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2022年06月07日09:03

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伏線の回収とは作品をダメにする悪魔の言葉。

「ちむどんどん」暢子と房子の縁が判明 ニーニー早速行動…ネット「イヤーな予感がする」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6985855
なぜ同じ沖縄出身らしいイタメシ屋のオーナーのところで働くことになったのか?そのオーナーの正体は父親の死後に世話になるはずの東京の親戚だった、やった、伏線の回収だあ!って誰が喜ぶのか?視聴者か?それとも脚本家か?
何度も書いてきたことだが、『伏線の回収』とは後出しジャンケンであり、辻褄合わせである。この言葉を誰が使い出したのかは私は知らないが、映画評、ドラマ評に盛んに用いられるようになって10年になるのか、もっとか?
私は中年どん詰まりであって、テレビの創成期とマンガ週刊誌と怪獣ブームと第一期テレビアニメのブームを子供時代に経験したが、こんな言葉を聞いたことがなかったと思う。ただ限定的に、ミステリーや推理ものに使われたような気もする。例えば杉下右京が容疑者のアリバイ崩しに、ほら、あの時ですよ〜、あなたはこんなふうに言われましたよね(と、その場面がインサートされる)、その時からどうもおかしいと思ったんですよ、的な。しかしそれがいつのまにか一般のドラマや映画の批評にも使われるようになってしまった。
この言葉は作る側にとっては便利このうえない。なぜなら結果が決まっているので決定した未来からそこに結びつくいくつかの線(それこそ伏線)を、思わせぶりに置いておけば済むからだ。これは演劇的な(あるいは史劇的)手法と言ってもいい。演劇はラストシーンが決まっていて、そこに至る序盤がある。シェイクスピアでも鎌倉殿でもラストは変更できないので、その途中をいかにひねるか?観客の期待を裏切って、それでもお約束の場所に着地するしかない。劇作家がドラマを描くときに悩むのはそこであって、安易なご都合主義の罠に落ちるか、それとも結果がわかっていてもワクワクハラハラさせるか、である。
鎌倉殿の三谷幸喜はもちろん劇作家でもある。その伏線の回収の罠に敏感だから視聴者の期待を裏切ることに長けている。おそらく三谷自身伏線の回収なんて思ってもいないのだろう。(私は鎌倉殿に批判的だが、ちゃんと評価するところは評価している)
しかし、ちむどんどんについては、ご都合主義が酷すぎないか?と思うのだ。それは世評高かった前作のカムカムも実は同じだったのだが。そしてそのわざとらしさが目立つのと反比例して作品のテーマがどんどん薄らいでいく。
私は、伏線とか伏線の回収という言葉で全てを解決しようとする作品を評価しないし、それに依存する作家も、その言葉を多用するメディアも、視聴者も評価しない。人生の面白さとは未来が決まっていないところにある、今の決断や思いによって、幾つもの未来がある。その面白さを再現するのがドラマや映画であって、作家が伏線の回収なんて言い訳に逃げてはいけない。
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