男の姿が見えなくなったところで、ようやく首を動かすことができた。
わずかに目眩を感じはしつつ、後ろを振り返ってはみたが、
やはりあの男はもうそこにいなかった。
そういえば動けないのは5分間だと言っていた。
それだけあれば角を曲がって、闇に紛れる時間は充分あったと
いうものだろう。
実際追いかける気などなくしていた。
今さら、あの男を捕まえたところで何になるだろう?
ドレスの右側に挟み込むようにして、元あった場所に
封筒が残されていた。
悪い冗談だというような、まるでゴミでも渡されたような
気分の悪さをを感じながらも、封筒を開いてみると、
お金が残っていた。
どうやら半分だけ持ち去ったようであり、
おかしくてたまらなくなった。
油断のならないろくでなしのくせして妙に義理堅いような。
なんておかしな男だろうか?
そうして笑い出しそうになっていたところで、もはや馴染みの顔と
なっている、クロイド言うところのMrブリック・ウォールとか
なんとかいうたちのわるい連中が子分を引き連れて、角を曲がり、
ジェニファーに迫ってきていた。
「てめぇ、この野郎!」
などとリーダーと思しき男が叫んでいて、
ジェニファーは駆け足で逃げ出していた。
サンダル履きでは満足な状態ではないにしても、
追いつかれたとしたら身の破滅というものだろう。
もはや選択の余地などあるまい。
右側の壁の前で立ち止まり、そう己に言い聞かせていた。
集中だ!集中しろ!集中するのだ!
ブラに下着、お金も含めて、うまくやらねばなるまい。
ブラに下着、お金も、
そう言い聞かせ、壁に向かった瞬間、アドレナリンが
迸り、今度は容易に力が発動し始めた。
身体全体が幽体化していたが、位相の変化した己の
身体の感覚はしっかりあった。
強風のごとく堅固な壁を通り抜けながらも、手に掴んだ
お金の感覚は影のように薄れてはいても、感じることは
できていた。
実体化したのは、赤い豪奢なカーペットのある部屋で、
正装した2ダース程の男女がテーブルを前に座っていて、
ジェニファーに視線を向けたものだから、うろたえて
立ち尽くしてしまった。
どうやらレストランの晩餐会場に出くわしてしまった
ようだった。
傍では、ウェイターがチーズケーキの載ったトレイを
持ち上げたところで動きを止めていて、フォークを
持ち上げ、口のところまで運んだところで、絶句した
といった者や、ティーカップをカタカタ言わせて
震えているものや、コーヒーカップを落とした者もいて、
皆驚いた視線を向けている。
ドレスとサンダルを置いてきてしまっていて、ブラと
下着だけの姿であることに気づいた。
ドレスコードに合わない格好だわ、と苦笑しつつ、
いい余興になったのではなかろうか、などと考え
ながら、ともあれ封筒は握ったままであることに
安堵しつつ、肌がヒリヒリする感覚を無視して、
笑顔をつくり、愛想良く手を振ってみせ、
「それでは皆さん、良い夜を」と言い添えて、
反対側の壁に飛び込んでいたのだ。
「これがマンハッタン流ってやつかな」などと
言う声を耳にしながらその場を後にすることに
なった。
そこでジェニファーは障壁を通過するには問題
ない能力ながら、長い距離を移動するには難が
あるのではないかと思いつつ、グランドストリート
地下鉄のホームの外れにある歩道に出ていて、
歩道や壁に沈み込んで、実体化しようとしてみたが、
うまくいかなかった。
ホームに出て、実体化ができたと思ったところで、
ならず者達が二人そこにいるのに気づいた。
彼らは降りたままのゲートを壊して押し通り、
ジェニファーに向かってきたではないか。
再び後ろに下がり、壁に飛び込んで、幽体化したまま
隠れ潜むことにした。
そのままそこにいたら、コンクリートの一部になって
しまうのではなかろうかと考え、やつらがいなくなる
までだとは思いながらも、そううまくいくものかとも
思い、動くべきだろうかと考えつつ、そのまま
じっとしていると、しまいには身体がばらばらに
なって、ふらふらと覚束なくなり、細胞が流れる
ようにして散ってしまうのではなかろうか。
そんな考えに捕らわれ、めまいと気分の悪さを
感じ始めたものだから、ともかく地下鉄のホーム
からは出ることにした。地下鉄を出て、路上に
戻りはしたが、歩道を歩くことはなるべく避け、
ギャングが探しているかもしれないと用心し、
横切るに留めて進んでいった。
そうしてビルの谷間をカラスが過るのを見ていると、
裸足の脚に切り傷だとか痣だのがついているのに
気づき、
このまま最悪な気分のまま、街の路地を
進まなければならないと思うと、
寒さがより身に染みるように感じ、
一体どれくらい進んだかわからないにせよ、
できるだけ引き離せたには違いあるまい。
おそらく30分ぐらいは経ったのではなかろうか。
肺が火を噴いているように思い、夜も半分は
過ぎたように感じ、
イーストリバーのたもとまで辿り着いていることが
わかった。
ならばもう安全というものだろう。
視界が霞んでいて、胃がひっくり返ったように感じ、
壁に沈み込むことをしなかったものだから、肩に
痛みを感じはしたものの、構わずその身を預けていた。
もう充分だ。
休むべきなのだ。
とはいえまたもや考えずにはいられなかった。
幽体化し続けるとどうなってしまうのだろうか?
固体に戻るのを忘れるまで、実体化していない状態を
続けたならば、分子の結合が弱くなって、風に吹かれた
塵のように崩れ去ってしまうのではなかろうか?
充分に起こりうると考えておいた方がいいだろう。
はっきりそう思えるということは、エース能力からの
メッセージであって、何かを伝えようとしているのでは
あるまいか?
そんなことを思いつつも、
今度は壁に飛び込むことはせず、ひたすら駆けていた。
何度も角を曲がり、北に続く河に沿って進んでいた。
街に立ちこめるように感じていた闇と影も薄れてきて、
向かう先に、ライオンに守られた戸口が見えてきた。
石造りのライオンに守られた正面入り口を迂回して、
回り込むと、中からはっきりとした白い灯りの漏れた
入り口があって、その上にライトアップされた看板が
あり、<救急>の文字が見て取れた。
その上には他にも看板があって、
ブライス・ヴァン・レンスラー記念クリニック。と
読み取れた。
病院で安全でなければ、安全な場所などないのでは
あるまいか。
非常口を覗いてみたが、信じられない背のくらい、
背の高い緑色したジョーカーが立っていて、
入るのは躊躇してしまった。
9フィートほどの長身で、守衛と思しき制服に身を
包んだ男だ。
夜勤といったところだろうか?
そこで入り口を利用するのは断念し、裏に回って、
幽体化し、背後の壁に飛び込んだときに、妙な
目眩を感じ、当分幽体化はしなくて済めばいいのに、
と考えていた。
幸いなことに、灯りは薄暗く、飛び出た先の廊下に
人影はなかった。
そこで鍵の掛かっていないロッカーを見つけ、
予想通り、そこには白衣が掛けられていた。
手術用の使い捨てブーツのようなものもあった。
緑がかった手術着とかズボンならば似合うだろうが、
この上に白衣というのはあまり見栄えが良くはない
けれど、隠れるから目立ちもしないだろうと判断し、
着込むことにした。
そうして救急センターの待合室に入り、そこで
ようやく椅子に腰を落ち着かせることができた。
とても静かとはいえず、タイル張りの通路の
向こうからは、拡声器で何か怒鳴る声が響いて
きているは、
酔っ払いがナースセンター内の、机に座っている
看護婦に何か文句をぶつけている一方、
サンドペーパーのような肌をした、針金のような
剛毛の女が毛布でくるまれた泣く子を抱いて、
あやしていたりもしていた。
おそらくその子もジョーカーなのではあるまいか。
とはいえ喧噪に満ちてはいても、不思議とそこは
穏やかに感じられた。
誰も追いかけてくるわけではなく、誰も危害を
加えてくるわけでもない。
ようやく安堵の息をついて、椅子に沈み込むように
してまどろんでいると、
外からサイレンの音が聞こえてきて、目が覚めた。
そのすぐ後に、ストレチャーに載せられた患者が
救急センターのメインドアを突き破るような勢いで
飛び込んできたのだ。
大きな手足がストレッチヤーからはみ出していて、
ケーブルのような筋肉の先についた爪を弱々しく
降っていて、助けようとする人々を煩わせている
ようだ。
そこでジェニファーは気づいていた。
この男には見覚えがある。
クロイドがミスター・ブリックウォールと呼んでいた
面倒だった男に違いない。
シャツに刺し傷のようなものがあって、そこから出血
しているようだった。
そうして見ていると、医者や看護婦に付き添われて、
カーテンで仕切られた向こうに運ばれていき、
見えなくなっていた。
ジェニファーは椅子に沈み込むようにして座り、肩を
抱きしめて、目立たないように身を竦めていた。
ドアを開けて他の誰かが入ってくるのじゃなかろうか?
見つかったらどうなってしまうのだろうか?
そんなことを考えていると怖くてならなくなっていた。
「My dear(愛しい人)、何かお困りではありませんか?」
そんな時に、後ろからそう声を掛けられて、飛び上がりそうに
なってしまった。
痩せぎすといっていい小男ながら、赤くきらきらした
髪をポニーテイルにまとめていて、白い作務衣に、
レモンイエローのシャツ、緑のズボンといった
妙な出で立ちに、おもわず目を丸くしていると、
「驚かせたようで、申し訳ない」男は手でなだめるような
仕草をしてみせていた。
口調に微かに違和感があるものの、むしろ魅力的にすら
思える好人物だった。
「いえ、大丈夫です。ただ疲れているだけなので・・・・・・」と応えると、
「最初は看護婦かと思いましたが、知った顔ではありませんよね?」
と訊き返され、
「もちろん違います」と応え、もぐもぐ何かを呟いていると、
「どこか悪いのではありませんか?お力になれませんか?」
親切な顔をして、優しい笑みを浮かべているではないか。
感じのいい人だ。
その腕に飛び込んで、泣きながら、何かを口走りたい気持ちに
襲われたが、
「あ、いえ心配ありませんよ。休めば大丈夫ですから・・・・・・」
そう応えると、何か言いたそうな色をその菫色の瞳に過らせていたが、
わずかな間逡巡した後に、いらない口は挟むべきでないと判断したと
ばかりに、
「まぁいいでしょう、何か必要なことがありましたらおっしゃって
くださいね」と言い添えていて、
「ありがと」と応えると、そのまま離れていった。
白衣にしては優雅な立ち居振る舞いで、自分と同じように疲れ切って
いるようにも思える。
そんなことを思っていると、十席離れたところに座っている酔っ払いが、
「あんた心を読まれたんだぜ、わかってないだろ?」と声を掛けてきた。
「何それ?」そう訊き返すと、
「そのままの意味だよ、心が読めるんだ。あれはDrタキオンだよ」
タキオンなら知っている。
タキオンに見られて、心を読まれたとしたら、エースで
あることを含め、すべてを知られてしまったかもしれないが、
彼が口外しなければ何も問題はあるまい。
そう考え、笑い出しそうになりながらもこらえていると、
救命センターから見える空が白み始めていた。
そろそろここを出る頃合いというものだろう。
まだトリシアは見つかっていないのだ。
ドラマーの男の言ったことを信じるならば、トニーと一緒と
いうことになる。
もしかしたら電話帳に載っていたりしないものだろうか?
電話をかけることさえ出来れば、呼び出してもらえるかも
しれないし……それともCGGBになら、彼らの家か、
連絡先について知ってる人間がいるかもしれない。
まだ見つけ出すことはできる。
打つ手がないわけではないのだ。
そう考え、南に歩いて行くと、バワリーに戻っていた。
街灯の灯りも薄れがちとなり、新聞を運ぶトラックが
行き交っているではないか。
もう朝になっていた。
一晩中逃げていたのだ。
これまでの冒険を思えば笑い出していてもおかしくは
ないのでなかろうか?
そうして人波が歩道に溢れ、商店主が玄関を開け初めて
いて、髪を振り乱し、薄いスリッパを履いた白衣の女と
して一瞬目にとまりはしたが、すぐに気にも留められ
なくなった。
確かに普通じゃない出で立ちながら、それが何だというの
だろう?
そんな風に開き直って、考えないことにした。
そうして上を見上げると、一般的な夕食と思しき食べ物が
看板に掲げられていて、胃袋をつかまれたように感じながらも、
抵抗しつつ、卵にパンケーキという組み合わせならば
文句ない、実際白衣のポケットには10ドル程度は
残っていて、これならばましな朝食ぐらいは食べられる
のではなかろうかと葛藤しはしたが、
窓を通り過ぎ、正面入り口に向かい、
扉の前で立ち止まって、思わず中を二度見してしまった。
そこにいたのだ。
窓に近い中央のボックス席に、トリシアがシンガーとギタリスト、
それから他の取り巻きとそこに座っていたのだ。
ギタリストは全ての指で、卓上を叩いてリズムを取っていて、
シンガーはそのきらめく髪を気怠げに揺らせている。
彼らはコーヒーを飲み、笑いさざめいている。
何も問題ないといわんばかりの長閑な長めだった。
空のプレートやらコーヒーポットが卓上には散らばっていて、
どうやら一番中そこにいたことが見て取れた。
窓に向かい、その脇に立ち、初めは優しく窓を叩いてみて、
それから拳の背で乱暴に叩いてみると、トリシアは顔を上げ、
ポカンとした表情で、目をぱちくりさせ、驚いた顔をしていたが、
ジェニファーが正面入り口から中に入り、つかつかと近づいていき、
テーブルの傍に腕組みをして、立って見せると、同じボックス席に
いた三人から露骨に嫌な顔を返された。
そこでようやくトリシアが吐き出した言葉は、「なんてこと、ジェニファー、
あんたどこにいたの?最高のパーティに間に合わなかったじゃない」だった。
溝にはまった隣人にかけるようなぞんざいな口ぶりで、
まるで私が何かミスでもしたかのような口調だった。
ジェニファーはわずかな間思案しつつ、
「確かに最高のパーティーだったわね、あなたが参加したものよりずっとね」
そう言い返し、白衣の裾を翻し、見せびらかしながら、
「どうして待っててくれなかったの?トリッシュ。少なくとも
どこにいくつもりかぐらい言えたのじゃないかしら。
随分探し回ったのよ」と言い添えると、
トリシアはボックス席にうずくまり、弱々しく肩を竦める仕草をして、
視線を泳がせつつ、
「連れてかない方がいいと思ったの、これは本当よ」と言っていたが、
ジェニファーは何も言い返しはしなかった。
もう帰った方がいい時間だ。
踵を返し、歩き出した。
当然トリシアも追ってはこないだろう。
もちろん追ってはこなかった。
ただし予想外のことはした。
「ジェニファー、待って!そんなに意固地にならなくてもいいじゃない」
などと言い放っていたのだ。
そうして肩を壁に預け、ジェニファーはレストランを立ち去りかねていた。
怒るにもお腹が空きすぎていたし、考えるのさえ億劫になっていた。
さてこれからどうしたものか?
一晩中街を駆けずり回って、脚に豆をつくり、エース能力の別の
使い方も習得できたし、お札のつまった封筒もある。
警察に持って行くこともできなければ、使うのも気がとがめると
いうものの、
だからといってドブに捨てて、酔っ払いの足しにされるのも癪と
いうものだ。
いやそれならばむしろ……
それからジョーカータウンクリニックに戻った。
確か中に入ったところにある扉の上に壁があって、看板が掛かって
いたのを見たのじゃなかったろうか?
扉の横にある、切れ目の入った鍵の着いた箱が示されていて、
<募金箱>と書いてあったのではなかったか?
実際記憶の通りだった。
その下には小さい文字で、<少額でも大歓迎>と添えられている。
ジェニファーは扉を潜ると、人目を引かないよう、壁に背中を着け、
奥を窺うと、先ほど見かけた夜勤と思しき看護婦がデスクの向こうで、
頬杖をついていた。
おそらくこの女のシフトはまもなく終わるのだろう。
素早く、スロットに封筒を当てがい、狭さに多少苦労したもの、何とか
押し込むことができた。
おそらく硬貨以外が投入されることは想定していなかったのでは
なかろうか?
何にせよ、これでならず者達の手には渡らずに済んだというものだ。
それからわずかな間、扉を見つめていたが、まだ取り返しがつくと
思い定めていた。
確かにクロイドの言っていた通りかもしれない。
正しいことにも幅があるということだ。
実際家に帰るにも地下鉄に乗る必要があるではないか。
手を幽体化させ、募金箱に差し込んで、お札を一枚抜き出していた。
それから無くした服にジュエルの分くらいとっておいてもいいと
いうものだろう。
それがフェアというものだ。そうじゃないかしら?
そう己に言い聞かせ、二枚目を抜き出していた。
それから三枚目に手をかけて、これくらいで丁度割に合うと
いうものだ、そう己に言い聞かせ、
弾むように非常口を出た。
顔を上げ、微笑みながら……
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