました。

今日の誕生日:片山哲(第46代内閣総理大臣)、渡辺美智雄、アルベルト・フジモリ、渡瀬恒彦、セルジオ越後、大瀧詠一、野元英俊(元クリスタルキング)、永島暎子、高橋陽一、桂銀淑、ライオネス飛鳥(元クラッシュギャルズ)、阿波野秀幸、スガシカオ、マイク・ベルナルド、塚田彩湖(元PINK SAPPHIRE)、畑山隆則、雅山哲士、徳重聡、矢井田瞳、益子梨恵、神園さやか、逢沢りな、大空翼

今日の記念日:世界肝炎デー、地名の日、菜っ葉の日、なにわの日、なにやろう?自由研究の日

今日の「今日訓」:本日は、2004年にヨーロッパと中東の患者のグループが、10月1日の「国際C型肝炎啓発デー」として始めたのが始まりで、2007年まで実施されました。2008年に「世界肝炎アライアンス」が5月19日の「世界肝炎デー」を制定しました。2010年から「WHO」の支持を得て、7月29日に「WHO」が認定する世界啓発の日の一つとなりました。アイヌ語地名研究家・山田秀三の1992年の命日で、地名研究家・谷川健一の1921年の誕生日である事から「地名の日」、「7(な)2(ツ)8(ぱ)」の語呂合わせで「菜っ葉の日」、「7(な)2(に)8(は)」(難波・浪速)の語呂合わせで「なにわの日」、「7(な)2(に)8(や)ろう?」の語呂合わせで「なにやろう?自由研究の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する