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2021年12月31日00:13

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12月31日の日記

今日の出来事:1587年−肥後国人一揆、1600年−イギリス東インド会社設立、1703年−元禄大地震、1942年−第二次世界大戦:バレンツ海海戦

今日は、肥後国人一揆です。肥後国人一揆は、1587年に起こった肥後国人による一揆です。守護・菊池氏の衰退の後、「戦国時代」に突入した肥後国は国人割拠状態が続きました。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれましたが、1587年に豊臣秀吉の「九州征伐」が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服して薩摩・大隅に押し戻されました。52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれる事になりました。一刻も早い肥後の領国化を望んだ佐々成政が、性急に検地を進めたため国人の不満が一挙に爆発する事になりました。隈部親永・親泰父子は、秀吉の朱印状を盾に検地を拒否して挙兵しました。佐々成政は直ちに7000人の兵を率いて本拠にしていた隈本城を発し、隈部親永の籠る隈府城を攻撃して落城させました。隈部親永は親泰の籠る城村城へと逃亡しました。佐々成政は城村城を包囲しましたが、守りが堅いため攻略に手こずりました。隈部親永は甲斐親英と謀り、国人ら35000余に兵を挙げさせました。和仁親実・菊池武国らに率いられた一揆軍は隈本城を攻囲しました。佐々成政は急いで隈本城に取って返しましたが、甥・佐々成能が内古閑鎮房に討たれるなど撤退の最中に多くの家臣が討ち取られたため、秀吉に援軍要請を行いました。要請で出兵した立花宗茂と高橋統増兄弟は、1200の兵を率いて1日に13度もの戦いを行って、一揆方の城を7城も落として650余の敵兵を討ち取り、支城の平山城で包囲された兵糧不足の佐々成政軍に補給を行うという武功を上げました。九州を唐入りの兵站基地と位置づけていた秀吉は、「肥後国人一揆」の早期解決を図って九州・四国の大名を総動員しました。小早川秀包を一揆討伐の総大将として、立花宗茂、高橋統増、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊らの九州大名も参陣し、和仁親実ら兄弟が籠城した田中城を包囲攻略して一揆を鎮圧しました。翌年、謝罪のため大坂に出向いた佐々成政は、秀吉に面会を拒否されて尼崎に幽閉され、一揆の原因を作った事を理由に摂津国尼崎の法園寺で切腹させられました。秀吉は、一揆に参加した国人ばかりか中立の国人に対しても処罰を加えました。一部残党が薩摩国へと逃れていましたが、島津義虎は名和彰広を、加藤清正に阿蘇を与えられた北里三河も下城右近大夫を殺害しました。52人中48人の国人が戦死または処刑されました。

次に、イギリス東インド会社設立です。イギリス東インド会社は、アジアとの貿易を目的に設立されたイギリスの特許会社です。ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称です。東インド会社以前にも特許会社は存在しましたが、貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスクワ会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、自前の従業員を持つ合本会社として設立されました。アジア貿易の独占権を認められ、各地の植民や交易に従事しました。初期には東インド(インドネシア)での香辛料貿易参入をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸、台湾の安平にも商館を設けました。スペイン、オランダ、イギリスの3国間のアジアの海域の覇権をめぐる争いでは、オランダと友好関係を保つ事を重視しました。その後、インドに注力するようになった当初は香辛料貿易で利益を得ましたが、「アンボイナ事件」後、東南アジアでの活動を縮小しつつも、活動の重心をインドに移して「フランス東インド会社」と争いました。1757年の「プラッシーの戦い」で、会社は「フランス東インド会社」の挑戦を退けました。この戦いを契機に、単なる商事会社ではなく、インド全域における覇権を確立した行政機構としての性格をも帯びるようになりました。最終的に「七年戦争」でイギリスがフランスに勝利し、インドにおける覇権を決定づけた後はベンガル地方の徴税権取得を皮切りに、次第に政治的、領域的支配組織に変化していきました。インドにおける会社の大拠点は、ベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイでした。その後、「ナポレオン戦争」後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦いました。18世紀以降、中国の広東貿易にも参入して「アヘン戦争」を引き起こし、香港を獲得しました。1858年、「インド大反乱」の責を負う形でインド統治権をイギリス政府のヴィクトリア女王に返上し、1874年に解散しました。なお、現在でも東インド会社の名を冠した紅茶が販売されていますが、これは1978年に紅茶販売のため、紋章院の許可を得て設立された会社です。

その次に、元禄大地震です。元禄大地震は、1703年12月31日午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震です。震源は、相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定されています。「関東大震災」と同タイプの海溝型地震で、震源分布図も類似する事から「関東大震災」以前の関東地震と考えられています。ただし、地殻変動は「関東大震災」よりも大きいものでした。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した「元禄段丘」が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌しました。江戸では比較的被害が軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは建物倒壊による被害が出ました。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら一面泥水が溜っていたなどの記録があります。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼしました。小田原領内の倒壊家屋約8000戸、死者約2300名、東海道の諸宿場でも家屋が倒壊し、川崎宿から小田原宿までの被害が顕著でした。上総国をはじめ、関東全体で12か所から出火、被災者約37000人と推定されています。地震7日後の1月7日酉下刻(18−19時頃)、小石川の水戸宰相御殿屋敷内の長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失しました。この地震で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起しました。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録されています。相模灘から房総半島では津波の被害も発生し、熱海では7m程度の高さと推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家のほとんどが流出し、残ったのはわずか10戸程度でした。各藩の幕府への被害報告の合計では死者約6700人、潰家、流家は約28000軒となっています。

最後に、第二次世界大戦:バレンツ海海戦です。バレンツ海海戦は「第二次世界大戦」中の1942年12月31日に、ノルウェーの北岬沖バレンツ海で起こった、ドイツ海軍とイギリス海軍との海戦です。イギリスからソビエト連邦のコラ湾へ向かっていたJW51B船団の航行を、ドイツ海軍が妨害しようと出撃した艦隊と船団護衛の任に就いていた艦隊とが戦闘になりました。JW51B船団は12月22日、ロッホ・ユーを出航しました。28日、吹雪のため商船5隻と「オリービ」、「ヴィルザマ」が行方不明となりました。その後、商船3隻は船団と合流しましたが、残りは船団とは別にコラ湾に向かいました。30日午前、独潜水艦「U354」が船団を発見しました。この報告を受けたクメッツ中将は艦隊を率いて出撃しました。しかし、ドイツ艦隊はヒトラーから危険を冒す事を禁じられていました。クメッツ中将は艦隊を「アドミラル・ヒッパー」、駆逐艦3隻と「リュッツォウ」、駆逐艦3隻の2つに分けて挟撃を試みました。31日8時20分、「オブディレイト」がドイツ駆逐艦を発見、続いて「オンスロウ」が「アドミラル・ヒッパー」を発見しました。イギリス駆逐艦は煙幕を張るとともに「アドミラル・ヒッパー」の前面に展開し、船団各船は出撃前の打ち合わせどおり一斉に発煙フロートを投下しました。10時00分、「オンスロウ」に「アドミラル・ヒッパー」からの8インチ弾が命中して艦橋が損傷、シャーブルック大佐は重傷を負いましたが指揮を執り続けました。だが、「オンスロウ」はさらに数発の命中弾を受け、シャーブルック大佐は指揮権を僚艦に譲りました。残る駆逐艦は偽装雷撃などあらゆる手段を尽くして、「アドミラル・ヒッパー」が船団に近づくのを阻止しましたが、「オビーディアント」が損傷を受けるなど、綱渡りの状況が続きました。 一方、船団付近では「アカテス」が直援行動に従事していましたが、11時00分、吹雪が弱まった折に「アドミラル・ヒッパー」の攻撃を受けて被弾、大破しました。しかし、「アカテス」は被弾しながらも煙幕を展開し続け、2時間後に沈没するまでその任務を全うしました。11時45分、「シェフィールド」と「ジャマイカ」が戦場に到着し、攻撃を開始しました。「アドミラル・ヒッパー」に命中弾があり、クメッツ中将は全艦に退避を命じました。「フリードリヒ・エックホルト」と「リヒャルト・バイツェン」は2隻の英巡洋艦を「アドミラル・ヒッパー」および「リュッツォウ」と誤認して接近し、「フリードリヒ・エックホルト」は「シェフィールド」から多数の6インチ砲弾を浴びて撃沈されました。「リヒャルト・バイツェン」は被害僅少で、「ジャマイカ」の砲撃から辛くも脱しました。その後、「アドミラル・ヒッパー」と「リュッツォウ」は、英巡洋艦2隻を挟み撃ちするチャンスを得たものの、逆に「シェフィールド」と「ジャマイカ」は一斉砲撃を加えて撃退しました。これにより、ドイツ側は母港へと撤収しました。ドイツ海軍は1隻も商船を撃沈できなかったばかりか、ほぼ無傷で逃してしまい、船団への攻撃は失敗に終わりました。大戦果を徹夜で待っていたヒトラーは、新年早々のこの無様な敗北に激怒し、レーダー元帥を罷免し、潜水艦隊司令官・デーニッツ大将を後継者に任命し、全ての大型水上艦の解体命令を出しました。この命令はデーニッツから再考を促された事もあり実行されませんでしたが、ドイツ海軍の士気は低下しました。一方のイギリス海軍はこの海戦の戦訓により、援ソ船団の護衛体制をさらに強化し、船団を餌にドイツ大型水上艦を釣り上げ、撃滅する着想を得ました。その着想を実行に移したのが、翌1943年末に生じた「北岬沖海戦」や、戦艦「ティルピッツ」に対する一連の作戦です。

今日の誕生日:後陽成天皇(第107代天皇)、住友政友、柳沢吉保、平田鐵胤、津田梅子、林芙美子、倉本聰、アレックス・ファーガソン、ドナ・サマー、ビートきよし(ツービート)、高樹澪、俵万智、小錦八十吉、江口洋介、まこと(シャ乱Q)、大黒摩季、東貴博(Take2)、中越典子、村主章枝、市井紗耶香(元モーニング娘。、元プッチモニ)、左近寺竜之介、ボルボ西郷

今日の記念日:大晦日、ニューイヤーズイブ

今日の「今日訓」:本日は、大晦日です。旧暦では毎月の最終日を「晦日」と言いました。「晦日」のうち、年内で最後の「晦日」を「大晦日」と言いました。「大晦日」には、様々な年越しの行事が行われます。年越しの夜の事を「除夜」と言います。かつて、「除夜」は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、皺が寄るとか言った俗信がありました。「大晦日」の伝統的な風習として「年越し蕎麦」、「除夜の鐘(108つの煩悩を祓う)」、「二年参り(初詣)」、「お雑煮(大晦日の夜から一日が始まるため)」があります。
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