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2022年07月17日00:58

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07月17日の日記

今日の出来事:587年−蘇我馬子が穴穂部皇子を暗殺、645年−日本初の元号「大化」が制定される、1402年−靖難の変で勝利した燕王朱棣(永楽帝)が明の皇帝に即位、1453年−百年戦争:最後の戦いに当たるカスティヨンの戦いの結果、フランスが勝利、1488年−加賀一向一揆:加賀守護・富樫政親が殺害される、1531年−大物崩れ、1532年−飯盛山城の戦い、1584年−竹ヶ鼻城の水攻め、1589年−摺上原の戦い、1868年−北越戊辰戦争:島崎の戦い、1877年−西南戦争:踊・大窪・財部の戦い、1945年−第二次世界大戦:沼津大空襲、桑名空襲、日立艦砲射撃、1966年−「ウルトラマン」第一話の放送がTBS系各局で開始、1977年−人気絶頂中のアイドルグループ・キャンディーズが日比谷野外音楽堂でのコンサート中に突然の解散宣言をし「普通の女の子に戻りたい」が流行語になる、2005年−「知床」が世界遺産に登録、2011年−FIFA女子ワールドカップ決勝戦で、日本代表(なでしこJAPAN)がアメリカ代表をPK戦で破り、初優勝を飾る、2016年−国立西洋美術館が世界遺産登録

今日は、蘇我馬子が穴穂部皇子を暗殺です。敏達天皇が崩御し、殯宮で敏達天皇の葬儀が行われると、穴穂部皇子は天下を欲し「何故に死する王に仕えるのか、生きる王に仕えない」と憤慨しました。そして、穴穂部皇子ではなく大臣・蘇我馬子の推す大兄皇子(用明天皇)が即位しました。穴穂部皇子はこれに対抗する為に大連・物部守屋と結びました。穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を得ようと、殯宮に押し入ろうとしました。先帝の寵臣・三輪逆は門を閉じてこれを拒びました。穴穂部皇子は七度門前で呼びましたが、遂に宮に入る事ができませんでした。穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であると相談し、物部守屋は兵を率いて磐余池で三輪逆を包囲しようとしました。三輪逆は逃れて、炊屋姫の後宮に隠れました。しかし、密告により三輪逆の居所が知られ、穴穂部皇子は三輪逆とその子を殺すよう物部守屋に命じました。こうして物部守屋は、三輪逆を討ちました。その後、用明天皇は崩御しました。物部守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとしましたが、蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯連丹經手、土師連磐村、的臣眞に速やかに穴穂部皇子を誅殺するよう詔しました。その日夜半、佐伯連丹經手らは穴穂部皇子の宮を囲みました。衛士は楼を登って、穴穂部皇子を襲うと肩を斬りました。穴穂部皇子は楼から落ちて隣家へ走って入りました。衞士らは灯をかかげて探し出すと、穴穂部皇子を殺害しました。穴穂部皇子と仲が良かった宅部皇子も誅殺されました。この後、蘇我 対 物部の「丁未の乱」が起こる事になります。

次に、靖難の変で勝利した燕王朱棣(永楽帝)が明の皇帝に即位です。明では、初代皇帝・洪武帝の晩年に王朝創建の功労者に対する粛清が行われ、自らの男子を各地の王に封じ、「皇明祖訓」を制定して統制しました。明は長江以南の南京を都とした政権で、北方のモンゴルに対する備えとして燕王・朱棣(後の永楽帝)らが封じられ、科挙においても北方出身者を多く登用しました。皇太子の朱標が病死し、朱標の次男である朱允?(建文帝)が皇太孫に指名されました。洪武帝が死去すると、朱允?は16歳で即位しました。建文帝にとって叔父に当たる朱棣ら諸王は警戒されていました。即位後の建文帝は、権力強化の為に側近の斉泰や黄子澄の進言を容れて、大々的な削藩政策を強行し、5人の王を廃絶しました。朱棣に対しては燕王府の軍の解体を命じるなどの挑発を行いました。朱棣は服従の意思を示しましたが、建文帝は王位を剥奪する為に罪状作りの情報を集め、朱棣は包囲されました。朱棣は軍師の姚広孝の進言を容れ、北平(現在の北京)で挙兵しました。朱棣は「皇明祖訓」に基づき、建文帝の側近である斉泰と黄子澄の両名を「君側の奸」として討伐する事を大義名分にしました。皇帝側は、はじめは優勢でしたが敗退を重ね、斉秦は敗戦の咎により司令官を解任されました。李景隆は燕軍に降伏、方孝孺が指揮する軍も大敗を喫し、首都・南京が陥落しました。建文帝は宮殿に火を放って自害したとされていますが、遺体は発見されませんでした。朱棣は南京で皇帝に即位しました。簒奪者として即位した永楽帝は、斉泰や黄子澄、服従を拒否した方孝孺らとその一族を処刑し、「建文」の年号を廃して「洪武」に編入し、洪武帝を継ぐ二世皇帝と称しました。1421年には北平へ遷都し、対外遠征や朝貢体制の確立に努めました。

その次に、百年戦争の最後の戦い、「カスティヨンの戦い」でフランスが勝利です。フランス人、ブルターニュ人とイングランド人の間で行われた「百年戦争」最後の戦いです。ボルドーが陥落し、フランス軍の勝利で百年戦争は終結しました。現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争でもあります。この戦争の後、イングランドでは、「薔薇戦争」が起こってさらに疲弊する事になります。

その次の次に、加賀一向一揆:加賀国守護・富樫政親が殺害されるです。本願寺中興の祖・蓮如は、吉崎御坊に滞在しました。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していきました。加賀の守護・富樫政親は弟の富樫幸千代と対立しました。蓮如は、富樫政親の要請を受けて内紛に介入し、富樫幸千代を倒しました。蓮如はこれによって守護の保護を受ける事を期待していましたが、逆に富樫政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて、門徒の弾圧を開始しました。蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は富樫政親に追われて越中・瑞泉寺に逃れました。ところが、今度は越中の石黒光義が、富樫政親と結んで門徒弾圧に出ました。石黒光義は瑞泉寺を襲撃しましたが、逆に討ち取られました(越中一向一揆)。富樫政親は加賀の一国の支配を目指して9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐「鈎の陣」に従軍しました。しかし、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起しました。富樫政親の叔父・富樫泰高を守護に擁立して、高尾城を攻めて富樫政親を自害させました。以後、加賀は蓮如の3人の息子(松岡寺蓮綱・光教寺蓮誓・本泉寺蓮悟)が実質統治する事になります。蓮如はこの後、寺務を息子・実如に譲って山科南殿に隠居して「信證院」と号します。そして、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所としました(後の石山本願寺)。こうして1580年に織田信長に敗れるまでの90年間、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれる事になります。

そのまた次に、大物崩れです。大物崩れは、1531年7月17日に摂津大物(現・兵庫県尼崎市大物町)で行われた、赤松政祐、細川晴元、三好元長の連合軍が細川高国、浦上村宗の連合軍を破った戦いです。1527年「桂川原の戦い」で敗れて近江に逃れた管領・細川高国は、援軍要請を頼みましたが全て断られました。そんな中、備前守護代・浦上村宗が要請に応じました。浦上村宗は、細川高国の権勢を借りて播磨統一を果たそうとしました。その後、細川・浦上連合軍は1530年に浦上村宗の念願であった播磨統一を成し遂げると、今度は細川高国の宿願である細川晴元を打倒する為の戦いを開始しました。摂津へ侵攻し、池田信正が守備する池田城を1531年4月3日に落城させました。翌日には、京都を警護していた細川晴元派の木沢長政軍が撤退しました。こうして、細川高国が京都を奪回しました。堺公方側は、三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍1万5千と阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍8千が、摂津・中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃した「中嶋の戦い」で一進一退となりました。播磨守護・赤松政祐は、細川高国の援軍として西宮の六湛寺に着陣しましたが、神呪寺に陣変えしました。7月17日、神呪寺にいた赤松政祐が細川晴元方に内応し、細川・浦上軍を背後から攻撃した為、一気に勝敗が決しました。赤松政祐は以前から父・義村の仇を討つ為に浦上村宗を狙っており、出陣する前から堺公方・足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していました。この赤松軍の寝返りは細川軍に動揺をもたらし、浦上軍に従っていた者の寝返りを誘発しました。赤松軍が中嶋の細川高国軍を奇襲すると、それに呼応して三好軍が総攻撃を仕掛けました。浦上村宗を始め、和泉守護・細川澄賢、侍所所司代・松田元陸、伊丹国扶、薬師寺国盛、波々伯部兵庫助、瓦林日向守ら主だった部将が討死する大敗を喫しました。この結果、それまでの膠着が嘘のように戦局が大きく崩れて、細川高国の滅亡に繋がりました。そこから地名と共に「大物崩れ」と呼ばれるようになりました。細川高国は戦場を離脱し、大物城へ退避しようとしましたが、既に赤松方の手が回っていました。そこで、尼崎の町内にあった「京屋」という藍染屋に逃げ込んで藍瓶をうつ伏せにして、その中に身を隠していました。しかし、密告者の報を受けた三好一秀によって7月18日に捕縛されました。三好一秀は近所で遊んでいた子供達に、まくわ瓜をたくさん持ってきて「細川高国の隠れているところを教えてくれたら、この瓜を全部あげよう」と言いました。子供達はその瓜欲しさに、細川高国が隠れていた場所を見つけました。そして、7月21日に細川晴元の命によって、細川高国は尼崎広徳寺で自害させられました。一方、惨敗した浦上軍の将士達は、生瀬口(兵庫県宝塚市)から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の追撃に遭い、ほぼ全滅しました。父を浦上村宗に殺害された怨みを持つ赤松政祐は、伏兵を生瀬口や兵庫口に配置して落ち延びる兵を一網打尽にしました。「永正の錯乱」から始まった細川政元の養子3兄弟(澄之、澄元、高国)の争いは、「大物崩れ」で最後の養子・細川高国が自害させられた事によって幕を閉じました。

そのまた次の次に、飯盛山城の戦いです。飯盛山城は、畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣・木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えました。足利義維を擁する細川晴元が、実権を握りました。しかし、「大物崩れ」で細川高国を討滅した三好元長と木沢長政の対立が、新たな戦乱を引き起こしました。対立の発端は、河内を巡る主権争いでした。守護代・木沢長政が守護・畠山義堯から守護職を奪い獲る計画が発覚しました。1531、畠山義堯は三好元長の一族・三好一秀に頼んで飯盛山城を攻めました。しかし、木沢長政からの援軍要請を受けた細川晴元によって撤兵命令が出された為、三好一秀は兵を収めました。翌1532年、態勢を整えた畠山義堯と三好一秀は飯盛山城を再攻し、三好元長に増援を要請しました。木沢長政も再び細川晴元に援軍を要請しましたが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除する事が出来ませんでした。そこで細川晴元は、山科本願寺の法主・証如に一揆軍の蜂起を要請しました。17歳になった証如は、祖父・実如の遺言であった「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って7月7日に山科本願寺から大坂に移動し、摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員を掛けました。これに応じた門徒は、総勢3万に及ぶ大軍でした。7月17日に飯盛山城の攻囲軍を背後から襲った一揆軍は、三好一秀を含む200余兵を討ち取り、退却する畠山義堯を追撃して7月19日に自害に追い込みました。7月22日、三好元長の逃げ込んだ和泉顕本寺を取り囲んだ一揆軍に、各地より続々と新たな門徒が集結して10万に膨れ上がりました。三好元長を含む80兵余りを血祭りに挙げた一揆軍の脅威により、細川晴元と木沢長政は勝利しましたが、この一揆軍の暴走が「天文の錯乱」に発展していきます。

さらに次に、竹ヶ鼻城の水攻めです。織田信長の死後、実権を掌握した羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康とが対立し、「小牧・長久手の戦い」が起こりました。長久手で徳川家康に敗北を喫した羽柴秀吉は、作戦を変更して伊勢長島城の織田信雄を脅かし、家康を誘い出そうと図りました。羽柴秀吉は細川忠興らを動員すると、まず、織田信雄方の加賀野井城を落城させ、翌日には竹ヶ鼻城の北西1キロメートルにある間島村の丘陵に付け城を築いて、そこを本陣としました。竹ヶ鼻城主・不破広綱は長年、織田信長に仕えてきましたが、羽柴秀吉とも昵懇の間柄だった為、双方のどちらに付くか城内で大評定を開いた結果、織田信雄に付く事に決していました。この城は東側に木曽川の支流・足近川につながる逆川が流れ、堤防が築かれていました。そこで羽柴秀吉は、城の北から西、南へかけても、半円形に約3キロメートルに及ぶ、高さ約3メートル、幅約25メートルの堤を築き、そこに足近川の水を引き入れて城を水攻めにする事にしました。将兵のみならず、付近一帯の住民もかり集めて突貫工事を行いました。この堤は「一夜堤」と呼ばれていますが、実際には5、6日は要しました。五月雨により増水した足近川の水により、町家は約1メートル浸水し、城は二の丸まで冠水しました。城内では筏を組んだり簀を張ったりして対処しましたが、家中には逃げ場を失った鼠や蛇が侵入して婦女子を脅かしました。城側は織田信雄や徳川家康に救援を要請する使者を送りましたが、本多忠勝や織田長益・滝川雄利による援軍は、秀吉側に阻まれて途中から引き返してしまいました。しかし、秀吉も家康や織田信雄が自ら出陣して来ないのでは、長々と戦いを続けるのが無意味と考え、城主以下全員の命を助ける条件で開城するよう勧告しました。これを受け入れた不破広綱は長島の織田信雄のもとに退去し、竹ヶ鼻城を接収した秀吉も大坂城へ帰還しました。

さらに次の次に、摺上原の戦いです。伊達政宗は「人取橋の戦い」以降、蘆名氏・佐竹氏との対決姿勢を強めながら、仙道筋(現在の福島県中通り)で勢力を拡大しました。豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令「惣無事令」を出しました。しかし、伊達政宗は蘆名氏の本拠・会津を奪うべく行動を開始しました。伊達政宗は猪苗代盛国の内通(盛国の長男・盛胤は蘆名軍先鋒として参戦)で本宮から会津への道を確保すると猪苗代城を拠点にしました。一方の蘆名義広は須賀川城から猪苗代湖南岸を進み、軍を黒川城へ集結させました。高森山に布陣した蘆名勢は民家に火を放ち、伊達勢を挑発しました。伊達軍は21000人、蘆名軍は18000人とほぼ互角でした。しかし、蘆名軍は1580年の蘆名盛氏の死去以来、主家に不満を持つ者、伊達氏に内通する者、佐竹氏より送り込まれた当主・蘆名義広に対して不満を抱く者などがおり、その様々な思惑から団結力がありませんでした。合戦は猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である摺上原で行われました。開戦当初は西からの烈風が追い風となり、先鋒・富田隆実の活躍もあって、蘆名軍が有利に戦っていました。暫くして風向きが東風に変わると伊達軍が逆に圧倒し始め、蘆名軍は総崩れとなりました。敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ、被害が拡大しました。蘆名氏は金上盛備、佐瀬種常、佐瀬常雄など有力家臣の多くを失い、大打撃を受けました。当主・蘆名義広は、敗戦による家臣の背反や「奥州惣無事令」を気にして決戦に踏み切れず、実家の常陸・佐竹家へ落ち延びました。こうして、伊達政宗は南奥州の覇者となり、居城を会津・黒川城へ移しました。この後、伊達政宗はさらに兵を須賀川へ進めて二階堂氏を滅ぼし、結城義親・石川昭光・岩城常隆らを服属させます。しかし、これにより「小田原征伐」に遅参する事になります。翌年の豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、会津攻略は秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、獲得地の会津領ほかを召し上げられました。しかし会津の地は蘆名氏が復帰する事はなく、蒲生氏郷に与えられる事になります。

さらにまた次に、北越戊辰戦争:島崎の戦いです。新政府軍は、与板と出雲崎の中間地点にある島崎を占拠する為に、出雲崎に駐留していた高田藩二小隊と加賀藩一小隊を向かわせました。会津藩・一ノ瀬要人と桑名藩・立見鑑三郎の一隊が応戦しましたが、迂回してきた西軍の攻撃の為に劣勢に陥ってしまいました。しかし、列藩同盟軍の一隊が現れ、西軍を背後から襲撃しました。この一隊は、出雲崎の西軍に備えて寺泊に布陣していた会津藩・新遊撃隊、結義隊、庄内藩兵と観音寺久左衛門こと「越後一の侠客・松宮雄次郎」が率いる「聚義隊」でした。松宮雄次郎は今朝方から、与板方面で砲声が聞こえる事に気付き、速やかに援軍を出す様に謀り、渡部英次郎が率いる「結義隊」、庄内藩兵、そして、松宮雄次郎が率いる「聚義隊」が寺泊を発して間道を島崎へ向かったのでした。不意を付かれた西軍は慌てふためき、退路を遮断される恐れも出てきた為に急いで後退し、出雲崎まで引き揚げました。

さらにまた次の次に、西南戦争:踊・大窪・財部の戦いです。横川方面が政府軍に制圧されてしまった為、7月1日に薩摩軍の「雷撃隊」、「干城隊」、「正義隊」等の諸隊は踊に退却し、陣をこの地に敷きました。政府軍は7月6日、国分に進入して背後より踊の薩摩軍を攻撃し、大窪に退却させました。薩摩軍は襲山の桂坂・妻屋坂を守備する為「干城隊」などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせましたが、踊街道から政府軍が進出しているとの情報を受け、「正義隊」、「雷撃隊」、「干城隊」がこれを防ぎました。また、政府軍は襲山街道からも攻めてきた為、「干城隊」、「雷撃隊」がこれを防ぎましたが、決着はつかずに両軍が兵を退きました。ここで政府軍は、第二旅団全軍をもって大窪の薩摩軍を攻めました。7月12日、辺見十郎太は赤坂の政府軍の牙城を攻撃する為、「雷撃隊」を率いて財部の大河内に進撃しました。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっている地形となっていました。政府軍はその地形に沿う形で陣を敷いていた為、薩摩軍は左右翼に分かれて山道から政府軍を奇襲して優位に立ちましたが、雨が降って来ると進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げました。7月17日、辺見十郎太は「奇兵隊」を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の政府軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発しました。辺見十郎太らの諸隊は政府軍に対して善戦しましたが、河野主一郎が本営に帰還するよう命じられた事による右翼の指揮官の不在と、政府軍の援軍の参戦と弾薬の不足により、「雷撃隊」は高野へ、「奇兵隊」は庄内へとそれぞれ退却しました。

さらにまたその次に、第二次世界大戦:沼津大空襲、桑名空襲、日立艦砲射撃です。
沼津大空襲:7月17日午前1時頃、アメリカ軍第20航空軍第58航空団のB−29、130機の編隊が海軍工廠や中小軍事工場のある沼津市街上空3200mに侵入しました。愛鷹山と香貫山の高射砲が迎撃しましたが3時頃までに9077発、1039トンの焼夷弾を投下して9523戸が焼失、274人が死亡しました。この空襲により、市の89.5%が破壊されました。
桑名空襲:7月17日午前1時30分、「B−29」の空襲によって市内の約80%が焼失しました。更に7月24日 午前10時頃からの攻撃で市内西北部一帯が粉砕されました。この両日の空襲で市街地の約90%、全市民の約70%が罹災しました。死者・行方不明者657人の被害が出ました。
日立艦砲射撃:7月17日午後11時14分から翌18日午前0時11分、アメリカ海軍第三艦隊の第34.8.2任務隊所属の戦艦5隻(「ウィスコンシン」、「ミズーリ」、「アイオワ」、「ノースカロライナ」、「アラバマ」)、軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻の計16隻が日立沖に現れました。まず、多賀地区、続いて勝田地区への艦砲射撃を行いました。イギリスの戦艦3隻(キング・ジョージ5世他)もこの艦砲射撃に参加しました。多賀地区では、日立製作所多賀工場に530発、同電線工場に126発、同山手工場に89発、日立鉱山電錬工場に125発の合計870発の16インチ対陸上砲弾が撃ち込まれました。この砲弾の大部分は工場外の住宅地に落下し、死亡者317人、行方不明者9人、重軽傷者367人、全壊637棟、半壊1059棟の被害を出しました。また、勝田地区では日立兵器会社に224発、日立製作所水戸工場に144発の合計368発の砲弾が撃ち込まれ、日立兵器会社は壊滅しました。それ以外に、死者77人、家屋の全壊・全焼が34棟、半壊69棟、一部損壊が199棟の被害が出ました。

さらにまたその次の次に、「知床」が世界遺産に登録です。「知床」は、北海道の東端にあるオホーツク海に面した知床半島と、その沿岸海域が登録の対象となっています。半島中央部は千島火山帯が貫き、海岸線は荒く海に削られた地域です。冬には世界で最も南端に接岸する流氷が訪れます。この流氷により、大量のプランクトン、サケなどの豊富な魚介類が生息します。サケは秋に「知床」の河川を遡上し、ヒグマやオジロワシなどに捕食されます。これらの動物の排泄物および死骸は、植物の栄養素として陸地に還元されます。このような、海と陸との食物連鎖を見る事のできる貴重な自然環境が残る点が「国際自然保護連合(IUCN)」に評価され、2005年7月17日に南アフリカ共和国のダーバンで行われた「第29回ユネスコ世界遺産委員会」で「世界自然遺産」に登録されました。主な景勝地:知床八景(オシンコシンの滝、オロンコ岩、夕陽台、プユニ岬、フレペの滝(乙女の涙)、知床峠、知床五湖、カムイワッカの滝)、知床岬、羅臼湖、マッカウス洞窟(ヒカリゴケ)

最後に、国立西洋美術館が世界遺産に登録です。国立西洋美術館は、東京都台東区の上野公園内にある、西洋の美術作品を専門とする美術館です。国立西洋美術館は印象派など19世紀〜20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年に設立されました。実業家・松方幸次郎は、20世紀初めにフランスで多くの美術品を収集しました。しかし、コレクションは第二次世界大戦後、フランス政府によって敵国資産として差し押さえられました。松方コレクションが日本に返還される際の条件として、国立西洋美術館が建設される事となりました。本館の設計は、ル・コルビュジエによりましたが、彼の弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が実施設計・監理に協力して完成しました。新館は、前川國男が設計しました。現在は、松方コレクションに加えてルネサンス期〜20世紀初頭までの西洋絵画・彫刻作品の購入を進め、常設展示しています。西洋のオールド・マスター(18世紀以前の画家)達の作品を見る事が出来る美術館として、日本有数の存在となりました。2016年7月17日、第40回世界遺産委員会で国立西洋美術館を含む7か国17資産で構成される「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」の構成資産として、「世界文化遺産」に登録されました。

今日の誕生日:徳川家茂(江戸幕府・第14代将軍)、丹波哲郎、青島幸男、淡路恵子、矢追純一、高木守道、峰岸徹、アンゲラ・メルケル、大竹しのぶ、杉山清貴(杉山清貴&オメガトライブ)、ピコ太郎、長江健次(元イモ欽トリオ)、清宮克幸、北村一輝、田中律子、古坂大魔王(元底ぬけAIR−LINE)、トシ(タカアンドトシ)、あさみ(元カントリー娘。)、浅田舞、姫ちゃん、梅本まどか(元SKE48)、大川藍(元アイドリング!!!20号)、北野日奈子(元乃木坂46)、井上玲音(Juice=Juice、元こぶしファクトリー)、ニャロメ

今日の記念日:国際司法の日、あじさい忌、東京の日、理学療法の日、漫画の日

今日の「今日訓」:本日は、1987年、石原裕次郎の忌日で「あじさい忌」、1998年、「国際刑事裁判所の設立に関する国際連合全権外交使節会議」で「国際刑事裁判所ローマ規程」が採択された事を記念して「国際司法の日」、1841年に週刊誌「パンチ」が発刊された事を記念して「漫画の日」、慶応4年(1868年)7月17日、明治天皇の詔勅により「江戸」が「東亰」に改称された事を記念して「東京の日」、1966年に「日本理学療法士協会」が結成された事を記念して「理学療法の日」となりました。
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