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2022年02月27日22:40

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源頼朝の鎌倉入りと八幡宮と鎌倉武士の都への原点の道

雪だるま式にふくれ上がった頼朝軍は10月2日、その太日川を舟で渡って武蔵に入り源頼朝に京の動向を知らせてくれた下総の下河辺行平や、武蔵の足立遠元、下野の大豪族である小山朝政も参陣、畠山重忠・河越重頼・江戸重長といった武蔵の有力な武士たちも、軍門に降り衣笠合戦で刃を交えたばかりの三浦一族と畠山・河越・江戸との間は不穏だったが三浦の側が遺恨を飲み込んで、三浦一族は鎌倉幕府の重鎮となっていく。

頼朝軍は進路を南に転じ、10月7日には目的地の鎌倉に入った。大庭方についていた相模の武士たちも、多くは頼朝の軍門に降り鎌倉に腰を落ち着けることにした源頼朝は、まず鶴岡八幡宮を勧請し直して、その東に自らの屋敷を置き頼朝に従ってきた南関東の武士たちも、領地にある自分の本宅とは別に、頼朝に仕えるための役宅が必要になって鎌倉に屋敷を構えていく。

後の参勤交代の原型となって本拠地と鎌倉との間を、必要に応じて行き来することになっていき鎌倉は、関東武士達の本拠地となっていく。

鎌倉は北・東・西の三方を山・丘に囲まれており、南には相模湾が広がっている地形で守りやすく攻めにくかった。鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かった。

鎌倉は源氏の頭領の家系である頼朝と源氏にゆかりのある八幡宮があった鎌倉という場所が、関西の平家と朝廷の支配に不満を持つ関東武士達を集めるのに、精神的な支柱として十分な役割を担えた。

昔の鎌倉の玄関口は、今はおなじみの由比ヶ浜で源氏の祖先である八幡太郎義家が八幡宮を祀り関東武士達にとって、鎌倉は武家のシンボルが祀られている神社があった。

源頼朝の祖先でもある源義家が、鎌倉に館を構えた際に祀った神社を鎌倉に作っていて足利や武田や新田と言った清和源氏の血を引く関東の武士達にとっても、この鎌倉の場所はそんな義家が建てた小さな八幡宮が、精神的な支柱になっていた・

小さな由比の八幡宮をもっと内陸の鶴が丘へ移し、社殿も豪華に改築し由比ヶ浜から八幡宮までに、豪華で広い参道を作り今の若宮大路となる。
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