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2022年02月13日00:35

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02月13日の日記

今日の出来事:1219年−鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮で暗殺、1862年−坂下門外の変、1868年−戊辰戦争:青松葉事件、1945年−第二次世界大戦:ドレスデン爆撃

今日は、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮で暗殺です。源実朝は、1192年に源頼朝の次男として、鎌倉名越の北条時政の屋敷・浜御所で生まれました。幼名・千幡、母は北条政子、乳母は政子の妹・阿波局、大弐局ら御所女房が介添えをしました。1199年に父・頼朝が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぎました。1203年の「比企能員の変」により頼家は将軍職を失い、伊豆国に追われました。母・政子らは朝廷に対して頼家が死去したという虚偽の報告を行い、弟の千幡への家督継承の許可を求めました。これを受けた朝廷は千幡を従五位下・征夷大将軍に補任しました。千幡は遠江国で12歳で元服し、実朝と称しました。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は平賀義信が行いました。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺されました。1204年12月、京より坊門信清の娘・信子を正室に迎えました。その後、「畠山重忠の乱」を鎮圧後、「牧氏事件」で北条時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継ぎました。1206年、兄・頼家の次男・善哉を猶子としました。1211年、善哉は出家して公暁と号しました。1213年、泉親衡が源頼家の遺児・千寿丸を鎌倉殿に擁立し、執権・北条義時を打倒しようとした「泉親衡の乱」が起こりました。その後、和田義盛が反乱を起こしました(和田合戦)。これを平定すると「金槐和歌集」を纏めました。1219年2月13日、雪が積もる日に鶴岡八幡宮の拝賀を迎えました。御所を発して八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲りました。夜になって神拝を終えて退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われて落命しました。享年28でした。公暁は次に源仲章を切り殺しましたが、これは太刀持ちであった北条義時と誤って殺害されました。公暁は源実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離しませんでした。乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送りました。三浦義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこの事を告げました。北条義時は公暁を誅殺するための評議をし、三浦義村が公暁を討つために長尾定景を差し向けました。公暁は三浦義村の迎えが来ないので、1人で雪の中を鶴岡後面の山を登り、三浦義村宅に向かう途中で討手に遭遇しました。討ち手を斬り散らしながら三浦義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとした所を討ち取られました。享年20でした。源実朝には子が無く、公暁も殺されたため、源氏将軍と河内源氏棟梁の血筋は断絶しました。鎌倉殿の政務は頼朝の正室・北条政子が代行し、執権である弟・義時がこれを補佐する事となりました。これにより、北条政子は「尼将軍」と呼ばれる事になりました。そして、後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こす事になります。

次に、坂下門外の変です。坂下門外の変は、1862年2月13日に江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた事件です。「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中・久世広周と共に幕閣を主導した磐城平藩主・安藤信正は、井伊直弼の開国路線を継承して幕威を取り戻すため、公武合体を推進しました。この政策に基づき、幕府は「和宮降嫁」を決定しましたが、尊王攘夷派志士らはこれに反発し、安藤信正らに対して憤激しました。1860年、水戸藩の西丸帯刀、野村彝之介、住谷寅之介らと、長州藩の桂小五郎、松島剛蔵らは連帯して行動する事を約しました(水長盟約)。これに基づき、安藤信正の暗殺や横浜での外国人襲撃が計画されました。しかし、長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となりました。長州藩側は計画の延期を提案しましたが、機を逸する事を恐れた水戸藩側は、長州藩の後援なしに実行する事にしました。水戸藩の志士らは宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵一派と連携して、安藤信正の暗殺計画を進めました。2月13日、上元の嘉例の式日で諸大名が総登城し、将軍に拝謁する事になっていたため、その折を狙う事となりました。しかし、決行直前の2月10日に計画の一部が露見し、大橋訥庵ら宇都宮藩側の参加者が幕府に捕縛されました。そのため計画は大きく狂いましたが、水戸藩志士を中心とした残りのメンバーだけで実行する事になりました。1862年2月13日午前8時頃、老中・安藤信正の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・河本杜太郎の6人が行列を襲撃しました。水戸藩浪士・川辺左次衛門も計画に参加していましたが、遅刻したため襲撃に参加出来ませんでした(黒沢五郎と高畑総次郎は「第一次東禅寺事件」にも参加しました)。最初に、直訴を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕籠を銃撃しました。弾丸は駕籠を逸れて小姓の足に命中しました。この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込みました。警護の者が一時混乱状態に陥った隙を突いて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺しました。安藤信正は背中に軽傷を負って、一人で城内に逃げ込みました。「桜田門外の変」以降、老中や登城の際の大名の警備は厳重になっていました。当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げられず、全員が闘死しました。警護側でも十数人の負傷者を出しましたが、死者はいませんでした。遅刻した川辺左次衛門は長州藩邸に斬奸趣意書を届けた後、切腹しました。老中・安藤信正の暗殺には失敗しましたが、「桜田門外の変」に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速しました。この事件がきっかけで、安藤信正は老中を罷免されました。その後、隠居・蟄居を命じられ、磐城平藩は2万石を減封されました。

その次に、戊辰戦争:青松葉事件です。青松葉事件は、尾張藩内での佐幕派弾圧事件です。「御三家」である尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家には、御附家老というものが存在しました。御附家老とは、将軍家から派遣された藩主のお目付け役です。尾張藩では成瀬隼人正と竹腰兵部少輔の家がお目付け役でした。藩主も遠慮しなければならない家柄で、その権力は強大でした。藩内は自然と成瀬派と竹腰派に分かれました。このうち、より幕府に近い立場を取り続けたのが竹腰派で、幕府に反抗的だった7代藩主・徳川宗春を隠居謹慎に追い込んだ事もありました。幕末のこの時期、藩内は尊皇攘夷を唱える「金鉄組」と、佐幕的な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は「金鉄組」、竹腰家は「ふいご党」でした。14代藩主・徳川慶勝は就任以来、尊皇攘夷の立場をとりました。特にペリー来航以来、藩政の刷新を進める中で竹腰家を初めとする「ふいご党」と対立する事が多くありました。大老・井伊直弼の弾圧により、徳川慶勝が隠居すると「金鉄組」は没落し、竹腰兵部少輔が新藩主・茂徳のもとで藩政を取り仕切りました。しかし、「桜田門外の変」以降、竹腰兵部少輔は失脚し、徳川慶勝が隠居の身ながら藩政の前面に出て、「金鉄組」とともに頻繁に上洛して政局にあたりました。その間、徳川茂徳が隠居して慶勝の子・義宜が藩主となり、「ふいご党」は日の目を見ませんでした。「大政奉還」後、「鳥羽・伏見の戦い」で幕府軍が敗北しました。その一報が名古屋に届くと京都に派兵するかどうかで、派兵を主張する「金鉄組」と派兵に慎重な「ふいご党」との対立が深まりました。この時、京都にいた徳川慶勝は手勢を率いて上洛した監察・吉田知行から、城代・間宮正萬の言付けという形で尾張藩内の情勢を聞き、京都から帰国しました。そして、「青松葉事件」は発生しました。徳川慶勝が帰国すると、その日のうちに弾圧命令が出ました。徳川慶勝は、何らかの密命を朝廷より下されたと思われますが、真相ははっきりしていません。岩倉具視と「金鉄組」による謀略説、長州藩の復讐説、薩摩藩の復讐説などがあります。「ふいご党」の以下14人が斬首となりました。いずれも弁明の機会を与えられませんでした。
渡辺新左衛門在綱
榊原勘解由正帰
石川内蔵允照英
冢田愨四郎有志
安井長十郎秀親
寺尾竹四郎基之
馬場市右衛門信広
武野新左衛門信邦
成瀬加兵衛正順
横井孫右衛門時足
沢井小左衛門貞増
横井右近時保
松原新七直富
林紋三郎信政
さらに、その他20人が処罰されました。事件名は、処刑された重臣の筆頭格・渡辺在綱の家が「青松葉」と言われていた事から「青松葉事件」と呼ばれました。渡辺家は、徳川家康の家来で「槍の半蔵」の異名を取った渡辺半蔵守綱の末裔です。鉄砲に興味を持って、その鋳造に用いる火を起こすのに青松葉を使いました。また、知行地から年貢を受け取る時、青松葉を俵に挿して数えました。これら「青松葉」に関する逸話が多い事から「青松葉の渡辺」と言われていました。この事件の結果、尾張藩は新政府軍の一員として「戊辰戦争」を各地で幕府軍と戦いました。成瀬家、竹腰家がともに大名として認められました。竹腰家は、「青松葉事件」の対象である「ふいご党」の領袖でした。この矛盾した措置に尾張藩は混乱しました。新政府内では、尾張藩士の姿はほとんどなく、「薩長土肥」4藩に独占されました。その後、大臣にまでなったのは、田中不二麿と加藤高明だけでした。「廃藩置県」でも冷遇されました。ほとんどの新政府軍の藩(鹿児島、山口、高知、佐賀、広島、秋田など)は県名には藩都の名が採用されましたが、名古屋の名は県名に採用されませんでした。新政府軍として活躍したわけではない紀州藩が和歌山の名を残したのとは対照的でした。

最後に、第二次世界大戦:ドレスデン爆撃です。ドレスデン爆撃は、「第二次世界大戦」の末期に連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ空軍)によって行われたドイツ東部の都市・ドレスデンへの無差別爆撃です。4度におよぶ空襲に延べ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下されました。この爆撃により、ドレスデンの街の85%が破壊され、2万5千人〜15万人とも言われる一般市民が死亡しました。2月4日の「ヤルタ会談」で、ソ連のアレクセイ・アントーノフ陸軍大将は英米の戦略爆撃に対して2つ提案を行いました。一つはソ連軍に対する誤爆を避けるためドイツを南北に縦断する線を引き、これより東への爆撃にはソ連の許可を取る事。もう一つは東部戦線へのイタリアやノルウェーからの増援を妨害するため、ベルリンとライプツィヒにある交通の結節点を麻痺させて欲しいという事でした。これに対して大筋で英米は合意しましたが、イギリス代表・ポータルはドイツ国内の工場や都市の情報を見せました。ドイツ東部に位置するドレスデンの空襲なしでは、ベルリンやライプツィヒの施設が破壊されてもドイツ軍はドレスデンを通って東部戦線に増援できてしまう、と指摘しました。そして、アントーノフもドレスデンを攻撃対象に入れる事に了解しました。こうして、「ドレスデン爆撃」が実行されました。ドレスデン爆撃によって市民や多くの難民が犠牲になり、歴史的建造物の多くが瓦礫の山と化しました。この空襲の事を、チャーチルは「テロ爆撃」という名前で説明しています。ドレスデンには目立った軍事施設はなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通り、ドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財がありました。人々はドイツの中でも「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていました。ドイツ軍も空襲に対しては無警戒で、高射砲などの兵器も地域に移動するなどして、空襲への防備は手薄となっていました。死者の正確な人数は確認が難しく、未だに分かっていません。見積を難しくしているのは爆撃当時、20万人と言われる難民や数千人の戦傷者でごった返していたからでした。当時、ドイツの多くの都市が英米軍の空襲にさらされていた他、東プロイセン地方にソ連軍が侵攻していました。このため、ドイツ中から多くの難民がドレスデンに滞在していました。文化財の被害は以下のとおりです。ギュスターヴ・クールベの「石割り人夫」が焼失しました。「聖母教会」は一部の壁を残して全壊しました。戦後、東ドイツ政府は宗教施設の再建を後回しにしていました。住民運動により、瓦礫を最大限に活用して「世界最大のジグソーパズル」と呼ばれた再建工事が、有志からの寄付金等により、1996〜2006年の期間で再建されました。特に頭頂の十字架は、実際に空爆を行ったイギリス空軍兵士らの家族からの寄付金で、2004年に復元されました。「ツヴィンガー宮殿」は、ほぼ全壊しましたが、1988〜1992年の期間で再建されました。「ゼンパー・オーパー」も、ほぼ全壊しましたが、1977〜1985の期間で再建されました。

今日の誕生日:蔦屋重三郎、フランキー堺、小林千登勢、グレート草津、森本レオ、南こうせつ(元かぐや姫)、佐藤B作、島田洋八(元B&B、元うなずきトリオ)、ピーター・ガブリエル(元ジェネシス)、栗本薫(中島梓)、矢野顕子、山本百合子、出川哲朗、宮本和知、ヒロミ(B21スペシャル)、南原清隆(ウッチャンナンチャン)、生田智子、ランディ・マッスル、松野有里巳(元ribbon)、阿部力、加藤諒、有村架純

今日の記念日:苗字制定記念日/名字の日、NISAの日、日本遺産の日

今日の「今日訓」:本日は、1875年2月13日に明治政府が「平民苗字必称義務令」という「太政官布告」を出し、すべての国民に姓を名乗る事を義務づけました。これにより、「苗字制定記念日/名字の日」、「ニ(2)ー(1)サ(3)」の語呂合わせで「NISA(少額投資非課税制度)の日」、「にほん(2)いさん(13)」の語呂合わせで「日本遺産の日」となりました。
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