久しぶりに登場、13人に誘われなかったことにモヤモヤしていた土肥実平。
まぁ史実においては1191年から記録が途絶えていることから、その辺で失脚もしくは亡くなったと考えられていて、1199年の十三人の合議制には加わりようがなかったりする。もっとも1220年頃まで存命説もあるが。
実平の嫡男・遠平は、平家討伐の功績で安芸沼田の地頭職を貰い、嫡男の維平には相模の土肥本領、養子の景平(実父は平賀義信)には安芸沼田を継承させた。
しかし、維平は「和田合戦」で血縁が濃い和田方についてしまい、一族の多くともに滅亡。遠平は維平と距離を置いていたためお咎めなしだったが、和田や一族を見殺しにしてしまったのがアレだったのか、合戦以後は安芸沼田に下向して戻らなかった。
まぁ和田に付いた維平を時勢が読めないと批判することもできるのだけれども、同じように同族でありながら和田を見捨てた三浦なんかは、他の御家人から「友を食らう三浦の犬」と陰口叩かれたわけで、維平の判断は仕方なかったように思う。
安芸沼田に居着いた一族は「小早川」を名乗り、相模にいた頃と同様に水軍として活動した。後に大江広元の一族である毛利氏に乗っ取られ、さらに素性不明の木下家に乗っとられた。
和田合戦は1213年。実平が1220年近くまで生きていたとしたら、どんな気持ちで見ていたのだろうか。
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