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2022年02月04日00:05

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02月04日の日記

今日の出来事:1348年−南北朝動乱:四條畷の戦い、1868年−神戸事件、1945年−第二次世界大戦:ヤルタ会談開始

今日は、南北朝動乱:四條畷の戦いです。1348年1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)で南朝方の楠木正行と北朝方の足利尊氏家臣・高師直との戦いです。1336年、楠木正成が「湊川の戦い」で敗死すると楠木氏はしばらくの間、鳴りを潜めていました。楠木正成の子・正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄えました。楠木正行は、「大楠公」と尊称された楠木正成に対して「小楠公」と呼ばれました。父・楠木正成は足利尊氏との「湊川の戦い」の直前に「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と言い残し、形見に帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を正行に授け、今生の別れを告げました(桜井の別れ)。楠木正行は父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦いました。摂津国南部の住吉・天王寺周辺にゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになりました。1347年、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、住吉付近で山名時氏を破りました。これにより、足利方は本格的な南朝攻撃を決意しました。1348年に高師直を大将とする大軍を編成し、北上する楠木軍と四條畷に対峙しました。楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、楠木正行は弟・正時と刺し違えて自決しました。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠・吉野に攻め入り陥落させ、後村上天皇をはじめとする南朝方は、賀名生に逃れました。この後、楠木氏は弟・楠木正儀が後を継ぎ、足利氏に戦いを挑みます。

次に、神戸事件です。神戸事件は、神戸の三宮神社前で岡山藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに、水平射撃を加えた事件です。明治政府初の外交問題となりました。1868年1月27日、「戊辰戦争」が「鳥羽・伏見の戦い」で開戦しました。徳川方の尼崎藩を牽制するため、明治新政府は岡山藩に摂津西宮の警備を命じました。岡山藩では1月29日までに2000人の兵を出立させ、家老・日置帯刀が率いる500人は大砲を伴って陸路を進みました。この際、1868年1月1日の神戸開港に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために、徳川幕府によって作られた「徳川道」を通らず、西国街道を進みました。2月4日13時過ぎ、岡山藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとしました。これは「武家諸法度」に定められた「供割」と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入りました。しかし、言葉が通じないため、強引に隊列を横切ろうとする水兵に、滝善三郎が槍で突きかかり軽傷を負わせました。これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出しました。それを見た滝善三郎が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲し、銃撃戦に発展しました。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度の一斉射撃を加える事になりました。弾はほとんどあたらずに頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにしました。現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達しました。アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が岡山藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなりました。岡山藩は、家老・日置帯刀が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令したため、お互いに死者も無く負傷者もほとんどいませんでした。神戸に領事館を持つ列強諸国は、居留地防衛の名目で神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕しました。この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったため、伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たりましたが決裂しました。2月8日に急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明し、東久世通禧を代表として交渉を開始しました。諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と事件の日本側責任者の厳重処罰でした。この事件での外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、伊藤俊輔や五代才助(後の五代友厚)を通じた伊達宗城の助命嘆願を、フランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決されました。結局、2月24日に岡山藩は諸外国側の要求を受け入れました。3月2日、永福寺にで列強外交官列席のもとで滝善三郎を切腹させ、部隊を率いた日置帯刀に謹慎を課すという事で決着しました。この「神戸事件」は「大政奉還」後、明治新政府政権となって初めての外交事件でした。諸国列強の要求に従って、滝善三郎を切腹させる事によって問題が解決されました。しかしこの後、「堺事件」が発生します。

最後に、第二次世界大戦:ヤルタ会談開始です。ヤルタ会談は1945年2月4日〜11日に、クリミア半島のヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談です。1945年1月にポーランドを占領したソ連軍(赤軍)がベルリン付近に達し、西部戦線ではアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫る情勢のもと、連合国の主要3カ国首脳の会談が行われました。チャーチル、ルーズベルト、スターリンによる会談の結果、「第二次世界大戦後」の処理について「ヤルタ協定」を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアの「バルト三国」の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。併せてアメリカとソ連の間で「ヤルタ秘密協定」を締結し、ドイツ敗戦後90日後の「ソ連の対日参戦」および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定し、現在も続く「北方領土問題」の端緒となりました。以下が「ヤルタ会談」で決められた事です。
[ポーランド問題]:1939年、ドイツとソ連はともにポーランドに侵攻し、西半分及び東半分をそれぞれ分割占領しました。1941年、ドイツは「独ソ不可侵条約」を破りポーランド東部に侵攻、全域を占領しました。その後、ソ連は再び東半分をドイツから奪還し、1944年にルブリンでポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権)を樹立しました。ソ連軍は首都・ワルシャワに迫り、国内軍(ポーランド国民による反ナチス抵抗組織)に対し、モスクワ放送を通じて蜂起を呼びかけました。国内軍はこれに呼応して蜂起し(ワルシャワ蜂起)、ワルシャワを占領しましたが、ソ連軍は進軍を停止してこれを支援せず、結局ドイツ軍により蜂起は鎮圧されました。この時、アメリカとイギリスはソ連に国内軍への支援を要求しましたが、スターリンはこれを無視しました。この戦闘で、ワルシャワ市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者が出ました。当時、ロンドンにはポーランド亡命政府が存在し、イギリスはこれをポーランドの正式な政権として承認していました。1943年にソ連軍に連行されたポーランド人捕虜の大量虐殺事件「カティンの森事件」が発覚すると、亡命政権とソ連は関係を断絶しました。ソ連はルブリン共産党政権こそポーランドの正式な政権だと各国に認めさせるため、彼らによる国内統治の障害となる恐れがあった国内軍を意図的に壊滅させたのでした。「ヤルタ会談」では、この両政権のどちらが正式な政権であるかを巡ってイギリスとソ連が対立しました。ソ連にとってポーランドは自国の安全保障上の重要地域であり、イギリスにとっては社会主義の拡大への懸念から、共産党政権を認める事はできませんでした。会談では結局アメリカの仲介により、ポーランドで総選挙を実施して国民自身で政権を選ぶ事、またポーランドの国自体を西へ移動させる事で決着しました。ところが、スターリンは帰国した亡命政権の指導者を逮捕し、ルブリン共産党政権によるポーランドの社会主義国化が決定的となりました。後のアメリカ大統領、トルーマンはこれを知って激怒し、米ソの対立が深まる事になりました。これが「冷戦」の始まりとなりました。
[ドイツ問題]:ドイツは現在のオーデル・ナイセ線の以東にあるシレジア、ポメラニア、東プロイセンの領土をすべて失い、これらの領土はポーランド領となる事が決定されました(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時のドイツ国土の四分の一にあたり、プロイセンの故地である東プロイセンを含めた広大な領土を失う事となり、きわめて喪失感の大きい内容となりました。ポーランドについては、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土をソ連に割譲する事が決定されました。この結果、ポーランドの国土は従来と比べ大きく西へずれ、若干の領土縮小につながりました。また、ガリチア等の旧西部領に居住するポーランド人は、そのままソ連領へ編入される結果となりました。そして、戦後ドイツの処遇について、東側陣営と西側陣営で共同管理する事が決められました。
[極東密約(ヤルタ協定)]:主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定です。1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して、樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求し、これに応じる形でルーズベルトは千島列島などをソ連に引き渡す事を条件に、「日ソ中立条約」の一方的破棄、「ソ連の対日参戦」を促しました。「ヤルタ会談」ではこれが「秘密協定」としてまとめられました。この協定では、ドイツ降伏後90日以内にソ連が「対日参戦」する事、モンゴルの現状を維持する事、樺太(サハリン)南部をソ連に返還する事、千島列島をソ連に引き渡す事、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益の確保などが取り決められました。ドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、この協定に従ってソ連は日本に宣戦布告して満州に侵入、千島列島等を占領しました。しかし、1956年に共和党アイゼンハワー政権は「ソ連による北方領土占有を含む「ヤルタ協定」はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発表しています。
[その他の国について]:台湾について、米ソ両国は「カイロ会談」で決定していた中華民国への返還を改めて確認しました。また、朝鮮半島は当面の間、連合国の信託統治とする事としました。しかし、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争が「朝鮮戦争」となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されています。
「ヤルタ協定」は当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法に違反しているため、ソ連・ロシアによる南樺太及び千島列島の侵略・占領は法的根拠が無いとする多くの主張が、日本以外にもあります。更に、連合国自らが領土拡張の意図を否定した「カイロ宣言」と矛盾する事も批判を招いています。この会談以後の戦後体制を「ヤルタ体制」と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする「資本主義国陣営」と、ソ連を中心とする「共産主義国陣営」の間で本格的な東西冷戦が開始される事になります。

今日の誕生日:毛利輝元、前島密、チャールズ・リンドバーグ、猪熊功、加藤剛、ケン・トンプソン、黒沢年男、宮城谷昌光、加橋かつみ(元ザ・タイガース)、三重ノ海剛司(武蔵川親方)、山下達郎、石破茂、時任三郎、東野圭吾、長澤和明、中西康晴、石原真理子、小泉今日子、草野満代、佐々木蔵之介、吉原知子、河野啓三(T−SQUARE)、山崎静代(南海キャンディーズ)、桐谷健太、宇佐美佑果、大政絢、中条あやみ、花橋梨緒「RIO」(NiziU)、ジノ・ヘルナンデス

今日の記念日:世界対がんデー、西の日、ぷよの日、ザ・ビートルズの日、レディース・ユニフォームの日、妊娠の日

今日の「今日訓」:本日は、2000年の「対がん同盟結成を呼びかけるパリ憲章」に基づいて「世界対がんデー」、ビートルズの愛称「Fab.4」を「Feb.4」(February4)にかけて「ザ・ビートルズの日」、「に(2)」と「し(4)」の語呂合わせで「西の日」、ぷよぷよ「ぷ(2)」と「よ(4)」の語呂合わせで「ぷよの日」、「ユニ(2)フォー(4)ム」の語呂合わせで「レディース・ユニフォームの日」、「妊(2)娠(4)」の語呂合わせで「妊娠の日」となりました。
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