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2022年04月18日21:23

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比企家 のメモ

頼朝の乳母の一人、比企尼の娘の旦那たちのメモ。

比企能員
ステータスはインデックス参照
比企尼の実子ではなく甥っ子で、男子が生まれなかった比企夫妻の養子になった。当然のごとく頼朝への仕送り要員。

※インデックス
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981626821&owner_id=16600073


安達盛長
ステータスはインデックス参照
頼朝の流人時代からの側近で、比企尼の長女の旦那。側近だから長女を娶されたのか、長女の旦那だから側近にさせられたのか。

まぁ後世に作成された家系図では足立遠元の親類ということになっているが、当時の資料から親戚らしい動きが全く見られていないことから、現在では疑問視されている。一方、頼朝の母(熱田神宮大宮司・藤原季範の娘)の親類に盛長の名があるので、そちらの系譜ではないかという説もある。母方の親類説を取るのであれば元々側近だったはずで、やはり側近だったから長女を娶されたということになるのだろう。

比企尼の長女は 都でも名の知られた才女。盛長と結婚する以前に貴族の惟宗氏の男性との間に男児を産んでいて、男児は後に頼朝の御家人となり「島津忠久」と名乗る。まぁ島津氏の初代なのだけれども、貴族と才女の間の子の一族だったのに、薩摩に土着して数世代経つと戦闘マシーンに変貌。「呪われた島ロードス」的なものを感じる。


河越重頼
知才54武力72優雅30勇名50菩提42加護33無常27弓術66
義仲の父・義賢と組んで、頼朝の父・義朝に対抗した結果、義朝の子(頼朝の兄)義平に襲撃されて殺されてしまった秩父重隆の孫。祖父が殺されて以降は義朝に従属していたが、平治の乱で義朝が死亡。ようやく開放されたかと思ったら、うっかり嫁が比企尼の次女だったため、頼朝の仕送り要員にされてしまう。

頼朝挙兵直後は、同族の畠山重忠と共に三浦氏を攻めたりしていたが、房総に逃れた頼朝が上総や千葉を連れて戻ってくると降伏し、有力御家人となる。しかし、頼朝の意向に従って義経に娘を娶せたのに、頼朝と義経と頼関係が破綻した途端に重頼にも疑いの目が向けられるようになり粛清。義朝親子に祟られつづけた生涯。


伊東祐清
知才70武力65優雅35勇名38菩提48加護37無常42弓術64
流人である頼朝に娘をはらまされて激怒、頼朝を殺そうとした伊東祐親の二男。比企尼の三女の旦那。祐親から頼朝を逃したのも、比企家の意向によるものだったと思われる。頼朝が祐親の娘に手を出したのも、あるいは祐清の手引だったのかもしれない。

祐清の最期は不明。父とともに死んだとも、平家方として戦場で死んだとも言われている。とりあえず、頼朝に仕えることだけはなかったらしい。まぁ比企家に義理立てして頼朝を逃した結果が父の死なのだから、思うところはあったのだろう。頼朝自身は祐清に恩義を感じていて、祐清の子に伊東の本貫地を相続させている。若い頃に受けた恩に限っては、頼朝はずいぶんと義理堅い。


いや、いくら可愛い養い子が心配だからといって、その近臣や配流先に娘を嫁がせて 養い子の状況を逐一把握しようとするというのは、さすがにアレではないだろうかと。そうして頼朝ベッタリになった結果、北条との軋轢が生まれて一族が滅亡するのだから もう何といっていいのか。
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