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2022年02月10日00:04

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02月10日の日記

今日の出来事:1258年−バグダードの戦いが終結し、アッバース朝が滅亡、1863年−塙次郎暗殺、1868年−戊辰戦争:堀直虎自刃、1921年−宮中某重大事件

今日は、バグダードの戦いが終結し、アッバース朝が滅亡です。1258年に、チンギス・ハーンの孫であるフレグ率いる「モンゴル帝国」と、当時の世界で最も栄華を誇っていたと言われる「イスラム帝国・アッバース朝」との間で起こった包囲戦です。現在のイラクの首都・バグダードは、当時はアッバース朝第37代カリフのムスタアスィムが統治するアッバース朝の首都でした。最盛期のバグダードは東西交易の中心地として繁栄を極め、産業革命以前の世界最大の都市となり、100万人の居住者と6万人の精強な軍隊を誇りました。フレグと郭侃が率いるモンゴル軍は、1257年11月にバグダードを攻囲しました。フレグはモンゴル軍史上最大規模の軍隊を率いていました。モンゴル帝国第4代皇帝・モンケの命令で、全モンゴル軍の10分の1の兵士がフレグの軍に編成されました。フレグはムスタアスィムに降服を要求しましたが、ムスタアスィムは「モンゴル軍がバグダードを攻撃をすれば、アッラーに復讐されるだろう」と警告して降伏を拒否しました。バグダードを包囲する前、フレグはロル族(イラン南西部に住むイラン人)との戦闘に勝利し、彼らを虐殺しました。その二の舞になる事を恐れたニザール派の暗殺教団は、1256年に戦わずに難攻不落のアラムート城砦をモンゴル軍に引き渡しました。フレグはチグリス川付近で軍を東西に分割しました。アッバース朝軍は西岸から攻撃するモンゴル軍を撃退しましたが、東岸からの攻撃に耐えられませんでした。モンゴル軍はアッバース朝軍の後方の堤防を破壊し、水攻めを行いました。アッバース朝軍の多くは成すすべ無く虐殺されるか溺死しました。郭侃の命令でモンゴル軍の中国人部隊が柵と溝を建築し、攻城兵器とカタパルトでバグダードを包囲しました。攻撃は1月29日に開始されました。モンゴル軍の攻撃は包囲攻撃の理論通りに迅速に行われ、2月5日にバグダードの城壁はモンゴル軍に破られました。ムスタアスィムはフレグと交渉しようと試みましたが、時は既に遅く、拒絶されました。2月10日、アッバース朝は降伏しました。モンゴル軍は2月13日にバグダードに流れ込み、それから1週間の間、虐殺、強姦、略奪、破壊を行いました。薬学から天文学にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していたバグダードの「知恵の館」は破壊されました。モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなったと言います。バグダードの城壁内に住む市民は逃げようとしましたが、モンゴル軍に捕らえられて虐殺されました。死者は数十万人と言われています。モンゴル軍はモスク、宮殿、図書館、病院を略奪、破壊し尽くし、何世代も続く偉大な建築物は消失しました。ムスタアスィムは郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺、財宝の略奪を見せつけられた後、敷物で巻かれてモンゴル軍の軍馬に踏み殺されました。これは貴人に死を賜る時のモンゴル人の礼儀でした。モンゴル軍はムスタアスィムの子供たちも殺害し、唯一生き残った息子はモンゴルに送られました。モンゴル軍は降服を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊しましたが、降服した都市は破壊しませんでした。これはモンゴル軍の戦術でした。こうして「メソポタミア文明」、「イスラム文明」が築いた多くの文化遺産が地上から消失しました。その後、モンゴル軍はシリアに侵攻しますが、ムスタアスィムの叔父をカリフとして擁立したエジプトのマムルーク朝によって、1260年の「アイン・ジャールートの戦い」で大敗し、モンゴル軍はシリアから撤退しました。

次に、塙次郎暗殺です。塙次郎は、国学者・塙保己一の四男です。「史料」、「武家名目抄」、「続群書類従」などの編纂に携わりました。また、「南朝編年稿」、「近世武家名目一覧」、「集古文書」などを編著しました。1862年、江戸幕府老中・安藤信正の命で、前田夏蔭と共に寛永以前の幕府の「外国人を待遇の式典」を調査していました。これが、孝明天皇を廃位させるために「廃帝の典故」について調査しているとの誤った巷説が伝えられたため、勤皇浪士達が激怒しました。2月10日、幕臣・中坊陽之助邸(駿河台)で開かれた和歌の会から帰宅したところ、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に何者かに襲撃されました。翌日、加藤甲次郎と塙次郎は死去しました。当時は、犯人は不明とされましたが、後の1921年の「六十年祭」の折に、渋沢栄一がこの事件の暗殺者が初代総理大臣・伊藤博文と日本近代工業の父と言われた工部卿・山尾庸三であったと明らかにしました(この時、二人とも故人)。塙次郎の子・塙忠韶は明治維新後、政府から召しだされて大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛へと異例の出世をしました。これは伊藤博文が後年、自責の念から塙次郎の子を優遇したのではないかと推測されています。

その次に、戊辰戦争:堀直虎自刃です。堀直虎は、信濃・須坂藩の第13代藩主です。第12代藩主・直武が隠居したため、その養子として跡を継ぎました。藩政改革を断行し、家老ら41人を粛清して藩政を大きく改革し、洋式軍制を導入しました。1863年、幕政にも加わって「大番頭」に就任しました。1864年に「天狗党」の討伐を命じられました。しかし、幕府に意見して差控を命じられました。その後、「市中見廻役」を命じられました。1865年には「呉服橋門番」を命じられました。1867年、「若年寄兼外国総奉行」に就任しました。しかし、1868年2月10日、突如として江戸城中で自害して果てました。享年33でした。自害の理由は「大政奉還」を徳川慶喜に進言した経緯から、慶喜や幕府保守派に疎まれていた事と、幕府を守るために慶喜に徹底抗戦を進言したが容れられず、そのために諫死したと言われています。国元では、堀直虎の死は大坂から戻った慶喜に恭順を勧めて受け入れられず、自害したと東山道府に届け出されました。最終的に新政府は堀直虎の「若年寄」としての責任は重大で処分の必要があるとしながら、本人の死亡とその経緯によってこれを免じるとともに、弟・直明が養子として家督を継ぐ事を認めました。その後、須坂藩は従来の佐幕の方針を転換し、戊辰戦争では小山、結城、北越、会津に出兵しました。長野県内の諸藩では、飛びぬけた数の藩士を送って明治政府の成立に向けて協力しました。

最後に、宮中某重大事件です。1921年、裕仁親王(当時・皇太子、後の昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(後の香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老・山県有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件です。良子女王の兄・朝融王が、学習院の身体検査で色弱だった事が発見されたのが発端となりました。元老・山県有朋らは、良子女王の家系が色盲の遺伝があるとして、女王及び久邇宮家に婚約辞退を迫りました。当時、軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山県有朋による皇室への干渉は、宮中・政府・世間を巻き込んだ騒動になりました。1920年6月18日に宮内大臣・波多野敬直が更迭され、これに代わって元満鉄総裁・中村雄次郎が色覚異常の真偽を確かめる事になりました。これを受けた当初は、久邇宮家も辞退やむなしの動きを見せましたが、当時病気療養中であった大正天皇に代わって天皇家の家長のような存在であった貞明皇后や、良子女王の父・久邇宮邦彦王、元老の松方正義や西園寺公望は婚約の破棄に反対を表明しました。また、頭山満など国粋主義の人間が同調し、「北一輝らが山県有朋を暗殺するべく刺客団を編成した」といった流言が広まりました。最終的には、当の裕仁親王の意向で婚約辞退は撤回となりました。1921年2月10日、政府から「婚約は破棄されることはなく、いずれ御成婚」と発表されました。この事件で山県有朋の権威は大きく失墜し、一度は元老と爵位返上の意向も伝えられましたが、慰留されました。翌年、山県有朋は失意のうちに死去しました。また、一貫して山県有朋との協調姿勢をとっていた当時の首相・原敬は、この事件でも婚約破棄に関して明確な反対を示しておらず、後の皇太子訪欧における対応とあいまって、国粋主義者から「君側の奸」とみなされるようになりました。これが一部の過激派から暗殺の対象として狙われるようになり、「原敬暗殺事件」の遠因となりました。

今日の誕生日:足利義氏(第5代古河公方)、大田垣蓮月、平塚らいてう、田河水泡、鈴木史朗、赤座美代子、高橋英樹、島田洋七(B&B)、芹澤名人、及川眠子、どんぐり、井上あずみ、知久寿焼(たま)、中島ひろ子、黒田博樹、長友光弘(響)、黒坂真美、棟田康幸、市川由衣、石田卓也、スヨン(少女時代)、仲川遥香(元JKT48、元AKB48、元渡り廊下走り隊7)、増山加弥乃(元AKB48)、川口春奈、野元愛(元アイドリング!!!24号)、新山詩織、野村みな美(元こぶしファクトリー)、鈴木梨央

今日の記念日:海の安全祈念日、簿記の日、ふとんの日、ニットの日、蕗の薹の日、キタノ記念日、ニートの日、太物の日、豚丼の日、左利きグッズの日、福寿の日、二重(ふたえ)の日、二世帯住宅の日、封筒の日、フルートの日

今日の「今日訓」:本日は、2001年2月10日の「えひめ丸事故」(教員5人、生徒4人が死亡)を契機に「海の安全祈念日」、簿記の原点である福澤諭吉の訳本「帳合之法」が1873年2月10日に慶應義塾出版局から発行された事で「簿記の日」、ふ(2)とん(10)の語呂合わせで「ふとんの日」、「にっ(2)と(10)」の語呂合わせで「ニットの日」、「ふ(2)きのとう(10)」の語呂合わせで「蕗の薹の日」、「ツー(2)ビート(10」)の語呂合わせで「キタノ記念日」、「にー(2)と(10)」の語呂合わせで「ニートの日」、「ふ(2)と(10)」の語呂合わせで「太物の日」、「ぶた(2)どん(10)」の語呂合わせで「豚丼の日」、「0(レ)2(フ)10(ト)」の語呂合わせで「左利きグッズの日」、「2(ふ)9(く)10(じゅ)」の語呂合わせで2月9、10日は「福寿の日」、「に(2)じゅう(10)(二重=ふたえ)」の語呂合わせで「二重(ふたえ)の日」、「に(2)じゅう(10)(二住)」の語呂合わせで「二世帯住宅の日」、「ふう(2)とう(10)」の語呂合わせで「封筒の日」、「フ(2)ルート(10)」の語呂合わせで「フルートの日」となりました。
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