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2021年12月29日00:22

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12月29日の日記

今日の出来事:1535年−守山崩れ、1614年−大坂冬の陣:博労淵の戦い、野田・福島の戦い、1872年−山城屋事件、1928年−易幟:張学良が降伏し、蒋介石の北伐が終了し、中国国民党が中国を統一、1929年−上越線の清水トンネルが貫通

今日は、守山崩れです。松平清康は、三河松平氏の第7代当主で松平広忠の父、徳川家康の祖父です。三河国安祥城の城主および岡崎城主です。安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、離反していた一族・家臣の掌握を進めて西三河の地盤を固めました。松平清康は1511年9月28日、松平信忠の嫡男として生まれました。1523年に隠居の祖父・長親や一門衆が父・信忠を隠居させて、清康に家督を継承させました。1526年、山中城を攻撃して西郷信貞を屈服させました。西郷信貞の居城であった旧岡崎城を破棄し、現在の新岡崎城に移転しました。その後、足助城の鈴木重政を攻めて降伏させました。清和源氏のひとつ・新田氏の一門である得川氏の庶流・世良田姓を称し、世良田次郎三郎清康と称しました。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓を行う事につながりました。松平清康は更に、東西に軍を進めて三河国統一を目指して勢力を広げました。1529年、尾島城を攻め獲りました。その一方で7月3日、東三河にも進出して牧野氏の今橋城(後の吉田城)を攻め落としました。松平清康は更に吉田城の南方・渥美郡田原に進軍しました。戸田氏は戦わずに降服し、清康は吉田城に兵を戻して10日間在城しました。この間に北方・設楽郡の山家三方衆の菅沼氏一族と奥平氏、宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆の多くが従属を申し出ました。三河の東端八名郡に在った宇利城の熊谷氏だけが服属を拒んだため、これを包囲して11月23日に攻め落としました。こうして三河国統一を成し遂げました。1530年には尾張に再出兵し、岩崎郷・品野郷を奪いました。松平清康は1万余りの大軍で進軍、1535年12月に清康は尾張に侵入し、織田信秀の弟・信光の守る守山城を攻めました。この時、清康の家臣・阿部定吉が、織田信秀と内通して謀反を企んでいるという噂がありました。このため、阿部定吉は嫡男・正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していました。そして、守山布陣の翌12月29日早暁、松平清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こりました。これを阿部正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた松平清康を背後から斬殺してしまいました。亨年25でした。阿部正豊がこの際に使ったのが「村正」でした。阿部正豊はその場で植村氏明により、成敗されました。しかし、父・定吉は松平広忠に許されました。後に松平広忠も「村正」を持つ家臣・岩松八弥によって殺害されます。この時も、植村氏明が成敗しました。以後、「村正」は徳川家に災いをもたらした不吉な刀「妖刀村正」と呼ばれ、徳川家は「村正」を忌避するようになりました。松平清康の死後、松平氏は嫡男・広忠が継ぎましたが、広忠は若年の上に凡庸な人物だったため、尾張から侵攻してくる織田信秀の脅威に耐えられませんでした。三河国は松平氏の一時的な没落で、尾張の織田氏と、駿河国・遠江国の今川氏の草刈り場となってしまいました。松平清康によって平定された渥美郡の戸田氏、宝飯郡の牧野氏が再び自立し、三河の諸豪族も次々と松平氏から離反し、松平氏の勢力は清康の死去により大きく衰退しました。松平広忠は嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏に差し出す事となります。松平氏が再び三河を再統一するのは清康の死から約30年後の1566年で、清康の孫・家康によってでした。

次に、大坂冬の陣:博労淵の戦い、野田・福島の戦いです。
博労淵の戦い:豊臣方は木津川口砦とともに、木津川沿岸の守備のため博労淵に砦を築き、薄田兼相を守将に兵700で守備させていました。木津川口砦陥落後もそのままになっていました。これに対して徳川家康は大砲で砦を攻撃するため、水野勝成と永井直勝に命じて狗子島(木津川の中州)に仕寄(塹壕)を築かせました。仕寄は12月28日に完成し、水野勝成はこれを家康に報告したところ、蜂須賀至鎮の家臣がこの事を聞き付けました。蜂須賀至鎮は木津川口砦攻略後も同地に布陣していましたが、水野勝成が博労淵砦を攻略する前に砦を落とそうと考え、徳川家康に「博労淵の守備兵が荻に隠れて銃撃してくるため、付近一帯の荻を刈り取らせてほしい」と願い出ました。ところが、家康は石川忠総に荻の刈り取りを命じました。石川忠総は荻を刈り取った後、狗子島の南にある葦島(木津川の中州)に陣取り、博労淵砦に銃撃を加えて守備兵を牽制しました。このため。蜂須賀至鎮は夜中のうちに木津川口に仕寄を構築し、攻撃準備に取りかかりました。12月29日、石川忠総は夜明けと共に州を渡って進撃しようとしましたが、ちょうど満潮時だったため渡河できませんでした。石川軍は九鬼守隆から船3隻を借り受け、狗子島の北方から渡河、砦に攻撃を仕掛けました。蜂須賀軍も南方から攻撃をかけました。守将・薄田兼相は前夜から遊女屋に泊まり込んで不在だったため、守備兵は統制が取れずに砦は陥落しました。留守将の平子正貞は、葦原に逃げ潜んでいたところを池田忠雄の家臣に見つかり討ち取られました。薄田兼相はこの失態により「橙武者」と味方から嘲りをうける事になりました。
野田・福島の戦い:豊臣方は、天満川と木津川の合流点付近に水軍の主力を停泊させ、そこに面した野田・福島地区西南端、新家に船倉を築いていました。これを守備する目的で、下福島の五分一に三重の柵と櫓を造り、大野治胤が指揮する兵800を置いていました。さらに上福島にも砦を設け、宮島兼与が指揮する兵2500で守備していました。幕府軍の九鬼守隆、小浜光隆、千賀信親、向井忠勝らは12月19日〜12月26日に水軍を率いて何度かこの流域に侵入し、小競り合いが発生していました。12月28日夜半、九鬼、向井、千賀軍は五分一を急襲しました。大雨の中、多勢の襲撃に守備兵は怖じ気づいて天満方面へ逃げてしまいました。12月29日未明、池田忠雄、戸川達安はそれを知らずに遅れて攻撃にかかりましたが、既に敵が逃げた後である事に気づき、そのまま上福島の砦まで進出して付近を放火し、そこに陣取りました。
翌日、豊臣軍は残りの砦を破棄して大坂城に撤収しました。

その次に、山城屋事件です。山城屋和助(本名・野村三千三)は、幼少時に両親と死別して萩の寺「龍昌院」に預けられ、僧侶となりました。1863年に還俗し、高杉晋作が創設した「奇兵隊」に入隊しました。山県有朋の部下として「戊辰戦争」に参戦し、越後口で「御陵衛士」残党の篠原泰之進や高鍋藩兵と共に戦いました。「明治維新」後に山城屋和助と名を変えて、新政府の軍政に携わるようになった山県有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜や東京に店を出しました。長州人脈を活かし、軍需品納入の商売が繁盛しました。1872年には山県有朋ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出しました。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして、山城屋から多額の献金を受けました。しかし、ヨーロッパでの生糸相場の暴落で投機は失敗し、山城屋は陸軍省から更に金を借りて、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡りました。その後、一人の日本人がフランスで豪遊しているという情報が、フランス駐在中弁務使・鮫島尚信やイギリス駐在大弁務使・寺島宗則の耳に入り、日本の外務省・副島種臣外務卿へ連絡されました。山城屋の一件を聞いた陸軍省会計監督・種田政明が密かに調査を始め、多額の陸軍省公金が貸し付けられていた事が発覚しました。桐野利秋ら薩摩系陸軍人の激しく追及するところとなりました。山県有朋は、陸軍中将・近衛都督を辞任しました。翌1872年に江藤新平が率いる司法省による本格的な調査が始まろうとした時、山県有朋から至急の返済を求められました。山城屋和助は公金返済が不可能であったため、陸軍省内部で割腹自殺しました。その際、関係する帳簿と長州系軍人の借金証文類も焼き払われたため、事件の真相は解明される事なく、陸軍省会計監督長・船越衛の処分をもって終了しました。

その次の次に、易幟:張学良が降伏により蒋介石の北伐が終了し、中国国民党が中国を統一です。1928年6月4日に発生した「張作霖爆殺事件」により、張作霖の子・張学良は父の地位を継承するため、瀋陽に引き返しました。7月1日、張学良は国民革命軍に停戦を宣言し、蒋介石の北伐に干渉しない事を表明しました。そして、北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石が率いる国民政府の旗である「青天白日満地紅旗」に旗を換え、国民政府に降伏する事にしました。満州の地に基盤を築いていた日本は、張学良の動きに対して満足していませんでした。首相・田中義一は林権助を派遣し、張学良に対して翻意を迫りましたが、張学良は日本の要求を拒絶し、中国統一へと動き出しました。7月3日、蒋介石は北京に到着すると、平和裏に中国統一を行うために派遣された奉天派の代表と会談しました。蒋介石が満州を統合する事をアメリカ合衆国が支持していた為、この会談の内容は中国における日米の勢力範囲の奪い合いを反映したものとなりました。アメリカ合衆国とイギリスの圧力により、日本は外交的に孤立しました。そして、12月29日に蒋介石は、満州における全ての旗が換わった事を宣言し、満州に国民政府の支配権が及ぶ事を受諾しました。国民政府は、張学良を中国陸軍の司令官にする事を約束しました。この「易幟」により蒋介石の「北伐」は終了し、中国国民党が形式的に中国を統一しました。形式的と言われるのは、統一された国民政府の実態は「中国国民党」で固められたものではなく、閻錫山、馮玉祥、李宗仁ら各地の軍閥を糾合したものでした。毛沢東が率いる「中国共産党」は各地で解放区を建設中で、満州の「張学良政権」も地方政権として自立していたからです。

最後に、上越線の清水トンネルが貫通です。清水トンネルは上越線の群馬県と新潟県の間にあるトンネルです。名称は、付近にある清水峠から名付けられました。清水トンネルができる前の関東地区と新潟を結ぶ鉄道は、高崎から碓氷峠を越えて長野・直江津経由となっていました。これが新潟県(越後)へ行くメインルートで、信越本線と呼ばれていました。途中に難所の碓氷峠があり、関東と新潟の往来は非常に不便でした。1914年に磐越西線が全通し、東北本線と同線を使用して向かう事も出来るようになりましたが、遠回りである事に変わりはありませんでした。群馬県の水上から新潟県の越後中里まで、その間にそびえる谷川岳の中腹を貫いて、7つの単線トンネルが掘削されました。谷川岳の山体は「閃緑岩」と呼ばれる硬い岩でしたが、工事自体は丹那トンネルのような悪戦苦闘の難工事ではありませんでした。群馬側・新潟側の両方にループ線を設置して高度を稼ぎ、土合駅と土樽駅間の本トンネル(清水トンネル)の長さを出来るだけ短縮しました。これにより、新潟と上野の間が路線距離にして98km短縮されたうえ、碓氷峠の難所を通らずに済む効果で、到着時間が約4時間も短縮されました。その結果、新潟地区と首都圏の交通事情が飛躍的に改善されました。また、この県境の長大なトンネルは、さまざまな点から注目を集めました。開通後、川端康成が越後湯沢(湯沢町)を訪れるようになり、その経験を元に1935年から執筆されたのが有名な「雪国」です。小説冒頭の「国境の長いトンネル」が、完成したばかりの清水トンネルでした。また、トンネルの上にそびえる谷川岳は、この線の開通により首都圏から手軽に行ける本格的山岳として大人気となりましたが、冬の雪の多さと岩壁の厳しさは多くの遭難者を出し、「魔の山」と呼ばれるようになりました。戦後の経済成長で新潟への交通量が増え、これに対応するために上越線の複線化が実施されました。これにより、「新清水トンネル」が誕生しました。これにより、「清水トンネル」は上り(東京方面)専用、「新清水トンネル」が下り(新潟方面)専用となりました。さらに、上越新幹線建設により「上毛高原駅」と「越後湯沢駅」の間に「大清水トンネル」が誕生しました。全長22.2kmは、当時世界最長だったスイス連邦鉄道のシンプロントンネル(19.8km)を抜いて、世界一(1983年1月の「青函トンネル貫通」まで、山岳用としては2000年9月の東北新幹線「岩手一戸トンネル」貫通まで)となりました。しかし、この工事で16名の死者を出してしまいました。建設中に湧水に悩まされましたが、この水が非常に美味であった事から、ミネラルウォーターや清涼飲料水などに利用されて販売されました。これが「名水・大清水(おおしみず)」です。この名称は「おいしい水」をもじったものです。現在は「From AQUA〜谷川連峰の天然水〜」として販売されています。

今日の誕生日:アンドリュー・ジョンソン(第17代アメリカ合衆国大統領)、田中絹代、三遊亭圓楽(5代目)、Mr.マリック、浜田省吾、高円宮憲仁親王、桜金造、早乙女愛、岸本加世子、越前屋俵太、鶴見辰吾、浅井健一(元BLANKEY JET CITY)、加勢大周、Mina(MAX)、青山倫子、押切もえ、荒川静香、錦織圭、佳子内親王、生駒里奈(元乃木坂46)、村田寛奈(9nine)、サナ(TWICE)、若島津健

今日の記念日:清水トンネル貫通記念日、シャンソンの日、福の日

今日の「今日訓」:本日は、1929年12月29日に上越線の清水トンネルが貫通した事で「清水トンネル貫通記念日」、1990年12月29日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した事で「シャンソンの日」、お正月前の「ふ(2)く(9)」の語呂合わせで「福の日」となりました。
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