後藤基清
知略66武力71優雅32勇名31菩提55加護69無常34弓術70
西行法師こと佐藤義清の甥っ子で、頼朝の同母妹の坊門姫を養育した後藤実基の養子。
当然のごとく源平の争いでは頼朝方で、養父とともに屋島の戦い等で活躍。勝手に朝廷から官位を授かって叱責を受けたが、その他多くの御家人らと一緒に許されている。
源平の争いの後は、坊門姫の夫である一条能保に家人として仕える。一条能保は頼朝の義弟として朝廷でのポジションを得たが、まず1190年に坊門姫、97年に能保、98年に能保と坊門姫との唯一の男子・高能が相次いで死去。一条家のポジションは揺らぎつつあった。
99年、鎌倉から頼朝重体の報告が朝廷に届く。鎌倉からの要請に応じて、朝廷を牛耳っていた土御門通親の指揮の下、頼家への代替わりに向けて官職授与などの手続きが行われていたが、京都内でクーデターの噂が立つようになり、土御門通親らが一時屋敷の防備を固める事態。しばらくは物々しい空気であったが、幕府が通親への支持を表明したことにより落ち着く。
実行犯として捕縛されたのは後藤基清ら三人の武士で、三人とも左衛門尉の官職を持っていたことから「三左衛門事件」と呼ばれるようになる。さらに頼朝の母方の従兄弟に当たる源隆保ら三人が朝廷から追放され、僧侶の文覚も流刑となった。
真相はハッキリしていないが、処分された人間がだいたい一条家の関係者であることから、「頼朝の死でさらにポジションを失うと不安になった一条家が、クーデターによる一発逆転を狙った」と見られている。これだけのことをやらかしたのに、基清を含めてほとんど誰も処刑されてないあたりが、頼朝の身内だった一条家のやらかしだった証拠のように思える。
唯一処刑されたのが、平維盛の息子(清盛のひ孫)で文覚の弟子になっていた六代。とばっちりもいいところだと思うのだけれども、あるい六代を担いで旧平氏勢力を動員する計画もあったのだろうか。よく分からない。
処刑はされなかったものの、ポジションを失ってしまった基清だったが、後鳥羽帝に取り立てられて播磨守護にまでなる。承久の乱でも、当然のごとく院側で参戦。
基清の子・基綱は、後に鎌倉の四代将軍となる藤原頼経(坊門姫の娘の子)の側近として鎌倉に在ったため、承久の乱では鎌倉方。敗北して捕らえられた基清は、基綱の手で処刑された。
基綱は幕府の官僚として活躍。後に藤原頼経が鎌倉から追放されると、基綱もそれに従って京都に戻るが、功労者として六波羅に世襲のポストをもらう。なお基清の子孫(基綱の弟の家系)からは、後藤又兵衛が出ている。
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