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2022年02月07日00:28

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02月07日の日記

今日の出来事:1455年−享徳の乱:分倍河原の戦い、1868年−戊辰戦争:御許山騒動、1868年−戊辰戦争:土佐新田藩主・山内豊福自刃、1873年−太政官布告「復讐ヲ嚴禁ス」(敵討禁止令)を公布、1881年−石川県・滋賀県から分離して福井県を設置、1943年−第二次世界大戦:日本軍のガダルカナル島からの撤退(ケ号作戦)が完了、1998年−第18回冬季オリンピック長野大会開催

今日は、享徳の乱:分倍河原の戦いです。分倍河原の戦いは、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現・東京都府中市)で、足利成氏が率いる鎌倉公方勢と上杉顕房が率いる関東管領勢との間で行われた合戦です。この戦いをきっかけに「応仁の乱」と並んで室町時代最大の戦乱といわれる「享徳の乱」の幕が開かれる事となりました。「永享の乱」によって鎌倉公方が滅亡してから10年を経て鎌倉府を再興しようとする動きが現れました。室町幕府では、管領・細川勝元は反対論を、前管領・畠山持国は賛成論を唱えて議論となりましたが、越後守護・上杉房定の懇願もあり、結局はこれに同意しました。新しく鎌倉公方に選ばれたのは、幕府によって滅ぼされた前公方・足利持氏の遺児・永寿王丸で、これを補佐する新しい関東管領には前関東管領・上杉憲実の子である山内上杉家の憲忠が選ばれました。1447年、上杉憲忠は永寿王丸と鎌倉に入り、関東管領に任命されました。2年後の1449年に元服した永寿王丸は、将軍・足利義成(後の義政)の一字を拝領して「足利成氏」と名乗って正式に第5代鎌倉公方に就任しました。しかし、足利成氏は結城成朝、簗田持助、里見義実などの「永享の乱」、「結城合戦」で鎌倉公方家に殉じた武将の遺児達を側近として登用したため、上杉氏やその家臣団の反が高まっていきました。1450年、相模国鎌倉郡長尾郷(現・横浜市栄区長尾台)が足利成氏の命令を奉じた簗田持助に押領される事件が起きました。この地はその名の通り、上杉氏筆頭重臣・長尾氏発祥の地で、そこにある御霊宮は長尾氏一門の祖先祭祀の中心でした。この事態に長尾景仲ら長尾氏一族は激しく憤慨し、娘婿・太田資清と共に激しく抗議しましたが、足利成氏側は返還に応じようとしませんでした。1450年5月31日、長尾景仲、太田資清が鎌倉に兵500騎を入れてクーデターを起こそうとしました。足利成氏は事前にこの情報を入手すると、その夜に小山持政らに守られて鎌倉を脱出して江ノ島に立て籠もりました。翌6月1日、鎌倉に突入した長尾景仲らは足利成氏を追って江ノ島に迫りました。そこに小田持家、宇都宮等綱、千葉胤将が足利成氏を救援のために出陣してきたため、由比ヶ浜で両軍は交戦しました。この「江ノ島合戦」で長尾・太田軍は惨敗し、事情を知らない主君・上杉憲忠が小幡氏らを出陣させたため、長尾景仲と太田資清は前扇谷上杉家当主・上杉持朝の糟谷館(現・神奈川県伊勢原市)に逃げ込みました。上杉憲忠は事件に全く関与していませんでしたが、襲撃したのが長尾・太田の兵であると知って謹慎しました。事態を知った幕府は管領に復帰していた畠山持国が仲裁にあたり、足利成氏に有利の裁定が下されました。これを受けて足利成氏は鎌倉に戻り、上杉憲忠も職務に復帰し、その懇願によって長尾景仲らの罪も赦免されました。ところが、その後も足利成氏と上杉憲忠、双方の武士が対立陣営の所領を押領する事件が頻発しました。畠山持国に代わって管領に就任した細川勝元は、一転して鎌倉公方の権力削減に乗り出しました。一方、上杉憲忠の義父・上杉持朝は、秘かに長尾景仲と共に上杉氏の本国・上野国に入って足利成氏討伐の準備を進めました。こうした動きを掴んだ足利成氏やその周辺も、対抗策を秘かに練り始めました。1455年(享徳4年)1月15日の夜、鎌倉の管領屋敷にいた上杉憲忠は足利成氏からの至急の出仕命令を受けました。長尾景仲は家宰で義兄・長尾実景に留守を託して長尾郷の御霊宮に参詣に出ていたため、上杉憲忠はそのまま足利成氏の西御門邸に出仕しました。しかし、西御門邸に入った上杉憲忠を結城成朝、里見義実、武田信長が手勢を連れて取り囲みました。上杉憲忠は、結城家臣・多賀谷高経・氏家兄弟によって討ち取られました。同じ頃、岩松持国が率いる別働隊が管領屋敷を襲撃し、長尾実景・景住父子ら上杉家家臣を殺害しました。上杉憲忠暗殺の報せを聞いた長尾景仲は、鎌倉に戻ると直ちに管領屋敷に火を放つと上杉憲忠正室(上杉持朝の娘)ら生き残った人々を上杉持朝の糟谷館に避難させました。糟谷館に着いた長尾景仲は、上杉持朝やその嫡男で扇谷上杉家当主・顕房、犬懸上杉家・憲秋、小山田上杉家・藤朝ら上杉一族の要人と協議して、京都にいる上杉憲忠の弟・房顕を次の関東管領に迎え入れて足利成氏を討伐する事を決めました。更に長尾景仲はそのまま領国の上野に入って兵を集めると、越後守護・上杉房定に援軍を求めました。更に嫡男・景信を直接京都に派遣して事の次第を幕府に報告しました。1455年1月22日、足利成氏は上杉氏の本国・上野を攻略するために鎌倉を出発し、武蔵国府中の高安寺に入りました。この報を聞いた上杉持朝は、その留守に鎌倉を奪おうとして出陣しました。しかし、翌日に相模国島河原(現・神奈川県平塚市)で鎌倉の留守を守っていた武田信長の迎撃にあって敗退しました。この報せを聞いた長尾景仲は、直ちに上野・武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流するため出陣しました。2月7日、府中近郊に結集した上杉軍は2000騎の兵で高安寺に攻め寄せましたが、足利成氏軍は分倍河原に500騎で討って出ました。足利成氏軍の突撃に不意を突かれた上杉軍は混乱し、先鋒の上杉憲秋は手前の立河原(現・東京都立川市)で深手を負いました。致命傷を負った上杉憲秋は家臣によって間一髪のところで救われましたが、高幡不動で自害しました。上杉憲秋の自害を知った上杉顕房らは激怒して、翌日に新手の500騎で分倍河原に進撃しました。緒戦で上杉軍先鋒の大石房重らが討たれましたが、足利成氏軍にも多くの犠牲が出たため一進一退となりました。そこへ、結城成朝らの軍勢が上杉軍に襲いかかったため上杉軍は後退をはじめ、更に相模への退路も絶たれたために上杉軍は東に向かって潰走しました。結城成朝が率いる足利成氏軍の追跡により、武蔵夜瀬(現・三鷹市)で包囲された上杉顕房、上杉藤朝は10日に自害して果て、難を逃れた長尾景仲は残った軍をまとめて辛うじて常陸国小栗城(現・茨城県筑西市)まで落ち延びました。勢いに乗った足利成氏は、武蔵国内の上杉側の拠点を次々と攻略しますが、長尾景仲が小栗城にいると知ると下総国・古河城に入り、那須資持、筑波潤朝、小田朝久らの加勢を得て小栗城の攻撃を開始します。途中、小田朝久が急死しますが、攻め落として長尾景仲を敗走させます。扇谷上杉家では顕房の子・上杉政真が当主に立てられて、上杉顕房が討死した責任をとって出家した太田資清に代わって息子・資長(後の太田道灌)が家宰に就任します。以後、関東地方では28年にもわたる「享徳の乱」が繰り広げられる事になります。

次に、戊辰戦争:御許山騒動です。御許山騒動は、「鳥羽伏見の戦い」の直後、豊前の御許山(宇佐市)を舞台として起こった勤皇倒幕挙兵事件です。1868年2月7日の夜更け、60名ほどの浪士たちが豊前四日市の、久留米藩預かりとなっていた日田天領四日市陣屋を襲いました。大砲や弾薬などを奪い陣屋に火を放った浪士たちは、役人たちが逃げこんだ東本願寺別院にも放火し、近くの民家7軒も類焼しました。翌早朝、奪った大砲2門を引いた浪士たちは、宇佐八幡神発祥の地といわれる御許山に登り、山上の僧坊に陣をかまえて錦の御旗を掲げました。そして、近隣の諸藩や有志に勤皇挙兵への参加、応援を呼びかける檄を飛ばしました。御許山に挙兵した浪士隊は、勤皇派の公卿・花山院家理を盟主としたため、「花山院隊」と呼ばれました。その中核となっていたのは、長州藩支藩の長府藩「報国隊」に身を寄せていた福岡藩脱藩の桑原範蔵、小藤四郎、秋田藩脱藩の小川潜蔵ら諸藩の浪士や、二豊(豊前豊後)出身の佐田秀、下村御鍬、矢田宏らに長州藩士の若月隼人とその門下生たちでした。「花山院隊」は、豊後日田に勤皇の兵を挙げました。この計画が二豊の地にもたらされたのは、1863年に勤皇派の公卿・中山忠光の内命を受けた下毛郡落合村の神官・高橋清臣によってでした。以後、幾度かの挫折をみながら1866年の「第二次長州征伐」を期に運動は活発化しました。西国筋郡代・窪田治部右衛門の志士たちへの追求も厳しくなりました。幕吏の手を逃れた二豊の志士たちは長州へ逃れ、そこで日田挙兵の計画がすすめられていきました。こうして、長州藩に身を寄せていた浪士たちと、二豊の志士たちが結びついていきました。1867年には、日田天領下の天草富岡陣屋を矢田宏らが襲って8000両の金を奪い、長崎で兵器を購入して決起に備えました。盟主・花山院家理も、周防国久賀村に下向しました。馬関に結集していた志士たちは、1月31日に「鳥羽伏見の戦い」の勝報を聞いて決起に踏み切りました。矢田宏、島田虎雄、加藤龍吉らは、花山院家理を迎えに久賀島へ出発しました。志士たちの暴走をおそれた長州藩は、総裁格の小藤四郎、小川潜蔵を捕えました。佐田秀ら56名は「報国隊」を脱走し、船で豊前に向かいました。長州藩士・若月隼人が一番隊長として、武術の門下生22名を率いて参加しました。御許山での勤皇挙兵の報は、二豊の諸藩を驚かしました。長州藩を後盾にしているという事で、中津藩、日出藩は藩境に出兵して様子を見守りました。四日市の警備にあたっていた久留米藩も兵を集めましたが、動けずにいました。「花山院隊」は中須賀(宇佐市)の御蔵米を山上に運び、陣地を固めました。日田侵攻の計画に悩まされていた西国筋郡代・窪田治部右衛門は、2月10日に日田を捨てて肥後へ逃亡しました。2月13日、豊前宇島に福原幾弥の率いる「報国隊」1小隊と、野村右仲の率いる長州藩第3大隊1小隊が上陸しました。翌14日、中津藩から大砲を借りて四日市に進駐し、西本願寺別院・正明寺に陣をとりました。そして、この挙兵が勅許を得てない事、長州藩の名を勝手に使った事、脱隊違反の罪を犯した事を挙げ、厳しく追求しました。佐田秀らは大義を説きましたがいれられず、16日に会議の席上で責任をとって若月隼人は切腹、佐田秀は斬殺されました。御許山は長州兵の攻撃によって陥落、総裁・桑野範蔵は戦死し、僧坊は焼失しました。長州兵は捕えた柴田直次郎を斬り、「口に正義を唱え盗賊の所業せし者」として、佐田秀、若月隼人、柴田直次郎の首を晒しました。花山院家理も2月7日、警備の矢田宏、加藤龍吉らとともに長州藩に捕えられ、後に京都に護送されました。御許山とは別に、2月11日に天草の富岡陣屋を襲った「花山院隊・別動隊」を名乗る1隊がありました。結城小太郎を隊長とするこの隊は、14日に薩摩藩の出兵によって兵を引き、御許山へ合流をはかりましたが、豊前香春で御許山陥落後の2月23日、小笠原藩に討伐されました。「花山院隊」は、諸藩の脱藩者を含んでいますが、その多くが庄屋、神官、医者、農民、町人などの草莽たちによって結成されました。二豊に勤皇の大義をたてる事を、身を寄せた長州藩の隊規を破って行ないました。こうして「花山院隊」は、切り捨てられる事になり、「四日市強盗」の汚名を着せられ、新政府による草莽隊弾圧(偽官軍事件)の先駆けとなりました。

その次に、戊辰戦争:土佐新田藩主・山内豊福自刃です。山内豊福は、筑前国秋月藩主・黒田長元の次男です。1853年、土佐新田藩第4代藩主・豊賢の養嗣子となりました。1856年、養父・豊賢の隠居により家督を継ぎました。本家の土佐藩・山内容堂を助けて新田藩の軍制を洋式化し、軍備増強に努めました。急進的な佐幕派でしたが武力行使には反対で、「戊辰戦争」では幕府に対して自重するように努めましたが、及びませんでした。その後、徳川慶喜に従って江戸に入りました。抗戦派の意見には反対でしたが、徳川氏の幕府存続には賛成でした。しかし、本家の土佐藩などが新政府側に与したため、苦しい立場に立たされた山内豊福は、1868年2月7日に継室・典子と共に自害しました。享年33でした。土佐新田藩の家督は、山内豊賢の弟・豊充の長男・豊誠が継ぎました。

その次の次に、太政官布告「復讐ヲ嚴禁ス」(敵討禁止令)を公布です。「敵討(かたきうち)」、または「仇討ち(あだうち)」は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う日本の制度です。中世期からの慣行で、江戸時代には警察権の範囲として制度化されました。456年に起きた「眉輪王の変」が、記録に残る最古の敵討事件です。眉輪王の義理の父にあたる安康天皇は、眉輪王の父・大草香皇子を殺し、母である中磯皇女を自らの妃としました。安康天皇はある日、その事を漏らしました。楼の下で遊んでいた7歳の眉輪王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が安康天皇によって殺された事を悟りました。眉輪王は、安康天皇が熟睡しているところを刺し殺しました。事件後、その動機を追及された眉輪王は「臣元不求天位、唯報父仇而已」(私は皇位を狙ったのではない、ただ父の仇に報いただけだ)と答えました。その後、安康天皇の兄・境黒彦皇子は、弟・大泊瀬幼武皇子(後の雄略天皇)が皇位を継ごうとする企みで命を狙われました。そのため、境黒彦皇子と眉輪王は相談して葛城円大臣の邸宅に逃げ込みましたが、大泊瀬幼武皇子の兵に攻められました。大臣の助命嘆願も空しく、邸宅で3人共に焼き殺されました。「敵討」の中でも特に「曾我兄弟の仇討ち」、「鍵屋の辻の決闘」、「元禄赤穂事件」は「日本三大仇討ち」と呼ばれ、多くの作品で人々に親しまれました。明治になると司法卿・江藤新平らによる司法制度の整備が行われ、1873年2月7日、明治政府は第37号布告で「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」を発布しました。これにより、「敵討」、「仇討ち」は禁止されました。

そのまた次に、石川県・滋賀県から分離して福井県を設置です。福井は江戸時代初期まで「北ノ庄」と呼ばれていました。北ノ庄藩主・松平忠昌は、北ノ庄の「北」が敗北に通じるという事で、城中の井戸「福の井」から名をとり、街の地名を「福井」と改め「福井藩」となりました。明治維新になり、1871年1月22日に本保県が設置されました。1871年8月29日の廃藩置県によって、丸岡藩・福井藩・勝山藩・大野藩・鯖江藩・小浜藩の各藩が廃止され、現在の福井県域に7つの県が設置されました。1871年12月31日、福井県と敦賀県の2県になりました。1872年1月29日、福井県が足羽県に改称されました。1873年1月14日、足羽県が敦賀県に編入されました。1876年8月21日、木ノ芽峠を境に敦賀県が分割され、現在の南越前町以北が石川県に、現在の敦賀市以西が滋賀県に編入されました。1881年2月7日、太政官布告により、嶺北が石川県から分離、嶺南が滋賀県から分離され、双方が合併して「福井」を県庁所在地として現在の「福井県」が設置されました。滋賀県は、「近江」と呼ばれていました。都から近い淡水の海として、琵琶湖が「近淡海」と呼ばれました。これに対し、都から遠い淡水の海として浜名湖が「遠淡海」と呼ばれました。それぞれが「近江国」と「遠江国」の国名の語源になりました。江戸時代になり、湖の形が琵琶に似ている事が判ったため「琵琶湖」という名称が定着しました。明治維新により幕府領・旗本領に「大津県」が設置された後、「廃藩置県」によって各藩は県に移行し、1871年に「大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)」と「長浜県(高島郡・神崎郡以北)」に統合されました。翌1872年に「大津県」が「滋賀県」に、「長浜県」が「犬上県」にそれぞれ改称されました。その後、両県が合併して近江国と領域を同じくする「滋賀県」が成立しました。「滋賀」は大津が属していた郡名「滋賀郡」から採用されました。本庁舎は大津に置かれましたが、南西に偏在しているため、近江国最大の城下町であった「彦根」も候補に上がりました。1876年8月21日から、現在の福井県嶺南地方を編入しましたが、1881年2月7日に分離されて、現在の「滋賀県」となりました。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:日本軍のガダルカナル島からの撤退(ケ号作戦)が完了です。「ケ号作戦」は19432月1日〜7日にかけて行われた、日本軍のガダルカナル島撤退作戦です。作戦名の由来は「捲土重来」です。作戦は3回に分けて行われました。撤退により救出された日本軍は1万名余りでした。1942年8月7日の連合軍上陸から5ヶ月、2度の総攻撃を行いましたがヘンダーソン飛行場基地の奪回は成らず、糧秣弾薬の補給が輸送船の沈没や駆逐艦の大量消耗により継続できなくなりました。日本軍は12月31日の御前会議でガダルカナル島からの撤退を決めました。撤退は翌1943年2月に行われる事となりましたが、これを隠すため航空攻撃や物資輸送は続けられました。そのため、米軍は日本軍の撤退作戦完了後も撤退の事実を知らず、逆にガダルカナル島への新たな日本軍増強のための駆逐艦輸送と考えていました。第一次撤退:最初の撤収は2月1日に行われました。部隊は駆逐艦20隻で、ショートランドを出発しました。途中アメリカ軍機の攻撃で「巻波」が航行不能となり、「文月」の曳航で引き返しました。その夜、ガダルカナル島に到着すると海軍250名、陸軍5164名を収容し、2日午前にブーゲンビル島エレベンタに帰還しました。収容時に「巻雲」が触雷により航行不能になり、「夕雲」の魚雷で処分されました。また魚雷艇による攻撃もありましたが、砲撃により撃退しました。第二次撤退:2回目は2月4日に行われました。「朝雲」、「五月雨」が参加し、部隊は前回と同じく駆逐艦20隻でした。4日朝、ショートランドを出発しました。途中、空襲により「舞風」が航行不能となり、「長月」に曳航されてショートランドへ帰還しました。また「白雪」が機関故障のため、引き返しました。ガダルカナル島に到着した部隊は、予定通りに収容を開始し、海軍519名、陸軍4458名を収容しました。エスペランスでの収容作業に遅れが出て、約300名を積み残して5日午前、エレベンタに帰還しました。この第二次撤退で、第17軍司令部がガダルカナル島を後にしました。対するアメリカ軍は魚雷艇を出撃させましたが、日本側水上偵察機7機の警戒、捜索により日本軍駆逐艦と接触が出来ませんでした。第三次撤退:最後の撤収は2月7日に行われました。部隊は駆逐艦18隻で、7日朝ショートランドを出発しました。途中空襲で「磯風」が被爆して、引き返しました。その夜、ガダルカナル島に到着し、カミンボから殿軍とされた松田部隊を中心とする海軍25名、陸軍2224名を収容し、エレベンタに帰還しました。また駆逐艦での撤収が失敗した場合に備えて、ラッセル諸島に1月28日に進出していた海軍38名、陸軍352名を収容しました。この3回の撤収により海軍832名、陸軍12198名、合計1万名以上の兵員を収容しました。それに対して損害は駆逐艦「巻雲」1隻が沈没、「巻波」、「舞風」、「磯風」3隻の損傷のみでした。アメリカ軍は日本軍が増強をしていると判断していました。8日朝に舟艇が放棄されているのが発見され、初めて撤退の事実に気が付きました。

最後に、第18回冬季オリンピック長野大会開催です。長野オリンピックは、1998年2月7日〜2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックです。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催されました。長野オリンピックの開催は1991年6月15日に、イギリスのバーミンガムで開かれた第97回国際オリンピック委員会総会で決定されました。ソルトレイクシティ(アメリカ合衆国)、エステルスンド(スウェーデン)、ハカ(スペイン)、アオスタ(イタリア)と争い、最後はソルトレイクシティとの一騎打ちに勝利し、開催が決定しました。1991年に長野オリンピックの開催が決定した事により、長野新幹線が現存する在来線(信越本線、現・しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅〜長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更されました。この長野オリンピックでは、日本ジャンプ陣(日の丸飛行隊)を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得しました。スキージャンプで、船木和喜(ノーマルヒル個人・銀、ラージヒル個人・金)、原田雅彦(ラージヒル個人・銅)、「岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜」(ラージヒル団体・金)が歴史に残る感動の金メダルを獲得しました。フリースタイルスキーで、里谷多英(モーグル女子・金)、これは日本女子選手が冬のオリンピックで初めて獲得した金メダルとなりました。スピードスケートで、 清水宏保(男子500m金、1000m銅)、岡崎朋美(女子500m銅)を獲得しました。ショートトラックスピードスケートで、西谷岳文(500m金)、植松仁(500m銅)を獲得しました。このように、日本中を感動の嵐で包み込んだオリンピックとなりました。

今日の誕生日:聖徳太子、チャールズ・ディケンズ、広沢真臣、赤根武人、志賀潔、愛新覚羅溥儀、浜村純、阿久悠、小林稔侍、植田芳暁(ザ・ワイルドワンズ)、デヴィッド・ブライアン(ボン・ジョヴィ)、香坂みゆき、寺岡呼人(JUN SKY WALKER(S))、ハッピハッピー。「旧名コアラ」(元アニマル梯団)、松田樹利亜、奥大介、宮本恒靖、桜井誠(Dragon Ash)、古井弘人(元GARNET CROW)、向井理、大田祐歌(元チェキッ娘)、松坂南、加護亜依(元モーニング娘。)、矢島舞美(元℃−ute)、萩原舞(元℃−ute)、仲野太賀、オコエ桃仁花、水瓶座のカミュ

今日の記念日:北方領土の日、フナの日、長野の日/オリンピックメモリアルデー、福井県ふるさとの日、ニキビに悩まないデー

今日の「今日訓」:本日は、1855年2月7日に「日露和親条約」が結ばれ、北方領土が日本の領土として認められました。これにより「北方領土の日」となりました。1881年に石川県・滋賀県から越前・若狭を分離して、福井県が設置された事により「福井県ふるさとの日」、1998年に「長野冬季オリンピック」の開会式が行われた事で「長野の日/オリンピックメモリアルデー」、「ふ(2)な(7)」の語呂合わせで「フナの日」、「ニキビに(2)悩まない(7)」の語呂合わせで「ニキビに悩まないデー」となりました。
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