mixiユーザー(id:3472200)

2022年01月03日19:40

220 view

>制度主義経済体制における政府の経済的機能は、統治機構としての国家のそれではなく、すべての国民が、その所得、居住地などの如何にかかわらず、市民の基本的権利を充足することができるようになっているかどうか

>を監視するものでなければならない。   【了】



 さまざまな社会的共通資本の組織運営に年々、どれだけの資源が経常的に投下されるかということによって政府の経常支出の大きさが決まってくる。他方、社会的共通資本の建設に対して、どれだけの希少資源の投下がなされたかということによって、政府の固定資本形成の大きさが決まる。


 このような意味で、社会的共通資本の性格、その建設、運営、維持は、広い意味での政府、公共部門の果たしている機能を経済学的にとらえたものであるといってよい。


宇沢 弘文 :経済学者


10
学びがある

9
わかりやすい

9
新しい視点






【関連記事】

この法律が日本を「生産性が低すぎる国」にした


日本人は「人口減」で起こる危機を甘く見ている


貴族のような生活なのに幸せでない現代人の闇


コロナ恐慌で「つぶれる国」「生き残る国」の大差


カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ



最終更新:1/3(月) 16:01
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ー
https://news.yahoo.co.jp/articles/128718934367a02fb19f51a9718170960014cb60?page=8


宇沢弘文


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




ナビゲーションに移動

検索に移動



宇沢 弘文
Hirofumi Uzawa


生誕
1928年7月21日
鳥取県米子市

死没
2014年9月18日(86歳没)
東京都

国籍
日本の旗 日本

研究機関
(機関)スタンフォード大学
カリフォルニア大学バークレー校
シカゴ大学
東京大学
中央大学
同志社大学

研究分野
数理経済学

母校
東京大学(学士)
スタンフォード大学
東北大学(博士)

博士課程
指導学生
デイヴィッド・キャス[1]
Harl Ryder
カール・シェル
ミゲル・シドロスキー

影響を
受けた人物
河上肇
ケネス・アロー

論敵
ミルトン・フリードマン

影響を
与えた人物
浅子和美
吉川洋
小川喜弘
清滝信宏
松島斉
宮川努[2]
小島寛之
石川経夫
岩井克人[3]
ジョージ・アカロフ
ジョセフ・E・スティグリッツ[3]

実績
二部門成長モデル
宇沢コンディション
社会的共通資本

受賞
吉野作造賞(1971年)
毎日出版文化賞(1974年)
文化功労者(1983年)
日本学士院会員(1989年)
米国科学アカデミー客員会員(1995年)
文化勲章(1997年)
ブループラネット賞(2009年)
Econometric Society Fellow(終身)
テンプレートを表示

宇沢(宇澤) 弘文(うざわ ひろふみ、1928年(昭和3年)7月21日 - 2014年(平成26年)9月18日[4])は、日本の経済学者。専門は数理経済学。東京大学名誉教授。意思決定理論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などで功績を認められた。従三位。

1983年文化功労者[4]、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章[4]、2009年ブループラネット賞。Econometric SocietyのFellow(終身)[5]。1976年から1977年までEconometric Society会長[6]。

浅子和美、吉川洋、小川喜弘、清滝信宏、松島斉、宮川努[2]、小島寛之、岩井克人[3]らは東京大学の宇沢ゼミ出身。デイヴィッド・キャス[1]、カール・シェル、ミゲル・シドロスキーらは博士課程指導学生。ジョセフ・E・スティグリッツ[3]、ジョージ・アカロフらは、シカゴ大学時代、宇沢の授業を受けたことがある。数学者の宇澤達は長男[7]。


目次 [非表示]
1 経歴 1.1 生い立ち
1.2 学生時代
1.3 経済学者として

2 年譜
3 業績
4 人物像
5 顕彰その他
6 家族・親族 6.1 宇沢家

7 著作 7.1 単著
7.2 共著
7.3 編著
7.4 共編著
7.5 著作集
7.6 訳書
7.7 主要論文

8 脚注・出典
9 参考文献・評伝等
10 外部リンク

経歴​[編集]

生い立ち​[編集]

鳥取県米子市出身[7]。父時夫は小学校の教師[8]。宇沢家の始祖は江戸中期に遡る[8]。元は米子の南に位置する法勝寺(現在の南部町)というところの出で、のちに米子に移った[8]。生家は代々米屋を営んでいたが破産している(時期は不明)[8]。宇沢家は長い間、男の子に恵まれなかった[8]。全くの女系家族といってよい[8]。父も祖父も婿養子である[8]。祖父は大工だった[8]。父は春日村の農家の生まれで、二十歳そこそこで宇沢家に婿入りした[8]。宇沢が3歳の頃に父は教師を辞め、家屋を処分して家族を連れて東京に出た[8]。

学生時代​[編集]

東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校を卒業。東京府立一中の同級生に速水融や田中健五がいる[9]。旧制第一高等学校の同級生に寺田和夫、伊藤順(伊藤貞市の子息)がおり、同じラグビー部に所属していた[10][11]。

1951年に東京大学理学部数学科を卒業し、数学科の特別研究生となった[12]。彌永昌吉に数論を、末綱恕一に数学基礎論を学んだが、経済・社会問題への関心から経済学に転じる。

経済学者として​[編集]

統計数理研究所、生命保険会社などに勤務した後、スタンフォード大学のケネス・アロー教授に送った論文が認められ、1956年に研究助手として渡米。スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校で研究教育活動を行い、1964年にシカゴ大学経済学部教授に36歳で就任した[12][13]。専門的な論文として最適成長論や二部門成長論の業績があった[13]。なお、ジョセフ・スティグリッツは、1965年から1966年にかけて、宇沢の在籍したシカゴ大学の宇沢の下で研究を行った[14]。

1968年に東京大学経済学部に助教授として戻り(翌年教授)[13]、1989年退官した。同年新潟大学に移り経済学部教授。1994年中央大学経済学部教授に就任、その後、同大学経済研究所専任研究員、同大学研究開発機構教授を歴任した[12]。

日本に帰国以来40年以上にわたり日本政策投資銀行設備投資研究所顧問を務めていた[12]。

成田空港問題では成田空港問題シンポジウムを主催した隅谷調査団の団員として活動した[15]。また、地球的課題の実験村構想具体化検討委員会では座長を務めた[16]。

東日本大震災直後の2011年3月21日、脳梗塞で倒れ、その後はリハビリテーションを続けていた[17]。

2014年9月18日、肺炎のため東京都内の自宅で死去[4]。86歳没[18]。叙従三位[19]。

   【略】

『地球温暖化の経済学』(岩波書店, 1995年)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%A2%E5%BC%98%E6%96%87
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年01月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031